第30話-1:約束が運んできたもの①
長くなったので二話に分けます。
――拘置所・独房――
重たいまぶたを持ち上げると、冷たい石壁が目に入った。
けれど胸の奥には、かすかな温もりが残っている。
――そうだ……シシン君がいた。
私を信じてくれている人が……ちゃんといたんだ。
その事実を思い出した瞬間、熱いものが頬を伝った。
あとからあとから溢れる涙を、手の甲でぬぐう。
そのとき――。
視界の隅で、何かがひょいと揺れた。
顔を上げると、鉄格子の隙間からじっとこちらを覗いている影がある。
あの猫だった。
見慣れたはずのその顔なのに、涙が一瞬で引っ込み、胸がどくんと跳ね上がる。
「……ネコ、ちゃん?」
鉄格子の向こう側から、じっと私をのぞき込んでいる。
いつものように飄々とした表情で、しかし、その瞳だけは、どこか真剣にヒヨリを見つめていた。
「な、なんで……!? 本当に……?」
思わず声が漏れる。
動揺する私を前にして、猫は何事もなかったかのように歩み寄ってきて――
しかも両腕には、大きな箱まで抱えている。
「やぁ、調子はどうだい?」
あまりにのんきな第一声に、思考が一瞬止まった。
来てくれたのは嬉しい。けれど三日も待たせておいて、その挨拶はどうなの。
猫は気にも留めず、
尻尾をひと振りしながら鉄格子の前にしゃがみ込み、箱をそっと置いた。
その動きは優雅で、自信に満ちている。
――いやいやいや……ちょっと待って。
三日も遅れてきて、その余裕、何なの……?
私だって、皮肉の一つや二つは言いたくなる。
「明日って言ってたのに、ちょっと来るの遅くないかなぁ?」
小さく口をとがらせて言い放つ。
けれど、どうしても視線はその箱に吸い寄せられてしまう。
あれはきっと――待ちに待ったケーキだ。
猫は尻尾をゆらりと揺らし、肩をすくめた。
「悪いね、少しばかり事情があってさ。
でも……そんなにケーキが楽しみだったのかい?」
わざとらしく意地悪な笑みを浮かべ、顔を覗き込んでくる。
その言葉に、思わず眉がぴくりと動いた。
「べ、別にケーキのために待ってたわけじゃないんだからっ!」
慌てて言い返した瞬間、自分で墓穴を掘った気がして心臓が跳ねる。
頬がじわじわと熱くなり、思わず目をそらしてしまった。
「ハハ、ごめんごめん。冗談さ」
猫は楽しげな笑みを消し、ふっと表情を引き締めた。
「じゃあ――君が知りたがっていた、王血部隊の近況を話そうか」
……話は聞きたい。
でも、本当はケーキも大事。
目の前にケーキがあるのに話だけ先にされても、集中できる気がしない。
「で、でも……その……せっかくケーキがあるんだし、
早めに食べた方がいいと思うんだけどぉ……」
遠回しに催促すると、猫は小首をかしげ、口元をにやりと歪めた。
「ふぅん? さっきは『ケーキなんて待ってない』とか言ってなかったっけ?」
「うっ……」
またもやペースを握られ、思わず頬をふくらませる。
猫はそんな様子を愉快そうに眺め、軽く手を広げた。
「わかった、わかった。お姫様の願いとあらば仕方ない」
そう言って、ゆっくりと箱の蓋を開ける。
ふわりと漂う甘い香り。白い生クリームに包まれた大きなケーキが姿を現した。
「うわぁ……」
思わず声が漏れる。
その瞬間、それまで胸の中に溜まっていた重たい気持ちが、雪のようにすっと溶けていった。
――ほんとに……大きい。
猫は満足げに微笑み、鉄格子の前にケーキをそっと置いた。
「どうぞ、お姫様。特別なデザートを召し上がれ」
その言葉に、私はゴクリと唾を飲み込んだ。
こんな大きなケーキを食べたら、絶対にカロリーオーバーだ。
太りやすい体質が気になってしまう。
だけど、独房に入ってからずっと、あれだけ粗末な食事で過ごしてきたんだし…。
それに、ちょっと痩せた気がするし……。
だから今日は――少しくらい、自分を甘やかしたっていいよね。
必死に言い訳を探しながら、私は潤んだ目でフォークをそっと握った。
ふわふわのスポンジが、軽く力を入れるだけで沈み込む。
持ち上げれば、生クリームの甘い香りがふわりと鼻先をくすぐった。
「ネコちゃん……ありがとぉ!」
込み上げる喜びに頬が緩み、私はひと口、大切に味わうようにケーキを口に運んだ。
「……おいしいっ!」
幸せすぎて涙が出そうになる。
猫はそんな私を見て、どこか安心したように目を細め、静かに頷いた。
「喜んでもらえてよかったよ」
猫は姿勢を正し、前足をきちんと揃える。
まるでスフィンクスのように構えたその姿に、自然と背筋が伸びる。
「それじゃあ、君が知りたがっていた、王血部隊・二期生の近況を話そうか」
甘い余韻を残したまま空気が少しずつ引き締まっていった。
◆
猫の口から語られたのは――。
・甲種クラスの子たちは全員、無事に過ごしていること。
・そしてヒカル君には、どの属性の加護も現れず、いまガスポール先生のもとで調査が続けられていること。
その報せに、私は胸の奥からふっと息を吐いた。
みんなが無事――それだけで救われた気がした。
けれど、ヒカル君が「無属性」だと聞いた瞬間、胸の奥にひやりと影が差した。
……そう、私は知っていた。
二期生を救うために『属性解放の儀』を何度も繰り返すなかで、彼には加護が宿らないということを。
「……そうだよねぇ」
結局、口から出たのはそんな軽い言葉だけ。
その時、猫の耳がわずかに動いたような気がした。
「それと、ハルナ君の離脱に伴って班が再編されたんだ。
新しい班長を決める試合も行われたよ」
私はフォークを皿に置き、そっと尋ねる。
「……ガブリエウ君は、どんな様子だったのかなぁ?」
「彼は――ルール違反の魔法を使って失格になったよ」
「そっかぁ」
驚きはなかった。
むしろ、胸の奥である意味納得してしまうような気持ちが鈍く沈んだ。
私が横目で猫を見ると、猫の耳がぴくりと揺れていた。
「試合の中身はこうだよ――」
猫は淡々と、でも要点だけを選んで話してくれる。
私は相槌を打ちながら耳を傾ける。
ときどきケーキを小さく切って口に運ぶたび、甘さが気持ちを平らにしてくれた。
話がひと区切りついたところで、猫が私をまっすぐ見る。
「……ひょっとして、君って、未来が見えているのかな?」
フォークの先が空中で止まった。
心臓がどくん、と一度だけ大きく跳ねて、呼吸が浅くなる。
「え、えええ? な、なに言ってるのかなぁ……そんなの、見えるわけないよぉ……」
フォークを握ったまま、慌てて視線をそらす。
「その……王血部隊に新しく入った子のことが、ちょっと気になっただけで……」
私はケーキにフォークを突き立てた。
ぐさり、と力が入りすぎて、生クリームがはねて皿に散る。
指先がかすかに震えているのを、必死で隠そうとした。
皿の縁を拭いながら息を整える。
甘い香りがふわりと立ちのぼるのに、胸の奥はざわついたままだった。
そのとき、猫の低い声が落ちる。
「……君が“未来が見える”って言わなくなったのは、
幼い頃、それで少し嫌がらせを受けたから……だったりするのかな?」
静かな言葉が、まるで刃みたいに心に刺さった。
私は思わず手を止め、喉の奥がぐっと詰まる。
「あれが……“少し”?」
声が震えていた。
頭の中に浮かぶのは、ミロたちの顔。嘲笑。冷たい視線。突き刺さる言葉。
――“ヒヨリぼっち”。
「ふざけないでっ!!」
怒声が独房に響いた。
「全然、少しなんかじゃないっ!!」
余韻が石壁に反射し、
やがて静寂に吸い込まれていった。
心臓の音だけが、耳の奥でどくどくと響いていた。




