表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/91

第23話:消えない匂い

 猫がいなくなると、あれだけ賑やかだった独房に、再び静寂が落ちた。

 息をつく音さえ、やけに大きく響く。


 以前ならそれが当たり前だったはずなのに、

 今は胸を締めつける冷たさと重さだけが残っている。


 このまま黙秘を続ければ、待っているのは死刑だ。

 裁判では「不明」とされたあの日の出来事も、私の中では鮮やかに刻まれている――

 玉座の広間に横たわっていた仲間たちの骸。あれをやったのはガブリエウ君だ。

 あの世界線で彼は外部からの合図(爆竹や花火)に従って動いていた。


 だから私は時間を巻き戻し、グロリア修道院へ向かった。

 彼らがテロを起こす前に、合図を出していたテロ組織の拠点を叩けば

 ガブリエウ君の動きを封じられるはずだと考えたのだ。


 それが、テロを未然に防ぎ、玉座の広間を守るために残された唯一の道だった。


 ……もし真実を打ち明ければ、状況は変わるのかもしれない。

 けれど「時間を巻き戻す力」があると知られてしまえば――

 もっと恐ろしい事態を招きかねない。


 それに、この巻き戻された世界線ではテロは発生しておらず、ガブリエウ君も何もしていない。

 そんな状況で、自分の言葉にどれほどの意味があるだろうか。


 考えれば考えるほど、心は暗い底へ沈んでいく。

 それでも舌の上には、まだクッキーの甘さが残っていた。

 その余韻だけが、闇に沈みかけた心を、かろうじて引き戻していた。


 眠れずに見上げた小窓の向こう、夜空に満月が浮かんでいる。

 深い闇に囲まれ、ただひとり輝く孤独な光。


「あなたも……私と同じだね……」


 思わず漏れた呟き。

 その孤独な月に、自分自身の姿を重ねていた。


 胸の奥深くにしまい込んでいた、

 苦く冷たい記憶が、月の淡い光に照らされてゆっくりと浮かび上がってくる。





――昔の記憶――


「ヒヨリちゃん、未来のことわかるんだって!」

「そんなの嘘だー!」

「証拠見せろよ!」


 無邪気な声が弾けた次の瞬間――。


 ……ザッバーン!!


 肥溜めに突き落とされ、冷たい汚水が全身を呑み込む。

 悪臭が鼻を突き、息もできない。私の悲鳴は濁流にかき消された。


「ほら見ろ、未来なんてわからないじゃん!」

「アハハハ!」

「ミロ君すごい!」


 涙で滲む視界の中、ミロ君たちが指を差して笑っていた。

 泣き声も嗚咽も届かない。ただ嘲笑だけが降り注ぐ。


「うぇーん……なんでこんなことするのぉ……」


 糞尿の悪臭と汚れがまとわりつき、髪からは汚水が滴る。

 指先にこびりついた泥と汚れは払っても落ちず、ただ震えるしかなかった。


 これまで何度も、私はこうした“遊び”の標的にされてきた。

 それは一度も止むことはなかった。

 やがて泣き声は細くなり――心の中に諦めが広がっていった。


 ――もう、こんな世界、いらない……。


 そして、何度もそうしてきたように――私は過去へと時間を巻き戻した。

 だけど戻した世界では、もう「未来が見える」なんて言わなかった。


 たとえ肥溜めに落ちないようにうまく立ち回ったとしても――。


 ――偶然落ちなかっただけって言われるだけだもん。


 これまでの経験から、どれだけ説明しても、

 ミロ君たちの“遊び”は形を変えて続くだけだと、幼い私は悟っていた。


 そもそも、私には「未来を見る力」なんてなかった。

 あったのは――“時間を戻す力”。

 力の本質すら、当時の私には理解できていなかった。


 しかも、時間を戻しても、体にまとわりついた汚れや臭いだけは消えなかった。

 それはまるで、「心の傷は戻せない」と突きつけられているようだった。


「なんか、変な匂いしない?」

「ヒヨリからじゃない? だから独りぼっちなんだよ」

「あはは、ヒヨリぼっちだ!」

「ハハ! ヒーヨリぼっち! ヒーヨリぼっち!」


 その夜、膝を抱えて小さく丸まり、声を殺して泣いた。


 それ以来、自分の声を胸の奥にしまい込んだ。

 能力を誰にも打ち明けず、注目されぬよう息をひそめて生きるようになった。


 幼い頃のその体験は、深い傷となって残った。

 あの夜、体にまとわりついた匂いはやがて消えたけれど――

 私の胸の奥に刻まれた痛みだけは、どれだけ時間を戻しても癒えることはなかった。





――不安と重圧の日々――


 次に浮かんだのは――甲種クラスに選ばれた、あの日のことだった。


「本日は、魔力器の測定試験の結果を発表する」


 十歳の年。王血部隊の一期生、四十八名を対象に行われた魔力器の測定。

 魔力器の保有数は先天的に決まっており、生徒には極秘とされてきた。


 張りつめた教室の空気。

 三つ以上を持つ者は、“甲種”に選抜される。


「……ヒヨリ」


 私の名前が最初に呼ばれた。


 一斉に注がれる視線が、痛いほどに突き刺さる。

 けれど胸の奥ではそれどころじゃなくて――必死に祈っていた。


 ――ミロ君とだけは、同じクラスになりたくない……!


 名前が読み上げられるたび、心臓を握られるように苦しくなる。


「……最後に、レオ。以上、十六名だ」


 その瞬間、張りつめていた息がふっと抜けた。


 ――ミロ君の名前は、なかった。


 安堵が胸いっぱいに広がる。

 けれど、それはほんの一瞬だった。


 甲種・一期生クラス十六名の中で、四つの魔力器を持つ者は――。


 私しかいなかった。


 その事実に戸惑う暇もなく、追い打ちのように告げられたのは、

 王血部隊最強の戦闘班“イチイセン”への配属。


 教室中の視線が、一斉に重くのしかかってくる。


 ――ああ、この感覚……。


 ミロ君たちに嘲笑されて以来、初めて浴びる注目だった。

 けれど、その響きは賞賛ではなく、あの日の嘲笑と同じにしか思えない。


 “うそつき”“ヒヨリぼっち”


 幼い頃に浴びせられた言葉が、耳の奥で何度もこだました。

 忘れたはずの声は、今も棘のように私の胸に突き刺さり続けていた。


 そんな中、教壇に立つガスポール先生の声が静かに響く。


「甲種・一期生の諸君。君らには国家の存亡と、多くの命が懸かっておる」


 そして、その視線は私に向けられた。


「特にヒヨリ君、君は四つの魔力器を持つ唯一の存在なのじゃ」


 教室がざわめく。

 驚き、期待、羨望――そのすべてが私へ一気に押し寄せてきて、呼吸が浅くなる。


 ――その言葉は、褒め言葉なんかじゃない。


 私には、呪いの宣告にしか聞こえなかった。

 “イチイセン”に選ばれただけでも重すぎるのに、「唯一の存在」なんて。


 それはまるで、出口のない牢獄に鍵を掛けられたようで。


 ――どうして私なの……。

   私なんかに、できるはずないよぉ……。


 心の声は誰にも届かない。

 見えない鎖のように、教室中の視線が私の体を締めつける。


「水・火・土・風──すべての属性を組み合わせた魔法すら可能になる。

 ヒヨリ君には、大きな期待がかかっておるでの」


 ――逃げられないんだ……。


 不安と恐れに押し潰されそうになりながら、私は震える手をぎゅっと握った。


 胸の奥に、かすかな覚悟が灯る。


 ――こんな私でも……やらなきゃいけないんだ。


 それは最初、頼りなく揺れる小さな炎のようだった。

 それでも、その炎は冷たい闇の中で確かに灯り、やがて私の中で、決して消えない光になっていく。





 そして、その覚悟が試される日はすぐに訪れた――十三歳の秋のことだった。

 アモン国王が暗殺されるという、大事件の年。


 私は何度も時間を巻き戻して、暗殺を阻止しようとした。

 けれど、どれだけ足掻いても結果は変わらない。


 繰り返し訪れる、止められない運命――。

 その冷たく重い現実が、胸の奥をじわじわと押し潰していく。

 無力感は心の隅々にまで広がり、どれだけ手を伸ばしても望む未来に届かなかった。


 ……それでも、何もしなければ悲劇は確実に訪れる。

 それだけは分かっていた。


 ――私ひとりじゃ無理なんだ……。


 誰かに助けを求めなきゃいけない。

 けれど、その考えが浮かぶたびに、幼い頃の記憶が足を止める。


 ミロ君たちに「嘘つき」と笑われたあの日々。

 耳にこびりついた冷たい笑い声――忘れたと思っていた過去が、鮮やかに蘇る。


 ――また信じてもらえなかったら、どうしよう……。


 不安が喉を締めつけ、言葉を飲み込んだ。

 過去の傷が、今も私を縛りつけて離さない。


 ――ダメだよっ、ヒヨリ!

   今は、“イチイセン”のヒヨリなんだからっ……!


 弱気になる自分を叱咤するように、胸の奥で灯した小さな覚悟がじわりと燃え上がる。


 恐れは消えない。

 だけど、立ち止まればまた同じ悲劇を繰り返すだけだ。


 悩み抜いた末、私はついに決意した。

 信じられる唯一の人物――ガスポール先生に、この秘密を打ち明けよう、と。


 先生の前に立った瞬間、心臓は胸を突き破りそうなほど早鐘を打ち、

 喉は砂を詰め込まれたみたいに乾いた。


 それでも、震える声を絞り出す。


「先生……。えっとね、アモン国王が……暗殺されます。……未来で見たの」


 その言葉に、先生の表情がはっきりと曇った。


「ヒヨリ君、そんな馬鹿げた話をしてはならんの。

 国王陛下がお亡くなりになるなど、不敬極まりないことじゃ」


 最も恐れていた反応だった。

 信じてもらえない――その現実が突き刺さる。


「ほ、本当なんですっ! 何度も何度も時間を戻して……。

 それでも、どうしても変えられなくて……!」


 喉は震え、声はかすれ、視線は床をさまよっていた。

 それでも私は、必死に訴え続けた。


 けれど、先生は首を横に振るだけだった。


「ヒヨリ君は、悪い夢でも見たのじゃろう。

 未来は誰にも予測できん。君も、現実を見ねばならんの」


 その声は穏やかで、諭すようだった。

 けれど、私には――冷たく突き放す刃のようにしか感じられなかった。


「先生……お願い……信じてください……」


 声は弱々しく震え、言葉が喉に詰まる。

 それでも懇願し続けたけれど、先生は最後まで首を横に振り続けた。


 そして、またしても悲劇は現実となる。


 ――未来は、やはり変わらなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ