第41話:ひたすら前に進み続ける
本日、もう一話公開します
「……ヒカル様?」
背後から自分の名を呼ぶ声に、肩がピクリと跳ねた。
振り返ると、そこにいたのは、泥と汗にまみれた制服姿のエミリだった。
息を弾ませ、髪は乱れ、額には小さな傷。
けれど――その瞳だけは、まっすぐこちらを見つめている。
「……エミリ?」
思わず名前を呼ぶ。
エミリは小さく頷き、少し照れくさそうに笑った。
「お久しぶりです、ヒカル様。でも……どうして本館に?」
「ああ、まぁ……ちょっと、散歩がてらな」
曖昧な言葉でごまかす。
エミリは微笑んだが、その息はまだ整わず、頬には汗が光っていた。
「でも……こうしてお会いできて、本当に嬉しいです。
“属性解放の儀”以来、ほとんど顔を見られませんでしたから」
その笑顔は、以前よりもずっと大人びて見えた。
けれど泥に汚れた手を見た瞬間、胸の奥がざわつく。
――エミリも、ずいぶん頑張ってるみたいだな……。
それに引き換え、自分の現状を思うと情けない。
思わず目を逸らした。
「ヒカル様……あの、“属性解放”の結果……気にしていらっしゃいますか?」
唐突にそう言われ、息が詰まる。
「……まぁ、そりゃ気にはするさ。でも仕方ないだろ。
今は乙種にいるわけだし……ま、そこでできることをやるさ」
努めて軽く言ったつもりだった。
けれど、エミリの顔がはっきりと曇る。
「――そんなこと、言わないでください」
小さな声。
けれど、その震えは怒りとも悲しみともつかない。
「ヒカル様、転移者様としての使命を……諦めてしまわれたのですか?」
「え……?」
その言葉が、胸の奥に深く刺さった。
エミリはまだ、俺をこの世界を救う“救世主”だと信じている。
けれど、転移者がみんな特別な力を持っているわけじゃない。
モラタがその証拠だ。
――俺には、そんな力はない。
そう言わなければならないのに、喉が妙に重く、声が出ない。
沈黙を裂くように、エミリが一歩、近づいた。
「ヒカル様は、“水の魔人”から私を救ってくださいました。
この世界に必要だから転移されたんです。
加護がなかったのだって、きっと意味があるはずです」
握りしめた拳が震えている。
泥にまみれたその指先は、痛々しいほど真っ直ぐだった。
「――だから、諦めないでください!」
その叫びが、胸の奥を貫いた。
息が詰まり、エミリの真っ直ぐさが、ただ眩しかった。
結局、口から出たのは取り繕うような言葉だけだった。
「い、いや、諦めたとは言ってないだろ。
だけど、加護が一つも付かなかったのは――事実なんだからさ……」
エミリは黙ったまま、まっすぐこちらを見つめていた。
その視線が、言い訳をすべて見透かしている気がして、息が苦しい。
居たたまれず、慌てて話題を変えるしかなかった。
「そ、そう言えばエミリ、“イチサンセン”に昇格したらしいじゃん。
やっぱり……すごいよな」
一瞬、エミリの瞳がかすかに揺れた。
けれど、それを悟らせまいとするように、すぐに表情を引き締め、誇らしげに胸を張る。
「当然です。これでも私、優秀なんです」
その声の裏に、わずかな震えが混じっていた。
「だよな。……すごい魔法とか、もう使ってるんだろ?」
軽口のつもりだった。
けれど、エミリの目がほんの一瞬だけ泳いだ。
「私だって……」
小さく漏れた声に、思わず耳を澄ます。
だがエミリは、唇をわずかに震わせたまま、続きを呑み込むように押し殺した。
「え? 今、なんて言った?」
問い返した瞬間、エミリは肩を小さくすくめ、目を伏せた。
「……いえ。もういいです。忙しいので、失礼します」
それだけ告げると、振り返ることもなく、王血館本館の中へと消えていった。
……呼び止めようとして、声が出なかった。
廊下に響く足音が、静かに遠ざかっていく。
そしてその音が消えたとき――胸の奥に、どうしようもない空白だけが残った。
◆
やがて、小さな羽音が近づいてくる。
顔を上げると、一羽の魔鳩がこちらへ向かって飛んできていた。
その翼から、かすかな魔力の波が伝わる。
――モラタの魔鳩だ。
掌をかざすと、魔鳩はゆるやかに舞い降り、淡い光を散らして情報を転送していく。
意識の奥に、文字のような声が浮かんだ。
『次の救護訓練、二人一組なんだ。お前が来ないと俺が困るから、絶対来いよな!』
短く、いつも通りの調子だ。
小さく笑みがこぼれた。
――……こんな時でも、あいつは変わらないんだな。
少しだけ胸の重さが和らいでいくのを感じながら、訓練場へと足を向けた。
すでに集合場所では、他の生徒たちが揃っていた。
教師のヨーコが明るい声で告げる。
「みんな集まったかしら? 今日はこの十人で救護訓練を行います。まずは二人一組のチームを作ってね」
周囲を見回すと、モラタと目が合った。
一瞬、さっき怒ってしまったことを思い出して胸がざわつく。
……けれど、モラタは気にした様子もなく、満面の笑みで手を振ってきた。
「よっ、ちゃんと来てくれてよかったぜ。突然飛び出してったから心配したじゃねーか」
思わず苦笑する。
「まぁ、お前を困らせるわけにはいかないからな」
モラタはにっと笑い、軽く俺の肩を叩いた。
「俺たちはコンビだからな! ひたすら前に進み続ける最強のコンビだ!」
「なんだよ、それ。まだそんな昔のこと言ってんのかよ」
懐かしさに、自然と口元が緩む。
あの頃の空気が、少しだけ戻ってきた気がした。
幼い頃、施設育ちの俺たちがくじけそうになるたびにモラタが口にしていた合言葉――
“ひたすら前に進み続ける最強のコンビ”。
久しぶりに聞いたその単純でまっすぐな言葉が、
胸の奥に沈んでいた重さを、ほんの少しだけ溶かしてくれた。
ヨーコが軽く手を叩き、生徒たちの注意を引いた。
「それでは救護訓練を始めます。
この施設には、魔法で生成された“仮想負傷者”がランダムに配置されています。
ペアで協力し、迅速かつ安全に救護してください。
――なお、トラップも仕掛けられているから油断は禁物よ」
その声を合図に、生徒たちがざわめきながら散っていく。
俺はモラタと短く視線を交わし、うなずき合った。
「いくか、最強のコンビ」
「おうよ」
二人で施設の内部へと足を踏み入れる。
――静かだ。
訓練開始直後の喧騒が嘘のように遠のき、
今は自分たちの靴音だけが、石床に乾いた音を刻んでいた。
空気が妙に重い。
息を吸うたび、冷たい圧が胸を締めつける。
天井から垂れる魔導灯の光もどこか鈍く、
まるで空間そのものがゆっくりと呼吸しているようだった。
――何かある。
無意識に立ち止まった。
背中をひやりと汗が伝う。
「モラタ……なんか、おかしくないか?」
俺の声に、モラタが小さく鼻を鳴らす。
「ああ……妙な気配がする。トラップか?」
その瞬間――
床が震えた。
腹の底を叩き上げるような重低音。
壁も天井もギシギシと悲鳴を上げ、訓練施設全体が生き物のように唸りを上げる。
「モラタ、掴まれ!」
俺の叫びと同時に、二人は近くの柱にしがみついた。
直後、足元が光る。
床一面に幾何学模様の光が走り、それがやがて螺旋を描きながら回転を始めた。
眩い紋様が絡み合い、光と闇がねじれながら膨張していく。
空気が圧縮され、響き渡る轟音に鼓膜が痛む。
そして――世界が裂けた。
訓練施設のあちこちに“風穴”が開いた。
それは吹き出す穴ではない。
すべてを、吸い込む穴だった。
悲鳴が爆ぜる。
「きゃああっ!! な、何これっ!?」
ヨーコの声が、崩れ落ちる天井の反響に呑まれて掻き消える。
風穴の奥から、骨を軋ませるような唸りが響いた。
空気が巻き上がり、肌を裂くほどの風圧が襲いかかる。
生徒たちが、一人、また一人と宙へ浮き上がった。
「うわああっ! 先生っ、助けてぇっ!」
掴まろうと伸ばした手が空を切る。
叫びも抵抗も、生徒たちは凶暴な風に呑み込まれていった。
そのたびに赤い鮮血が宙を舞った。
飛び散った血さえも瞬く間に吸い込まれていく。
そして――血液を飲み込んだ風穴はまるで満足したかのように次々と閉じていった。
残響だけが、耳の奥に焼きつく。
「……ッ!!」
俺は柱にしがみつきながら、言葉を失っていた。
ただ、眼前の地獄を見ていることしかできない。
隣ではモラタが蒼白な顔で、歯を食いしばりながら耐えている。
気づけば、残る風穴は――ただ一つ。
その穴の吸引の唸りが、まるで獣の咆哮のように空気を裂いていた。




