第44話:偽りの猫、撤退ス
――シングウ城・回廊――
御前会議が終わってなお、廊下には“鳳凰の間”の緊張が残っていた。
静寂の中を、ガスポールとシシンの足音だけが淡く響く。
やがて、人の気配が完全に途切れたところで、老顧問は歩みを止めた。
その背に漂う空気が、ほんのわずかに重くなる。
「……シシン。ヒヨリ救出作戦の件じゃが」
穏やかな声音の奥に、鋭い光が宿っていた。
シシンはまっすぐガスポールの視線を受け止める。
「――あの作戦が“事後承認”となったこと、理解しておるな?
先ほどの御前会議でも、フリッツ殿から追及を受けてしまった。
今回は収められたが……二度と同じやり方は通らぬぞ」
ガスポールは深く息を吐く。その声音には叱責よりも哀しみが滲んでいた。
「申し訳ありません。
私の独断で事後承認となり、結果としてヒヨリの“過去に戻る力”を完全に失わせてしまいました。
痛恨の極みです。……今後は必ず事前にご報告します」
短く、しかし迷いのない謝罪だった。
ガスポールはその言葉を受け、ゆっくりと頷く。
「……お主の誠意は伝わった。
わしはお主たちを信頼しておるが……あれ以上の規律違反は、
さすがのわしでも庇いきれんかもしれぬ」
「心得ております」
ガスポールは再び歩みを進めながら、声を少し落とした。
「……まあよい。それよりも――ヒヨリのことじゃ」
その名が出た瞬間、シシンの表情が引き締まる。
「御前会議でも話した通り、ヒヨリの解放は正式に決定した。
じゃが今の彼女の心は脆い。下手に刺激すれば、完全に閉ざしてしまうやもしれん」
シシンは無言で頷く。老顧問の言葉の重さを噛みしめるように。
「……そこで、頼みがある」
ガスポールは立ち止まり、シシンへと向き直った。
群青の瞳には、知恵と疲労、そしてかすかな期待が混じっていた。
「“猫”の正体がミロであったこと、そして“メモリア・ロード”の件――
これらは当面、ヒヨリには伏せておいてほしい。
そのうえで……お主が“猫”として、ヒヨリに解放の決定を伝えてやってくれぬか」
シシンの瞳がわずかに揺れた。
「……猫として、ですか」
「うむ。
今の彼女が信頼を寄せられる存在は、もはや“猫”だけじゃ。
ミロについては、ゼーマン家の反逆行為の犠牲者――今はそう説明すればよい。
それが、彼女の心を保つ最善の策であろう」
ガスポールの言葉に、シシンの胸は痛んだ。
ヒヨリを苦しめないためとはいえ、真実を伏せることが正しいのか迷いが生じる。
「……それが、本当にヒヨリのためになるでしょうか?」
その問いに、ガスポールはしばし沈黙した。
そして、わずかに眉を下げ、老いの滲む穏やかな声で答えた。
「正直、わしにも確信はない。
じゃが、毎朝ヒヨリの顔を見ているわしからすれば――
あの子に、これ以上の痛みを背負わせたくはないのじゃ。
今の彼女に必要なのは、真実よりも“希望”じゃろう。
……とはいえ、最終的な判断はお主に任せる。
実際に彼女と話し、もし真実を伝えるべきだと感じたなら――その時は、ためらわず伝えるがよい」
深い皺の刻まれたその横顔には、責務と慈愛が入り混じっていた。
シシンはその姿に、言葉を失う。
胸の奥に迷いを抱えたまま、それでも静かに頭を垂れた。
「……理解いたしました。責任をもって、私が参ります」
◇
――そして静寂の夜。
シシンは“猫”の姿へと変身すると、静かに拘置所へと向かった。
毛並みを撫でる冷たい夜気が、どこか心を研ぎ澄ませていく。
歩き方も、声の抑揚も、ミロの記憶を頼りに――
それをなぞるように、鉄格子の隙間をすり抜けた。
ベッドの端に座るヒヨリは、小さな窓から月を眺めていた。
その横顔は、どこか遠い世界にいるように静かで、影のように儚かった。
シシン――いや、“猫”はそっと声をかけた。
「……やぁ、久しぶりだね」
ヒヨリがゆっくりと振り返る。
目に映った小さな姿を見て、驚きと共に微笑がこぼれた。
「……ネコちゃん。来てくれたのね」
「一カ月ぶりくらいだね。僕がいなくて、寂しくなかったかい?」
猫――シシンは、ミロの記憶に残る話し方や仕草を慎重に再現しながら、努めて軽い調子を装った。
ヒヨリの瞳の奥に沈んだ影が、胸を締めつける。
それでも悟られないように微笑みを作った。
「えへへ、ネコちゃんじゃなくて、ケーキがなくて寂しかった……のかな?」
「そっかぁ。僕、ケーキに負けちゃったかぁ、残念っ!」
わざと大げさに肩を落とすと、ヒヨリは小さく吹き出した。
その笑顔を見るのが久しぶりだったことに、シシンは改めて気づく。
一瞬、自分の胸が高鳴るのを感じ、思わず戸惑った。
――なんだ……今のは……?
ミロの記憶が自分の心を揺さぶっているのか、その境界が曖昧になっている。
シシンは動揺を押し殺し、努めて穏やかに言葉を継いだ。
「それでね、今日はいい知らせを持ってきたんだ。
君の解放が正式に決まったよ。御前会議で決定されたんだ。
明日にもここから出られるはずだよ」
しかし――ヒヨリはまったく喜ばなかった。
かすかに目を伏せ、淡々と告げる。
「……そう。決まったのね」
その声には、喜びも安堵もなかった。
ただ、深い水の底に沈んだような静けさだけが漂っていた。
シシンは言葉を失う。
……まさか。
ヒヨリにとって「解放」とは、救いではないのか。
それとも……もう、誰にも届かない場所まで、心が沈んでしまったのか。
胸の奥に、鈍い痛みが走った。
今のヒヨリに真実を告げるなど――到底できるはずがなかった。
“猫”の正体がミロだったこと。
ミロが、ヒヨリを守るために命を賭して“メモリア・ロード”を使い、記憶を託したこと。
その全部を受け止めるには――今のヒヨリは、あまりにも傷つきすぎている。
それを知れば、きっと彼女の心は――完全に壊れてしまう。
そしてシシンは悟る。
ミロがどれほどの愛情と気遣いをもって、絶望の淵に立つヒヨリを支え続けていたのか。
――なのに、俺は。
こうしてヒヨリに会いに来たというのに、
彼女の好きなケーキを持ってくることさえ思いつかなかった。
それどころか、気の利いた言葉のひとつもかけることができない。
そんな小さな思いやりすら届かない自分が、ひどく情けなかった。
迷いと焦りが渦を巻き、しばらく声を出せない。
「……ネコちゃん、どうしたの?」
不安げな声。
ヒヨリがそっと身を乗り出して、猫――シシンの顔を覗き込む。
至近距離に現れたその瞳に、思わず息を呑む。
「えっ、いや、その……なんでもないよ」
声がわずかに震えた。
ヒヨリは首を傾げ、心配そうに目を細める。
「ネコちゃん……体調でも悪いの? 大丈夫?」
その優しい声音が、胸を強く締めつけた。
シシンは慌てて顔をそむけ、深く息を吸って、無理に笑みを作る。
「な、なんでもないってば。ただ……元気な君の顔を見たら、安心しすぎただけだよ」
ヒヨリは一瞬きょとんとした後、くすりと笑った。
「フフ、なにそれ、いつものネコちゃんじゃないみたいだよぉ」
そんなヒヨリの無邪気な反応に、焦りが胸を刺す。
もし、この違和感を悟られれば――
“猫”の中身が変わっていることが露見してしまうかもしれない。
それだけは絶対に避けなければならない。
焦燥と罪悪感が絡まり、思考が音を立てて乱れていく。
――俺は……何をやっている。
そもそもヒヨリ救出作戦で、
フウコはヒヨリになり切るため、シスイの地獄の特訓に耐え抜いた。
あの覚悟と鍛錬があってこそ、彼女は“本物のヒヨリ”として舞台に立つことができた。
それに比べて、自分はどうだ。
ガスポール先生の頼みを、重さも理解せずに受け、
何の準備もなくヒヨリの前に立ってしまった。
ヒヨリの心に触れるということが、どれほど繊細で重いことなのか――
それすらわかっていなかった。
だから――このような事態を招いたのだ。
恥ずべきことだが……。
無策のままこの戦場に立った今、自分にできることは、ただ一つ。
即時の撤退しかない。
「……ごめんね、今日はもう行かなきゃ。また来るから」
精一杯明るく声を出したつもりだった。
けれど、その響きは思いのほか弱々しく、頼りなかった。
「えっ、ネコちゃん……もう帰っちゃうの?」
ヒヨリの瞳が揺れた。
不安げにこちらを見つめている。
その寂しげな表情に胸を締めつけられながらも、猫――シシンは何も言えずに振り返った。
鉄格子の隙間を抜け、冷たい夜気の中へ飛び出す。
夜の空気は肌を刺すほど冷たく、石畳を踏むたびに足裏から体温が奪われていく。
何度深呼吸をしても、乱れた鼓動は静まらなかった。
背後でヒヨリの小さな声が微かに聞こえた。
「……またね、ネコちゃん」
かすかに震えるその声が、静かな夜気を切り裂いた。
シシンの足が、ほんの一瞬だけ止まる。
振り返れば、きっと彼女がそこにいる。
しかし、振り返る勇気は持てなかった。
冷え切った月明かりの下、猫はただ――
自分の無力を飲み込みながら、闇の中を駆け抜けていく。
自分がただ逃げているのだということを、痛いほど自覚しながら。
――ヒヨリの呟きだけが、耳の奥でいつまでも消えなかった。




