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紫陽花の香りは青くて少しだけ甘い  作者: 海野はな


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 私は卒業の日を迎えた。一生に一度だからと、美容院で髪を整えてもらい、卒業式の定番である袴を着た。


 春晴れという言葉があるかわからないけれど、あるとしたらそれにぴったりのいい天気。まだ三月なのに、桜がわずかに咲き始めている。


 卒業式を無事に終えると、優しい風を浴びながら、友人たちと写真を撮った。同じサークルだったメンバーとも写真を撮ったり、祝いの言葉を交わす。

 後輩もたくさんきてくれていたけれど、そこにたけちゃんの姿はなかった。


 晴れやかな日々にも終わりがくる。

 美容院で手伝ってもらいながら袴を脱ぎ、整えた髪をほぐしながら、私は自分の人生におけるひとつの時期が過ぎ去ったことを感じていた。


 袴姿をたけちゃんに見てほしかったな、そう思った。



 卒業式から数日後、明日大阪へ移る私は、慌ただしく引っ越し準備をしていた。一人暮らしの学生の荷物はそんなに多くないと思っていたけれど、段ボールに詰めてみるとそれなりの量があるものだ。

 服の整理を終えると、次は机の引き出しを開けて、小物をまとめる。


「あ……」


 預かったままのたけちゃんの部屋の合鍵を見つけた。私の部屋にあったたけちゃんの私物はもう引き渡していたけれど、私がなくさないように保管していたため、お互い忘れてしまっていたらしい。さすがにこれは返さないとまずい。


 たけちゃんに連絡して事情を伝えると、今ちょうど自分の部屋にいるという。取りに行くよ、と言われたけれど、買いたいものがあって外に出るからと理由をつけて、渡しに行くことにした。移動する前に顔が見れると思ったら、ちょっと嬉しくなる。


 自転車を処分してしまっていたので、徒歩で向かう。何度も通った道なのに、最後だと思うと注意深く周りを見てしまって、こんな看板あったっけと今さら発見したりする。

 そして何度も訪れたたけちゃんの部屋。ここにくるのもこれが最後だろう。

 インターホンを鳴らすと、すぐにドアは開いた。久しぶりのたけちゃんの顔に、自然と頬が緩む。


「ごめんね、鍵」

「俺もすっかり忘れてた。わざわざすまんね」

「いえいえ。引っ越し前に気づいてよかった」

「いつ移動?」

「明日」

「そっか」


 鍵を渡すと、少しの沈黙が流れる。以前だったら何も気まずいと思わなかったのに、空気が重い。もっとたくさん話したいのに、何も言葉が出てこない。


「あの……」

「言いそびれちゃってたけど、卒業おめでとう」

「うん、ありがとう」

「仕事、頑張って。……元気で」

「うん。たけちゃんも、元気でね」


 たけちゃんは私に笑顔を作った。だから、私も微笑んだ。笑えていたかはわからない。だけどできる限り自然に見えるように、心配をかけないように、笑ったつもりだ。


 そして、たけちゃんは扉を閉めた。

 カチャ。鍵が閉められた音がした。もう、扉は開かない。


 来た道を戻る。どうしてか、景色はなにも目に入ってこなかった。

 もう会うこともないんだな、と思ったら寂しくて、私は自分の部屋に戻るまで、泣きながら歩いた。堪えようと思えば思うだけ、意思に反して涙は出てきた。

 泣き顔を傘で隠したいのに。涙を雨で濡れたせいにしたいのに。こんな日ばかり、空は綺麗に澄み渡っていた。





 翌日、私は予定通り大阪に引っ越した。

 そして迎えた四月、私は入社して会社員になった。


 新社会人の生活は学生とは全然違って、毎日驚きの連続だった。

 私は新しい環境に慣れ、仕事を覚えるのに必死な毎日を過ごしていた。たけちゃんのことを思い出さない日はないけれど、考える時間が少なくなるくらい忙しいのはありがたいことだった。


 少し仕事に慣れてからは、たけちゃんのことを考える時間がないように、仕事に打ち込んだ。


 それでも時折、どうしようもなく寂しくなった。仕事の研修で疲れたとき、たけちゃんの顔が見たくなった。ちょっとしたミスをしてしまった日は、たけちゃんに話をきいてほしいと思った。なんで私は今、一人なんだろう。


 思い出してしまうのは、楽しかった日々のこと。

 私はたけちゃんのことが好きだった。すごく、とても好きだったのだ。付き合っていたときも好きだという自覚はあったけれど、思っていた以上に自分の気持ちは大きかったらしい。

 こんなにも好きだったことを、失ってから初めて知った。


 いっぱい後悔もしている。後悔だらけだ。

 もしあのとき東京の会社を選んでいたら、たけちゃんは今でも私の側にいてくれたのかな。もしあのとき嫌いなわけじゃないとか嫌じゃないとか、そんな回りくどい感じじゃなくて、たけちゃんが好きだから側にいたいって素直に言えていたら。もしあのとき意地を張らないでごめんと言えていたら。もしあのとき……。

 考えたらキリがない。


 一か月が経った頃、たけちゃんからメッセージが届いた。


[元気? 仕事はどう?]


 たったそれだけが飛び上がるほどに嬉しくて、すぐに[元気][仕事頑張ってる]という返事を送った。

 長いラリーにはならないけれど、それでもいい。その後もたまに連絡をくれて、それを何度も見返しては頬を緩ませる。そしてまたきてないかなと、何度もスマホをチェックする。


 ある日の仕事終わり、帰る途中に紫陽花が咲いているのを見つけた。

 写真を取って、そのまま迷う。


 私の認識では、喧嘩別れしたわけじゃないと思っている。少なくとも、顔も見たくない、お互いもう関わるな、というような関係にはなっていないはずだ。

 それなら、友人の一人としてなら、メッセージを送ってもいいはずだ。あちらからもきたのだし。


[大阪では紫陽花が咲いてるよ]


 えいっ、と気合いを込めて、送信ボタンを押す。続けて写真も送る。

 しばらくしてから、スマホが鳴った。[こっちも]という文と共に、大学内で撮ったのだろう紫陽花の写真が送られてきた。

 それに返したのは[いいね]という意味のスタンプ。ラリーは続けない。


 たけちゃん。私、紫陽花を見てあなたの顔が浮かんだの。

 あなたも少しは私を思い出してくれたりした?


 もう忘れなきゃいけないことはわかっているのに、そう思えば思うほど、逆に気持ちが大きくなっていってしまっている感じがした。

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