第31話:夜に消えた約束
その後、猫と何気ない話を続けた。
様々な噂、くだらない冗談――そんな会話は、私の胸のざわつきを少しずつほどいてくれた。
他愛もない話を交わすうちに、前に猫から尋ねられて答えられなかった問い――
『今、君にとって最も信用できる人は誰なのか』――が胸に浮かんだ。
――そうだ。シシン君のことを伝えなくちゃ。
その名を思い浮かべた瞬間、胸の奥にじんわりと灯りがともるようだった。
彼との思い出を語り出すと、不思議と笑みがこぼれてしまう。
まるで凍っていた花が、日差しを受けてぱっと開くみたいに。
猫は黙って私の話を聞いていた。
私が笑うのをじっと見ているその目に、柔らかな光が宿った気がした。
それがどんな意味を持つのかまでは分からない。
でも、不思議と胸の奥が少し温かくなる。
やがて猫は立ち上がり、ゆっくりと鉄格子へと歩き出した。
「遅くなっちゃったね。今日はここまでにしようか」
その背中を見送りながら、私は唇を開きかけた。
けれど声にはならず、ただ黙って見つめるしかなかった。
鉄格子の前で猫が立ち止まり、一度だけ振り返る。
目に焼き付けるような静かな視線に、思わず息を呑んだ。
「またいつか来るよ」
その言葉に胸が揺れ、思わず口をついて出た。
「……明日は……きてくれないの?」
隠そうとしても、声に寂しさと不安が滲んでしまう。
猫は一瞬、かすかに唇を噛みしめてから、小さく息を吐いた。
「……実は、別の仕事が入ってしまってね。
当分、出張に出なければならなくなったんだ」
その声はいつもより低く、ほんの少しだけ遠く聞こえた。
胸の奥に冷たいものが広がるのを感じながら、私は俯いた。
「でも、心配しなくていいよ。君をここから出すための算段は必ずつけておくから」
その言葉を噛みしめるように瞳を閉じ、私は小さく呟いた。
「あなたって……一体、何者なの?」
自分でも驚くほど声が震えていた。
信じたい気持ちと、拭えない不安が胸の中で混ざり合っている。
猫はわずかに微笑んだ。
その笑顔の奥に何が隠されているのか、私には読み取れなかった。
「ハハ、しがない街の便利屋さ」
また、この答えだ。
最初に喋り出した日にも同じことを言っていた。
そんなわけないってことくらい、私にもわかる。
だけど――。
きっと、それが今の私に向けられる精一杯の答えだったんだろう。
最後にもう一度だけ私を見て、猫は静かに独房を去っていった。
再び訪れた静寂の中で、私は鉄格子の向こうをぼんやりと見つめていた
胸の奥に残ったあたたかさはまだ消えず、それがかえって切なく思えた――。
◆
――拘置所の外――
拘置所を出た猫は、夜の闇に溶け込むように、人気のない道を歩いていた。
猫は夜道を歩きながら、独房で見たヒヨリの笑顔を思い返していた。
シシンの名を語ったときに咲いた、あの笑顔を。
――よかった。君にも、あんなふうに心から笑える相手がいたんだね。
三日前、猫が突然ヒヨリを訪れなくなった日。
王血部隊・乙種クラスのダイタが行方不明になった。
そして昨日、そのダイタの遺体が発見された。
全身の血液が完全に抜き取られた異様な状態で――。
猫はこの数日間、ヒヨリを救い出すために奔走していた。
これまで治安を守り続けてきたヒヨリが捕まった途端に発生した異常な事件。
戦闘部隊ではない乙種とはいえ、厳重な警備の王血部隊が狙われたのだ。
偶然であるはずがない。
明確な意図が背後にあると、猫は確信していた。
だが、そのことをヒヨリに伝えることはしなかった。
――……いや、言わなかったんだ。
ようやくヒヨリの心に明るさが戻り始めたところだった。
ここでダイタの悲惨な事件を知らせれば、ヒヨリのことだ――
せっかく取り戻しかけた小さな光は、自責の念に呑み込まれ、
再び深い闇へと沈んでしまうだろう。
「あの笑顔は、二度と曇らせない」
口にしただけで胸がきゅっと締めつけられた。
もしかしたら、これがヒヨリと会える最後の機会だったのかもしれない――。
彼女の笑顔を思い出すと、胸の奥に拭えない嫌な予感がじんわり広がった。
猫は静かに息を吐き、小さく首を振った。
気持ちを切り替えるように、ひとつの決意を固める。
――ヒヨリを、必ずあの独房から救い出す。
君はこんなところにいるべき人間じゃないんだ。
冷え切った夜の空気を肺いっぱいに吸い込んだ、その瞬間だった。
背筋にぞわりと不穏な悪寒が走り、猫は鋭く動きを止めた。
こんな時間、こんな場所に人がいるはずもない。
だが明らかに、何者かの気配が自分を狙っている。
ごく微かな、魔力の揺らぎ。
――まずい……!
とっさに振り返ろうとした、その刹那――。
「ッ……!?」
視界がぐらりと歪む。
背後から放たれた鋭利な“水の矢”が、無防備な腹部を貫いていた。
――加護魔法……素人の仕業じゃない……!
激痛が全身を駆け、心臓が早鐘のように打ち始める。
――くそっ……、悪い予感が当たった……!
水の矢が体内に染み込み、神経を麻痺させていく。
呼吸が苦しくなり、意識が急速に遠のく。
――こんなところで倒れるわけには……!
歯を食いしばり、必死に体を動かそうとするが、
猫は耐えきれずに膝をつき、そのまま地面に崩れ落ちた。
薄れゆく意識の中で、誰かの声が聞こえてくる。
「ターゲット……功です。……ますか?」
ぼんやりとした視界に、黒い影がゆっくりと近づいてくる。
「急ぎ……する……に。……マン様にも……お伝え……け」
「……ました」
直後、腕を鋭く貫いた痛みとともに、
血が抜き取られていく感覚が広がる。
――このままだと、ダイタと同じように殺されるだけだ。
視界が霞む中で、猫はかすかに息を吐いた。
派手に動き過ぎた。ヒヨリを助けようとする自分の存在が、邪魔だと判断されたのだろう。
――だけど、それは俺が王血部隊員として正しい道を歩いていた証だ。
俺がこのまま倒れれば、ヒヨリは処刑台に送られる。
そうなれば、あいつが必死に守ろうとしてきた想いが、誰にも届かず消えてしまう。
――ヒヨリに、そんな未来を見せてたまるか。
それだけは、俺が絶対に許さない。
それに――。
これ以上ヒヨリに格好悪い姿を見せるわけにはいかないからな。
痺れる体に鞭打ち、歯を食いしばる。
微かに魔力は残っている。変身の解除なら、やれるはずだ。
――まだだ。諦めるな。
残された力を振り絞り、猫は深く息を吸い込んだ。
「――うおおおおおっ!!」
眩い閃光が夜を裂き、猫の姿が人へと戻る。
その衝撃で敵がまとめて吹き飛んだ。
一瞬の静寂。
人の姿に戻った猫はゆっくりと体を起こし、ため息まじりに笑みを浮かべる。
――よし、動ける……!
大きな体に戻ったことで麻痺が薄れたのか、指先にじんわり熱が戻ってくる。
かろうじて動く腕に力を込めながら、心の中で呟いた。
――俺、甲種にはなれなかったけどさ……これは甲種級の働きだろ?
……俺を許してくれ、ヒヨリ。
目を閉じ、短く息を吐く。
――じゃあな。
その直後だった。
猫――いや、人の姿に戻ったミロが目を見開き、震える声で叫ぶ。
「禁忌魔法――メモリア・ロード・シシン!!」
眩い光の粒子が弾け、ミロの身体が空間に溶けていく。
「ターゲット消失!!」
敵が一斉にざわめいた。
「何をしている! 絶対に逃がすな!」
「も、申し訳ありません! 拘束も血液採取も完了したはずだったのですが――!」
そこへ、威圧感をまとった男がゆっくりと姿を現し、冷たく言い放つ。
「言い訳など要らん。ミロを見つけ次第、即刻抹殺しろ!」
怒号が夜に轟き、月明かりだけがミロの消えた場所を淡く照らしていた――。




