第30話-2:約束が運んできたもの②
――拘置所・独房――
「全然、少しなんかじゃないっ!!」
余韻が石壁に反射し、やがて静寂に吸い込まれていった。
心臓の音だけが、耳の奥でどくどくと響いていた。
はっとした。
しまった……今の反応は、未来が見えるって認めたも同じかもしれない。
「えっとね……その……」
焦りで喉が渇き、舌がうまく回らない。
「嫌がらせがあったのは本当なんだけど……
未来が見えるとか、そういうのじゃなくって……」
必死に言葉を繋ぐ。
でももう、猫と目を合わせることはできなかった。
猫はゆっくりと瞬きをした。
その瞳には驚きよりも深い痛みが宿っていて、
胸の奥が締めつけられているように見えた。
「……ごめん」
押し殺した、小さな声。
「……そっか」
私が顔を上げるより早く、猫は唇を噛みしめて言葉を継いだ。
「君は、ずっと、ずっと苦しんでいたんだね……」
その響きは、ただの慰めじゃなかった。
自分の中にも同じ種類の傷を抱えている者の声――
そう思えるほどに、静かで重たかった。
喉がひくりと鳴る。
胸の奥に何か硬いものが詰まったみたいで、呼吸がうまくできない。
「あっ……えっと……ネコちゃんが謝ることじゃないっていうか……
その、昔の話だし、今はもう全然平気だから……」
かすれた声で震えた。
フォークを握り直して、どうにか気持ちを立て直そうとした。
未来が見えることに気づかれたかもしれない――
その事実の方が、過去のトラウマよりも気になっていた。
「ええっと……」
これ以上この話を続けたら、心の奥を覗かれてしまう。
そんな予感がざわざわと広がる。
――話を変えなきゃ。何でもいいから。
私は小さく息を吸い込み、無理やり声を弾ませた。
「……そうだっ! エミリちゃんのこと、聞いてもいい?」
猫は、私がわざと話を逸らそうとしているのに気づいているようだった。
けれど、問い詰めてくる気配はない。
ただ静かに受け止めてくれている――そんな気がした。
……どうして?
本当なら追及されてもおかしくないのに。
それなのに猫は、私を優しく包み込んでくれるかのようだった。
あの日、私が何を見て、どんな選択をし、誰を守ろうとしたのか――
猫は知らないはずだ。
それでも、私の選択を「この国を守るためのものだ」と無条件に信じてくれているようにすら思えた。
「……あの試合はね」
猫は小さく息を吐き、慎重に言葉を選ぶように声を落とした。
「エミリ君にとっては、少し……酷だったと思うよ」
皿にフォークの先が触れた。
カチリ――
静まり返った独房の中で、その音だけがやけに大きく響く。
「……酷だった?」
その言葉に、猫の耳がぴくりと揺れる。
「そうなんだ」
一拍置いて、猫は語り始めた。
「ハルナ君が抜けた穴を埋める形で、
エミリ君が一期生に加わることになったのは話したよね?」
私は小さく頷く。
「試合前、エミリ君は気合十分だったよ。
朝の食堂でも、シシン君から期待の言葉をかけられていたしね」
猫はそれまでスフィンクスのように構えていたが、
ゆっくりと立ち上がり、歩きながら続ける。
「……だけど、一期生たちとの力の差は、比べものにならないほど大きかったんだ」
「フウコ君は、シスイ君に一対一で戦うことを提案した。
条件は“互いにエミリ君への攻撃は一切しない”というものだった。
シスイ君もそれを受け入れた」
猫は小さく間を置き、さらに続けた。
「その一方で、フウコ君はエミリ君にこう告げたんだ――
『あなたは、誰をどう攻撃してもいい。その結果、もしポイントを積み重ねられたなら、あなたを班長として認める』って」
指先に力がこもり、私はフォークを強く握りしめていた。
「そんな……」
猫は静かに頷く。
「屈辱だったはずだ」
その言葉が独房の冷気に溶け、ひどく重く響いた。
猫は短く息を吐き、ゆっくりと試合の光景を語り始める。
「それでもエミリ君は、試合が始まるとすぐに属性解放し、攻撃の準備に入ろうとしていたよ」
「だけどその時点で、フウコ君とシスイ君は、すでに激突していた。
速さも、反応も、何もかもが違いすぎたんだ」
私はゆっくりと首を横に振る。
「“属性解放の儀”が終わってまだ間もないし……仕方ないんだよぉ……」
猫は軽くまばたきをして、淡々と続ける。
「それでも彼女は食らいつこうとした。
火と土の魔法を放ち、二人の戦いの間に割って入ろうとしたんだ」
「だけど、火はシスイ君の水に、土はフウコ君の風に、いとも簡単にかき消された。
その瞬間、エミリ君の顔に走った焦りと動揺……忘れられない。
それでも、必死に攻撃を繰り返していたよ」
「単調な攻撃だと、有利属性の相手には…………通じないんだよぉ……」
「……そうだね。
結局、エミリ君は二人の激闘に入り込むことすらできなかった。
フウコ君とシスイ君の戦いだけが、ただ続いていった」
猫の言葉に合わせるように、私の脳裏に試合の光景が描かれていく。
風と水がぶつかり合い、轟音と閃光が交錯する――。
その中で、一期生の二人に必死に食らいつこうとするエミリちゃん。
諦めずに、何度も魔法を放ち続ける。
けれど攻撃は届かない。
相手にすらされない。
まるで、そこに存在すらしていないかのように。
想像するだけでも胸が締めつけられ、熱いものが込み上げてきた。
想像の中のエミリちゃんの顔は、悔しさと虚しさに歪んでいて、痛々しいほどだった。
フォークをそっと皿の上に置いた。
さっきまでケーキを楽しんでいたはずなのに、もうそんな気分ではない。
視線を落とし、ふぅと静かに息を吐く。
その吐息は、独房の冷たい空気に溶けて消えていった。
「エミリちゃん……」
思わず名前が零れ落ちる。
猫はその声に反応し、目を細めて小さく息を吐いた。
「最終的には、フウコ君の速さが決め手になった。
シスイ君より僅かに早く勝利ポイントを積み上げて、試合は終わったよ」
私はそっと拳を握った。
猫はその仕草を見つめ、しばらく黙っていたが、やがて重たげに口を開いた。
「……エミリ君にとって、トラウマにならなければいいんだけどね」
その声には、かすかな憂いがにじんでいた。
けれど、私はすぐに首を横に振った。
不思議なほど、はっきりとした声が出ていた。
「違うよ、ネコちゃん。彼女はそんなに弱くない。
きっとこの経験が、エミリちゃんをもっと強くするんだよぉ」
言葉にした瞬間、胸の奥にストンと何かが落ちた気がした。
同時に、フウコちゃんたちの姿が脳裏に浮かぶ。
――そっかぁ……。
口元が、自然と緩む。
――フウコちゃんたちも、エミリちゃんにすっごく期待してるんだ。
だからこそ、あんなに厳しく……。
猫の瞳がかすかに揺れた。
◆
尾がふわりと揺れ、猫は、胸の奥に鈍い痛みを感じた。
これこそが、魔女との戦いを宿命づけられた王血部隊・甲種に背負わされた責務。
その片鱗が、いま確かに目の前にあった。
「そっか……。そうかもしれないね」
ここにいるのは、独房に閉じ込められながらも仲間を想い、愛し、信じ続ける少女。
彼女が何を守ろうとしているのかまでは分からない。
けれど、その姿を目にすると、胸の奥にどうしようもない切なさが広がっていく。
猫は小さく息を吐き、尾をひと振りした。
独房の冷たい空気が揺らぎ、ヒヨリの吐息とひとつに溶けていった。




