第23話:消えない匂い
猫がいなくなると、あれだけ賑やかだった独房に、再び静寂が落ちた。
息をつく音さえ、やけに大きく響く。
以前ならそれが当たり前だったはずなのに、
今は胸を締めつける冷たさと重さだけが残っている。
このまま黙秘を続ければ、待っているのは死刑だ。
裁判では「不明」とされたあの日の出来事も、私の中では鮮やかに刻まれている――
玉座の広間に横たわっていた仲間たちの骸。あれをやったのはガブリエウ君だ。
あの世界線で彼は外部からの合図(爆竹や花火)に従って動いていた。
だから私は時間を巻き戻し、グロリア修道院へ向かった。
彼らがテロを起こす前に、合図を出していたテロ組織の拠点を叩けば
ガブリエウ君の動きを封じられるはずだと考えたのだ。
それが、テロを未然に防ぎ、玉座の広間を守るために残された唯一の道だった。
……もし真実を打ち明ければ、状況は変わるのかもしれない。
けれど「時間を巻き戻す力」があると知られてしまえば――
もっと恐ろしい事態を招きかねない。
それに、この巻き戻された世界線ではテロは発生しておらず、ガブリエウ君も何もしていない。
そんな状況で、自分の言葉にどれほどの意味があるだろうか。
考えれば考えるほど、心は暗い底へ沈んでいく。
それでも舌の上には、まだクッキーの甘さが残っていた。
その余韻だけが、闇に沈みかけた心を、かろうじて引き戻していた。
眠れずに見上げた小窓の向こう、夜空に満月が浮かんでいる。
深い闇に囲まれ、ただひとり輝く孤独な光。
「あなたも……私と同じだね……」
思わず漏れた呟き。
その孤独な月に、自分自身の姿を重ねていた。
胸の奥深くにしまい込んでいた、
苦く冷たい記憶が、月の淡い光に照らされてゆっくりと浮かび上がってくる。
◇
――昔の記憶――
「ヒヨリちゃん、未来のことわかるんだって!」
「そんなの嘘だー!」
「証拠見せろよ!」
無邪気な声が弾けた次の瞬間――。
……ザッバーン!!
肥溜めに突き落とされ、冷たい汚水が全身を呑み込む。
悪臭が鼻を突き、息もできない。私の悲鳴は濁流にかき消された。
「ほら見ろ、未来なんてわからないじゃん!」
「アハハハ!」
「ミロ君すごい!」
涙で滲む視界の中、ミロ君たちが指を差して笑っていた。
泣き声も嗚咽も届かない。ただ嘲笑だけが降り注ぐ。
「うぇーん……なんでこんなことするのぉ……」
糞尿の悪臭と汚れがまとわりつき、髪からは汚水が滴る。
指先にこびりついた泥と汚れは払っても落ちず、ただ震えるしかなかった。
これまで何度も、私はこうした“遊び”の標的にされてきた。
それは一度も止むことはなかった。
やがて泣き声は細くなり――心の中に諦めが広がっていった。
――もう、こんな世界、いらない……。
そして、何度もそうしてきたように――私は過去へと時間を巻き戻した。
だけど戻した世界では、もう「未来が見える」なんて言わなかった。
たとえ肥溜めに落ちないようにうまく立ち回ったとしても――。
――偶然落ちなかっただけって言われるだけだもん。
これまでの経験から、どれだけ説明しても、
ミロ君たちの“遊び”は形を変えて続くだけだと、幼い私は悟っていた。
そもそも、私には「未来を見る力」なんてなかった。
あったのは――“時間を戻す力”。
力の本質すら、当時の私には理解できていなかった。
しかも、時間を戻しても、体にまとわりついた汚れや臭いだけは消えなかった。
それはまるで、「心の傷は戻せない」と突きつけられているようだった。
「なんか、変な匂いしない?」
「ヒヨリからじゃない? だから独りぼっちなんだよ」
「あはは、ヒヨリぼっちだ!」
「ハハ! ヒーヨリぼっち! ヒーヨリぼっち!」
その夜、膝を抱えて小さく丸まり、声を殺して泣いた。
それ以来、自分の声を胸の奥にしまい込んだ。
能力を誰にも打ち明けず、注目されぬよう息をひそめて生きるようになった。
幼い頃のその体験は、深い傷となって残った。
あの夜、体にまとわりついた匂いはやがて消えたけれど――
私の胸の奥に刻まれた痛みだけは、どれだけ時間を戻しても癒えることはなかった。
◇
――不安と重圧の日々――
次に浮かんだのは――甲種クラスに選ばれた、あの日のことだった。
「本日は、魔力器の測定試験の結果を発表する」
十歳の年。王血部隊の一期生、四十八名を対象に行われた魔力器の測定。
魔力器の保有数は先天的に決まっており、生徒には極秘とされてきた。
張りつめた教室の空気。
三つ以上を持つ者は、“甲種”に選抜される。
「……ヒヨリ」
私の名前が最初に呼ばれた。
一斉に注がれる視線が、痛いほどに突き刺さる。
けれど胸の奥ではそれどころじゃなくて――必死に祈っていた。
――ミロ君とだけは、同じクラスになりたくない……!
名前が読み上げられるたび、心臓を握られるように苦しくなる。
「……最後に、レオ。以上、十六名だ」
その瞬間、張りつめていた息がふっと抜けた。
――ミロ君の名前は、なかった。
安堵が胸いっぱいに広がる。
けれど、それはほんの一瞬だった。
甲種・一期生クラス十六名の中で、四つの魔力器を持つ者は――。
私しかいなかった。
その事実に戸惑う暇もなく、追い打ちのように告げられたのは、
王血部隊最強の戦闘班“イチイセン”への配属。
教室中の視線が、一斉に重くのしかかってくる。
――ああ、この感覚……。
ミロ君たちに嘲笑されて以来、初めて浴びる注目だった。
けれど、その響きは賞賛ではなく、あの日の嘲笑と同じにしか思えない。
“うそつき”“ヒヨリぼっち”
幼い頃に浴びせられた言葉が、耳の奥で何度もこだました。
忘れたはずの声は、今も棘のように私の胸に突き刺さり続けていた。
そんな中、教壇に立つガスポール先生の声が静かに響く。
「甲種・一期生の諸君。君らには国家の存亡と、多くの命が懸かっておる」
そして、その視線は私に向けられた。
「特にヒヨリ君、君は四つの魔力器を持つ唯一の存在なのじゃ」
教室がざわめく。
驚き、期待、羨望――そのすべてが私へ一気に押し寄せてきて、呼吸が浅くなる。
――その言葉は、褒め言葉なんかじゃない。
私には、呪いの宣告にしか聞こえなかった。
“イチイセン”に選ばれただけでも重すぎるのに、「唯一の存在」なんて。
それはまるで、出口のない牢獄に鍵を掛けられたようで。
――どうして私なの……。
私なんかに、できるはずないよぉ……。
心の声は誰にも届かない。
見えない鎖のように、教室中の視線が私の体を締めつける。
「水・火・土・風──すべての属性を組み合わせた魔法すら可能になる。
ヒヨリ君には、大きな期待がかかっておるでの」
――逃げられないんだ……。
不安と恐れに押し潰されそうになりながら、私は震える手をぎゅっと握った。
胸の奥に、かすかな覚悟が灯る。
――こんな私でも……やらなきゃいけないんだ。
それは最初、頼りなく揺れる小さな炎のようだった。
それでも、その炎は冷たい闇の中で確かに灯り、やがて私の中で、決して消えない光になっていく。
◇
そして、その覚悟が試される日はすぐに訪れた――十三歳の秋のことだった。
アモン国王が暗殺されるという、大事件の年。
私は何度も時間を巻き戻して、暗殺を阻止しようとした。
けれど、どれだけ足掻いても結果は変わらない。
繰り返し訪れる、止められない運命――。
その冷たく重い現実が、胸の奥をじわじわと押し潰していく。
無力感は心の隅々にまで広がり、どれだけ手を伸ばしても望む未来に届かなかった。
……それでも、何もしなければ悲劇は確実に訪れる。
それだけは分かっていた。
――私ひとりじゃ無理なんだ……。
誰かに助けを求めなきゃいけない。
けれど、その考えが浮かぶたびに、幼い頃の記憶が足を止める。
ミロ君たちに「嘘つき」と笑われたあの日々。
耳にこびりついた冷たい笑い声――忘れたと思っていた過去が、鮮やかに蘇る。
――また信じてもらえなかったら、どうしよう……。
不安が喉を締めつけ、言葉を飲み込んだ。
過去の傷が、今も私を縛りつけて離さない。
――ダメだよっ、ヒヨリ!
今は、“イチイセン”のヒヨリなんだからっ……!
弱気になる自分を叱咤するように、胸の奥で灯した小さな覚悟がじわりと燃え上がる。
恐れは消えない。
だけど、立ち止まればまた同じ悲劇を繰り返すだけだ。
悩み抜いた末、私はついに決意した。
信じられる唯一の人物――ガスポール先生に、この秘密を打ち明けよう、と。
先生の前に立った瞬間、心臓は胸を突き破りそうなほど早鐘を打ち、
喉は砂を詰め込まれたみたいに乾いた。
それでも、震える声を絞り出す。
「先生……。えっとね、アモン国王が……暗殺されます。……未来で見たの」
その言葉に、先生の表情がはっきりと曇った。
「ヒヨリ君、そんな馬鹿げた話をしてはならんの。
国王陛下がお亡くなりになるなど、不敬極まりないことじゃ」
最も恐れていた反応だった。
信じてもらえない――その現実が突き刺さる。
「ほ、本当なんですっ! 何度も何度も時間を戻して……。
それでも、どうしても変えられなくて……!」
喉は震え、声はかすれ、視線は床をさまよっていた。
それでも私は、必死に訴え続けた。
けれど、先生は首を横に振るだけだった。
「ヒヨリ君は、悪い夢でも見たのじゃろう。
未来は誰にも予測できん。君も、現実を見ねばならんの」
その声は穏やかで、諭すようだった。
けれど、私には――冷たく突き放す刃のようにしか感じられなかった。
「先生……お願い……信じてください……」
声は弱々しく震え、言葉が喉に詰まる。
それでも懇願し続けたけれど、先生は最後まで首を横に振り続けた。
そして、またしても悲劇は現実となる。
――未来は、やはり変わらなかった。




