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第22話:一匹の猫

第35話まで毎日、複数話更新します。

――シングウ中央裁判所――


 冷たい石造りの床。高い天井に反響するざわめき。

 裁判官たちが並び、傍聴席から無数の瞳が突き刺さってくる。


 その視線の中心に、被告人ヒヨリが座っている。

 姿勢は崩れていないのに、魂だけが抜け落ちたように無表情だった。


 静けさの中で、彼女は自分の鼓動だけを聞いていた。





 私――ヒヨリは、誰にも打ち明けられない秘密を抱えている。

 そのせいで、仲間に疑われ、孤独に耐えながら一人で戦い続けてきた。


 心も身体も、すでに限界だった。


 現実感なんてどこにもない。

 目の前の光景すら、薄い膜の向こうにある幻みたいだ。


 木槌の音が、乾いた破裂音となって響き渡る。


「証人を入廷させよ」


 重い扉が開き、羊飼いのオイラーが入廷した。

 ぎこちない足取りで証言台に立ち、かすれた声で言う。


「おいら、見たんだ。

 空に……炎に包まれた岩がいくつも浮かんでて、その中にヒヨリ様がいたんだべ」


 傍聴席にざわめきが広がり、裁判官が手を上げると、空気はすぐに押し黙った。

 検察官が一歩前に出て、言葉を重ねる。


「その岩石は、被告人が右手を挙げた直後に修道院へ降り注いだ――

 そう理解してよろしいですか」


「んだべぇ」


 短い返答。

 その瞬間、法廷の空気が「決定的だ」とでも言うように硬直する。


 弁護人が立ち上がった。

 冷静な口調で、わずかな希望を探すように言葉を紡ぐ。


「ただし、あの修道院は十年以上前から廃墟となっております。

 普段は誰も近づかない場所です。

 証人は『悲鳴を聞いた』と言いましたが、本当に人がいたと断定できるのですか?」


 オイラーは即座に反論する。


「修道院の中に動く人影があったのを見たんだべ。

 何人かはわからんが、被害者がいたのは間違いねぇべさ」


「被告人の様子についてですが、どのように見えましたか? 」


 オイラーは証言台で姿勢を直し、一瞬私のほうをちらりと見た。

 その視線には、微かな怯えが滲んでいた。


「ヒヨリ様は、ずっと今と同じように無表情だったべ……。

 修道院が燃えてる間も、ただぼーっとその様子を見てるだけだった。

 それから野次馬が集まってきて、最終的には憲兵隊が来てヒヨリ様を拘束したんだべ」


 弁護人は静かに頷き、表情を崩さぬまま短く告げた。


「……被告側からは以上です」


 裁判長が書類に目を落とし、重々しい声を響かせる。


「では――被告人、何か弁明はありますか」


 法廷に静寂が落ちた。

 視線が一斉に私に注がれる。


 口を開こうとした。


 でも、声は出なかった。

 どうせ何を言っても、信じてもらえない。


 ――ううん、違う。あのことは言ったらダメなんだよぉ……。


 その思いが喉を塞ぎ、唇がかすかに動いただけだった。


 このやり取りは、拘束されたあの日から何度繰り返しても同じだった。

 私は沈黙を貫き続けている。


 裁判長が小さくため息をつき、木槌を打ち下ろす。


 その音は、もう私の胸に届かなかった。


 裁判を終え、私は再び鉄格子の中へと戻された。

 看守の足音が遠ざかり、独房は静寂に沈む。


 石の壁は冷たく、湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく。

 ベッドの隅に腰を下ろすと、全身から力が抜けたように重く沈んだ。


 瞼を閉じると、まぶたの裏に炎に包まれた修道院の光景が浮かぶ。

 耳の奥では、あのときの悲鳴が蘇る。


 ――確かに、あれは私がやったんだよぉ。


 だけど……。


 あのままでは二期生の子たちが殺されていた。





 脳裏に浮かんだのは、あの日の玉座の広間。

 床に散らばる仲間たちの残骸、動かなくなったパオタロ君。

 そして、その傍らに転がっていたヒカル君の頭部――。


「私だけが……我慢すればいいんだよぉ……私だけが……わた、し……」


 壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返す。

 光を失っていく瞳。


「そっかぁ……テロが起こる前にぜ~んぶ壊れちゃえばいいんだよぉ……」


 その声とともに、記憶はぷつりと途切れた――。


 気づけば、グロリア修道院の上空にいた。

 右手をかざすと、炎に包まれた岩石が現れ、雨のように降り注いだ。

 悲鳴は炎に呑まれ、やがてすべての声が消え去っていった。





 ……何度も繰り返した。

 けれど結局、この結末にしか行き着けなかった。


 心臓がぎゅっと掴まれるように痛み、思わず膝を抱え込む。


「……もう、疲れたよぉ」


 かすかな呟きは、独房の冷たさに吸い込まれ、消えていった。


 その時だった。


 ――何かの気配。


 音もなく、ふわりと空気が揺れた。

 鉄格子の隙間から覗くのは、闇の中で宝石のように光る瞳。

 灰色の影がするりと滑り込んできた。


「……ネコちゃん?」


 あの猫だった。


 留置所に入ってからというもの、毎晩のように現れる。


 最初の頃は、猫にさえ反応できなかった。

 けれど数日が経つにつれ、たしかに心が癒され、

 今では唯一の話し相手のようになっていた。


 猫はまっすぐ足元にやってくる。

 そこで丸くなり、のんびりと尻尾を揺らした。


 ――その仕草が、冷え切った独房の空気をほんの少しだけ和らげてくれる気がした。


「……また来てくれたんだね」


 声に出してみると、胸の奥にわずかな温かさが広がった。


 猫は何も言わず、ただその瞳をまっすぐにこちらへ向けている。

 話し相手とはいえ、猫である。


 当然、返事なんてあるはずがない。


「今日はね、裁判だったんだぁ……」


 自嘲気味に笑って、猫の宝石のような瞳を覗き込む。


「このままだと、私、死刑になるんだって。……ふふ、笑っちゃうよね」


 猫はゆっくりと瞬きを返した。

 その瞳を見下ろしていると、自然と笑みがこぼれる。


「……ネコちゃん、ありがとう。私、少しだけ元気になれた気がするよぉ」


 その瞬間だった。


「やっと笑ったね」


「……えっ?」


 空気が一気に凍りついた。

 今のは、幻聴?

 それとも――。


 思わず目を大きく見開く。

 猫が言葉を話せるはずがない。

 けれど確かに、声が響いた。


「いや、驚かせてごめん」


 宝石のような瞳が、にやりと細められる。

 どこ吹く風といった調子で、猫は楽しげに続けた。


「君のことが心配で、ずっと猫の姿で様子を見に来てたんだよ。

 でもどうだい、この姿。少しは癒されたでしょ?」


 猫はのびのびと体を伸ばすと、優雅に立ち上がり、

 人間が猫の真似をしたみたいに、前足の手首を折り曲げてみせた。

 茶目っ気すら漂う動きに、思わず警戒が強まる。


 ――猫の姿になれる魔法なんて、私の知る限り存在しない。


「……誰……なの」


「しがない街の便利屋さ」


 猫は軽く肩をすくめてみせ、悪びれる気配もなく言葉を続けた。


「元気づけてほしいって、君の弁護士さんから依頼されたんだよ。

 目的はただそれだけ。だから、そんなに警戒しなくても大丈夫」


 私は何も答えず、ただその瞳を睨み続けた。


 本当の話なのかもしれない。


 ……でも、どうしても胡散臭く思えてならなかった。


 それでも問いただす気力なんて残っていない。

 ただ黙って視線を向けるだけだった。


「ハハ、やっぱり黙っちゃうんだね。君って本当に困った子だ」


 猫はそう言うと、ふと思い出したように足元を軽く叩いた。


「そうだ、ちょっと待ってて」


 軽い調子のまま、猫は身軽に鉄格子をすり抜けて出ていく。

 呆然と、その小さな背中を目で追うしかなかった。

 いったいどこへ行くのか――考える気力すら湧かない。


 しばらくして、影が戻ってくる。

 その前足には、小さな箱が抱えられていた。


「ほら、看守室からこっそり持ってきたよ。

 早く食べちゃいなよ。君が怒られる前にね!」


 猫は得意げに箱を差し出す。

 箱の中はぎっしりとクッキーで埋まっていた。


 思わず目を見開いた。

 独房に閉じ込められて以来、甘いものなんて口にしていない。

 けれど次の瞬間、顔が強張り、かすれた声が勝手に漏れた。


「……こ、こんなこと……困りますっ!」


 これ以上問題を起こせば、本当に立場がなくなる。

 そう思っただけで、心臓がきゅっと縮みあがった。


 しかし猫は気にした様子もなく、のんびりと毛づくろいをしている。


「ほら、早くお腹の中にクッキーを隠さないと、見つかっちゃうよ」


 ――このままじゃ、私が盗んだと思われちゃう……。


 喉を締めつける焦りが、手を無理やり動かそうとしていた。


「もぉ……!!」


 観念して、クッキーをつまみ口へ運ぶ。

 ほろりと崩れる生地。舌に広がる砂糖の甘み。

 その温かさが、冷え切った心にじわじわと染み込んでいく。


 猫がちらっとこちらを見て、満足げに笑った。


「甘いものは疲れたときに効くでしょ?

 クッキーの箱はボクが処分しておいてあげるから安心してね」


 クッキーを噛みながら、思わず猫を睨んでしまった。


 けれど、胸の奥に広がる甘さだけは、どうしても否定できなかった。


 猫は尻尾を揺らしながら、何気ない調子で口を開いた。


「ところで、君はここにもう十日間も拘束されているわけだけど、

 外のことで何か知りたいことはない?

 便利屋のボクが、特別サービスで無料で調べてきてあげるよ」


「……」


 答えなかった。

 ずっと猫にペースを握られているのが、妙に気に入らない。

 視線をそらし、沈黙で小さな抵抗を示す。


「そっか。特にないのなら、今日のところは帰ろっかな」


 猫はわざとらしく肩をすくめ、出口へ向かっていく。

 軽やかな足取りが遠ざかるたびに、胸の奥で焦燥がじわじわと広がった。


「……待って」


 膝を抱えたまま、小さな声が漏れていた。

 意を決して顔を上げ、猫を真っ直ぐに見つめる。


「王血部隊・甲種の子たち……特に二期生は、無事なんだよねっ?」


 猫は一瞬だけ目を細め、すぐに笑ってみせた。


「りょーかいっ!」


 器用に箱を抱え直し、出口へ向かいかけて――ふと思い出したように振り返る。


「そうだ、ボクからもひとつ質問していい?」


 その声に、胸がわずかに強張った。


「今、君にとって最も信用できる人は誰なのかを知っておきたいと思って」


 脳裏に、ガスポール先生の顔が浮かぶ。

 けれどその瞬間、喉の奥がきゅっと縮み、体の芯が冷え切るような感覚に襲われた。

 まるで、心そのものが強く拒んでいるかのように。


 ――違う……!


 息を詰めるように考える。

 しかし、ガスポール先生を除けば誰の顔も浮かばなかった。


 胸の奥に、ぽっかりとした穴が広がっていく。

 言葉が出ない。


 猫は、そんな様子をじっと見つめている。

 やがて顎の下に手を添え――。


「ふーん……」


 わずかに思案するような素振りを見せた後、言った。


「ま、心配しなくてもいいさ。――ほら、ボクとかもいるしね!」


 思わず眉をひそめた。

 それが答えだった。


「ハハッ、じゃあまた明日」


 軽い声を残して、猫は鉄格子をすり抜けた。

 小さな背中が闇に溶けていく――その姿を見送るだけのはずだった。

 けれど、気づけば声がこぼれていた。


「……明日は……」


 猫の足が止まる。耳がぴくりと動き、振り返った。


「ん? なんだい?」


 唇を噛み、視線を逸らす。

 胸が苦しくて、言葉が喉に詰まる。

 けれど、口の中に残るクッキーの甘さが、かすかな勇気を押し出した。


「明日は……ケーキを持ってきて……!」


 自分でも信じられないくらい大胆な言葉だった。

 両膝に顔を埋め、耳まで熱くなる。


 猫は目を丸くし――そして尻尾をひょいと上げ、にやりと笑った。


「デカいやつな!」


 軽快な声とともに、猫は闇に消えていった。

 小さな背中が見えなくなる。――それなのに、どうしようもなく頼もしく見えてしまった。


 独房に再び静寂が戻る。

 手の中に残った最後のクッキーをじっと見つめる。

 少し欠けたその形が、今の自分を映しているように思えた。


 そっと口に運ぶ。

 甘さが舌の上に広がり、胸の奥へじんわりと染みていった。


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