第39話:演舞の幕が上がるとき
「私はヒヨリだもんっ……、私はヒヨリだもんっ……」
小さく呟きながら、私は呼吸を整えた。
一か月に及ぶ特訓の日々が、まざまざと脳裏に蘇る。
この精神統一も――シスイに叩き込まれた“ヒヨリ式”の心得だった。
『いざというときは焦ってもいいのよ。
何か失敗しても構わない。――でも、あなたはヒヨリなの。
それだけは絶対に忘れないで』
その言葉の意味が、今になってようやく理解できる。
ヒヨリでありさえすれば、多少の失敗があっても何とかなる。
むしろ、ヒヨリだからこそ――一つや二つの失敗があったほうが自然なのかもしれない。
そう思うと、胸を締めつけていた緊張が少しずつ解けていった。
――うん、大丈夫。今の私はヒヨリなんだからっ……!
意識が「演じる」から「入り込む」へと変わっていく。
『一日ヒヨリ生活』で徹底的に叩き込まれたヒヨリの感覚――身も心も、すべてが一つに重なり、私は自然に“ヒヨリ”へと溶け込んでいった。
――まるで舞台の幕が、静かに上がっていくみたい。
その時だった。
老婆のけたたましい笑い声が、広場を震わせた。
――うそっ、もう始まっちゃったの!?
全身に緊張が走る。
空気がざらりと揺れ、周囲のざわめきが遠のいた。
練習よりもずっと甲高く、狂気を孕んだシシンの声。
耳の奥が震え、心臓が跳ね上がる。
――シシン君……練習のときよりもずっと気合入ってる……!
でも、私だって絶対に成功させるんだからっ!
ぎゅっと両手を握りしめた、その瞬間。
通信機からモンドの声が飛び込んできた。
『まずい、モラタに動きがある』
遅れて爆音が響いた。
地面が揺れ、風が頬を打つ。
空気が一瞬ざらつき、肌が泡立つような違和感を覚える。
『シシン! 二時の方向に魔鳩――モラタのものだ!』
『くそっ、ヒカルまで動き出したぞ!』
鼓動が、さらに激しくなった。
このままでは作戦が崩壊しかねない――想定外の展開だった。
『これ以上好き勝手はさせられない。フウコ、出ろ!
ヒカルとモラタに即時撤退を指示し、民衆の救出を優先させろ!』
ついに出撃命令が下された。
私は深く息を吸い込み、静かに目を閉じる。
次の瞬間、全身の魔力を解き放った。
解き放たれた風が渦を巻き、強烈な上昇気流が私の身体を宙へ押し上げる。
――大丈夫……私はヒヨリだもんっ。
いつも通りにやればいいだけっ……!
空へ上がると、視界が一気に開けた。
下では、ヒカルの放った魔鳩が次々と撃ち落とされていく。
その先には――老婆に化けたシシンと、その配下に扮したシスイ。
さらに、混乱の中に立ち尽くすヒカルとモラタの姿が見えた。
――さぁ、ヒヨリちゃん。ここからが本番だよぉ!
胸に手を当て、息を整える。
心の中でカウントを取るように一拍置き――
勢いよく、ヒヨリらしい第一声を放った。
「もぉ、せっかく倒したのに~!
復活しちゃうなんてダメなんだよぉ? プンプンなんだからねっ!!」
何度も練習を重ねた台詞だった。
空気を震わせるその声は、確かに“ヒヨリ”そのもの。
――うん、完璧だよぉ!
胸の奥でそう呟きながら、そっと息を吐く。
ところが――視線の先にいた“老婆”の表情に、思わず息をのんだ。
老婆に化けたシシンの口元に、笑みが浮かんでいたのだ。
実際には――あの笑みは、『魔獣との戦いで見せた氷魔法』というヒントをヒカルが受け取り、この緊迫した状況でも冷静に正体へ辿り着いてくれたことへの、頼もしさと安堵の笑みだった。
だが、私がそんな理由を理解できるはずもない。
――えっ!? シシン君……どうして笑ってるの……?
ひどいよぉ……。
胸の奥がきゅっと痛む。
全力で“ヒヨリ”を演じているのに、それを笑うなんて――。
心の糸がぷつりと切れた。
頬が熱くなる。
息が乱れ、何をすればいいのかさえ分からない。
頭の中が真っ白になった。
――もう……恥ずかしくてできないよぉ……。
それでも身体は、まだ“ヒヨリ”の動きを続けていた。
シスイに叩き込まれた特訓の成果だった。混乱して右往左往する姿が、逆に“本物のヒヨリ”の動きそのものになっていたのだ。
「愚かな小娘め……! 自らワシの前に再び姿を現すとはな!」
老婆――シシンの怒声が、広場に轟く。
次の瞬間、鋭い風の刃が私の周囲を切り裂いた。
――えっ、ちょっと待ってぇ! いきなり過ぎるよぉ……!
あれほど段取りを練習したのに、防御姿勢を取ることさえ忘れていた。
強烈な風の刃が全身を切り裂き、鮮血が舞う。
衝撃に耐えきれず、私は空中でバランスを崩した。
風の唸りが、耳の奥で遠ざかっていく。
舞い上がる血。遠ざかっていく空。
それでも、かろうじて意識を繋ぎ止めた私は、広場を見下ろした。
避難誘導をするヒカルとモラタ。
怯えながらも空を見上げる民衆たちの姿が、ぼやけた視界の中にはっきり映っていた。
「ヒヨリ様だ……! ヒヨリ様が私たちを守ってくださってる!」
「私たちのために無理をして来てくださったんだ……!」
「あれは魔女の使徒です! 『再び蘇った』と言っていました!!」
声援が次々と上がる。
その一つひとつが、意識を失いかけていた私の耳に強く響く。
――だけど、その直後だった。
老婆の放った無数の風刃が、再び私を襲う。
抵抗する力なんて、もう残っていない。私は反射的に目を閉じ、迫る衝撃に身を固めた。
ところが、いつまで経っても攻撃は届かない。
おそるおそる目を開ける。
視界を覆っていたのは――燃え盛る炎だった。
私の周囲を取り囲むように、灼熱の炎が渦を巻き、襲いくる風刃を次々と呑み込んでいく。
――これって……まさか。
混乱していた頭に、ようやく記憶が蘇る。
そうだ、これはカイエンの魔法だ。
あたかもヒヨリが火属性の力を発動したかのように見せる――“演出”の一部。
――そっかぁ、そうだよぉ。
この次は、私が反撃する番だ……。
私は息を整え、視線を横に流した。
離れた位置に潜むモンドとカイエンが、静かに頷いている。――準備完了の合図だ。
「何回復活しても同じなんだからぁ!!」
右手を高く掲げる。
その瞬間、地面が砕け、無数の岩石が猛烈な風とともに宙に舞い上がる。
直後、それらの岩石は一斉に業火を纏い、轟音とともに老婆――シシンと、その配下――シスイめがけて襲いかかった。
「二度も同じ手を喰らうと思うてか!!」
老婆が咆哮とともにその場から離れようと急ぐ。
だがそれより早く、四方を取り囲むように巨大な土壁がせり上がった。
逃げ場を失った老婆は歯噛みしながら、迫る炎の奔流を迎え撃つしかない。
「ぐぬぅっ……! またしても……またしても姑息な手を使いおってぇ……!」
風の刃が次々と迸る。
だが、炎を纏った岩石群は止まらない。
衝突音と爆炎が重なり、世界が赤く染まった。
「ぐわあああああああっ……!!」
「ぎゃぁぁぁああっ……!!」
二人の悲鳴が、炎と煙の中に溶けて消えた。
やがて炎が鎮まり、土壁が音を立てて崩れ落ちる。
そこに残っていたのは――黒焦げに焼けた大地と、砕け散った無数の岩石の残骸だけ。
老婆とその配下の姿は、跡形もなく消えていた。
一瞬の静寂――。
それを破るように、歓声が爆発した。
「ヒヨリ様が……魔女の使徒を倒したぞ!!」
「修道院を襲ったのは、あの魔女の手下どもを討つためだったってことだろ?」
「やっぱりヒヨリ様は悪くなんかなかったんだ!」
「ヒヨリ様こそ正義だ! 俺たちの英雄だぁぁああ!!」
群衆が一斉に沸き立ち、拍手と歓声が津波のように広場を包んだ。
ヒヨリの姿をした――私は、血に染まった体を支えながら、空中でゆっくりと微笑み、震える手を掲げた。
その仕草ひとつで、歓声はさらに大きくなる。
誰もが、私を“本物のヒヨリ”だと信じて疑わなかった。
――演舞は、成功だ。
私は風を纏い、静かに空を離れた。
背後に響く歓声が、次第に遠ざかっていく。
向かう先は、モンドが密かに用意した脱出用の地下トンネル。
その奥では、すでにフェルミミックを解除したシシン、シスイ、そしてモンドとカイエンが待っていた。
「よくやった、フウコ!!」
シシンの大きな声が響く。
緊張が一気に緩み、私はその場にへたり込んだ。
「シシン、あなたのせいで死ぬところだったんだから。
……ま、作戦が成功したから今回は許してあげるけれど」
五人は互いに顔を見合わせ、ようやく張り詰めていた緊張が解ける。
「こんな作戦、二度とやらないんだからねっ!! ……っあ!」
一瞬の静寂。
次の瞬間、みんなが吹き出した。
私は口調がヒヨリに戻ってしまったことに気づき、思わず横を向く。
「……今のは違うの! 癖になってるだけで……」
慌てて言い訳する私を見て、さらに笑いが広がる。
シスイに叩き込まれた“ヒヨリの精神”は、どうやら簡単には抜けないらしい。
シシンは静かに頷き、穏やかな声で言った。
「フウコ、本当に感謝している」
その言葉に、顔がさらに熱くなる。
するとシスイがすかさず胸を張って言い放った。
「でも、フウコ。演技を完璧にこなすには、技術だけでなく何より精神力が不可欠だということ……よくわかったでしょう? 今日の私の演技に、少しでも近づけるよう精進なさい」
全員が心の中で、
(いや、お前ほぼ何もしてないだろ)
とツッコんだ。
それでも、そんな他愛ないやり取りが妙に心地よかった。
作戦の内容を振り返りながら、
それぞれが自分の役割を噛みしめる――。
自分たちの手で大きな勝利をつかんだのだという実感が、ゆっくりと五人に満ちていった。
◆
一方その頃――地上では、まだ熱狂の渦が冷めやらなかった。
ヒヨリの華麗な活躍に歓喜する民衆の中で、ひときわその目を輝かせている人物がいた――モラタだ。
モラタの目には、子供のような無邪気な興奮が溢れていた。
「おいっ、ヒカル! 見ただろ!?
ヒヨリさん、マジで最高にカッコよかったな!? なぁ、ちゃんと見てたか!?」
子供のように興奮する声。
それは、まるで昔の施設にいた頃のモラタの無邪気さ、そのものだった。
あまりの熱量に圧倒された俺は、内心では自分も興奮していたことを隠しつつ、少し余裕を見せて答える。
「あ、ああ……。まあ俺はシシンさんが魔獣を倒した時の戦いとかも見てるからな。
でもまぁ……今日のは特にすごかったんじゃねえの?」
「だろ!?
俺さ、ヒヨリさんが空に現れたとき、マジで泣きそうになったもん!」
モラタの目は、純粋な憧れの光で輝いていた。
その隣で、俺は少しだけ冷静さを取り戻そうとする。
――でも待てよ。
ヒヨリさんって、まだ拘置所にいるはずだよな……。
なのに、どうしてここに来れたんだ?
さっぱり理解できない。
――ただ……あの老婆って多分、シシンさんだよな……。
となると、これはただの戦闘じゃなくて――何か仕組まれた作戦。
頭の中で断片的な答えが形を成していく。
けれど、それ以上のことはわからなかった。
ふと隣を見ると、
モラタはまだ少年みたいに目を輝かせ、興奮した様子で話し続けていた。
その姿を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
――まぁ、いいか。今はこいつの夢を壊さずにおいてやろう。
胸の内に疑問をそっとしまい込み、モラタの熱気に満ちた語りに相槌を打つ。
空を見上げれば、まだ微かに煙のような光が漂っていた。
その余韻を、もう少しだけ――このまま味わっていたかった。




