8話 蘇りし力
グオオオオォォォッ!!
獣の咆哮が森全体を震わせる。
驚いた鳥たちが一斉に飛び立ち、蜘蛛の子を散らすように空へ逃れていく。
折れた木々を踏み越え、異形のものが姿を現した。
岩のように隆起した全身を覆う黒褐色の剛毛。口元から左右へ伸びる、太く湾曲した二本の牙。基本的な姿は猪に似ている。だが、大きさは既存のそれとは比べ物にならない。
四つの足で立った状態でも人間の身長を遥かに超え、その体躯は大型車両に匹敵するほどだった。
「で、でけぇ……!」
陸徒が思わず声を漏らす。
「こんな猪、当然ながら日本にいる生物じゃないわ」
「では、あれが異世界のモンスターか」
那琴は初めて目にする異形を前にしても、動揺を見せない。小太刀を正眼に構え、敵の動きを冷静に観察している。
巨大な猪型モンスターは、前足で地面を激しく掻いた。鋭い牙を三人へ向け、鼻息とともに白い蒸気を吐き出す。
「二人とも気をつけて。来るわよ!」
ステラの叫びと同時に、巨獣が地を蹴った。
大地を震わせながら、凄まじい勢いで三人へ突進してくる。
タイミングを見計らって三人が一斉に左右へ跳んだ。
直後、巨獣が先ほどまで陸徒たちの立っていた場所を駆け抜ける。
勢いを止められないまま正面の大木へ激突。凄まじい音とともに太い幹がへし折れ、無数の枝葉が宙を舞った。
「とんでもねぇ力だな……!」
陸徒は地面を転がった体を起こし、巨獣へ顔を向ける。
「ステラ、あいつを知ってるのか?」
「ええ。ジャイアントボアよ!」
「ジャイアントボア? 案外そのまんまな名前だな」
「ミドラディアスの森林や山岳地帯に生息する、大型の猪型モンスター。縄張り意識が強くて、侵入した相手を見境なく襲うの」
ステラは聖杖パステリアウィッシュを構え、相手の特徴を語りながらも、いつでも呪文を詠唱できる状態だ。
「突進力も危険だけど、それ以上に厄介なのは全身を覆う剛毛よ。一本一本に微量の魔力が流れていて、硬い鎧のように物理攻撃を防ぐわ」
「ちっ、めんどくせぇ相手だな」
「日本へ現れた原因は、やはり例の異変か」
小太刀を構えた那琴が、巨獣から一切視線を外さずに問いかける。
「間違いないわ。ジャイアントボアがこの世界に自然発生するわけないもの!」
「ならば、ここで仕留める」
那琴は体勢を低くした。右手に小太刀。左手には、指の間へ挟まれた三本の苦無。
ジャイアントボアが向きを変えるよりも早く、地面を蹴って駆け出した。
「おい、正面から行くつもりか!?」
「正面には立たない」
軽く息を吐くように木の幹を足場にして跳躍。
枝から枝へ軽やかに飛び移り、瞬く間にジャイアントボアの頭上へ到達する。
「速いっ!」
ステラが目を見開きながら声を漏らした。
那琴は空中でしなやかに体を捻り、左手の苦無を投げ放つ。三本の苦無が一直線に飛び、ジャイアントボアの背中へ全て命中した。
耳を突くような金属同士が衝突する音が鳴る。
だが苦無は剛毛に阻まれ、一本も肉へ届いていない。
「やはり硬いか」
表情を変えず、次の手へ移行する。
落下しながら小太刀を両手で握り、首元へ刃を振り下ろした。
「はっ!」
鈍色の一閃が走る。
刃と剛毛が激しく擦れ、眩い火花が弾け散った。
今度は完全に防がれたわけではない。小太刀は剛毛の一部を切断し、ジャイアントボアの表皮へ浅い傷を刻んだ。
グオオオォッ!
痛みに反応した巨獣が大きな呻き声を上げ、頭を激しく振り回す。長い牙が那琴へ迫るが、彼女はギリギリまで引きつけてから後方へ跳んだ。
那琴の足元を、巨大な牙が掠めていく。空中で身を翻し体勢を整え、音もなく着地した。
「今の動き、すごいじゃない!」
「感心している場合か。次が来る」
ジャイアントボアは前足で地面を掻き、那琴を睨みつけて再び突進の姿勢を取った。
「ステラ、那琴の援護!」
「言われなくたって!」
陸徒の指示よりも先にステラは法力を練り上げていた。聖杖を大きく掲げ、素早く呪文の詠唱をする。
―其は頑強なる守護の光―
「鎧衣!」
昼白色の光が那琴の体を包み込む。
光は忍び装束の表面に薄い膜を作り、衝撃からの反発力を高めた。
「これは……」
「防御強化の法術よ! 多少の攻撃なら耐えられるけど、あいつの突進をまともに受けるのは無理だから、過信しないで!」
「承知した」
那琴は小太刀を逆手に持ち替える。
ジャイアントボアが地面を蹴ると同時に、自らも前へ駆け出した。
「おい、真正面からぶつかる気か!?」
陸徒の叫びにも那琴は止まらない。
両者の距離が一気に縮まる。
衝突する直前、那琴は低く身を屈めた。
鋭い牙が頭上を通過。巨獣の横を擦り抜けながら、小太刀で前足を斬りつける。
しかし傷は浅く、ジャイアントボアの勢いを止めるには至らなかった。
「そこよ!」
ステラが聖杖を前へ突き出して祈りを込める。
するとジャイアントボアの進行方向に、金色の光壁が出現。巨体は回避できず、そのまま激突した。
ドンッ! と腹の底まで響く衝撃音とともに、光の壁に亀裂が走る。
「くっ……なんて力なのよ!」
ステラは聖杖を握り締め、法力を注ぎ続ける。
だが進攻は止まらなく、まさに猪突猛進。壁を押し破ろうと、頭と牙を何度も叩きつけてくる。
「ステラ無理すんな!」
「まだ、これくらいっ!」
亀裂が音を立てながら広がる。
間もなく限界へ達すると判断した那琴は、腰の道具袋へ左手を伸ばした。
取り出したのは、複数の手裏剣。一度に投げ放つと、それぞれが異なる軌道を描きながらジャイアントボアへ飛んでいく。
狙いは目と鼻。剛毛に守られていない箇所だった。
ギガースボアは顔を振り、手裏剣を牙で弾く。しかし、その内の一枚が鼻先を浅く切り裂いた。
巨獣の意識が那琴へ向けられる。その一瞬を狙い、ステラは術を解除した。
前方を押し続けていた力は行き場を失い、巨体が体勢を崩す。
「今よ、那琴!」
「あぁ」
那琴は跳躍し、無防備となった頭部へ小太刀を振り下ろした。
刃が眉間を捉えて切り裂く。確かな手応えではあったが、小型の武器では一撃で倒すには遠く及ばない。
巨獣は怒りの咆哮を上げ、全身を大きく震わせた。
「っ!」
那琴の足場が揺らぐ。
そこへジャイアントボアが頭を跳ね上げ、彼女の体を突き飛ばした。
「那琴っ!」
宙を舞い、背中から地面へ叩きつけられる。
防御術によって致命傷は免れたものの、衝撃で呼吸が止まり、すぐには起き上がれない。
「くっ……」
「今助けるわ!」
ステラが駆け寄ろうとする。
だがジャイアントボアはその動きに反応して、今度は彼女へ狙いを定めた。
地面に脚をめり込ませ、勢いよく蹴って走り出す。
咄嗟に足を止めたステラは、聖杖を正面へ構えた。
―其は万物を遮る絶衝の盾となれ―
「魔防壁!」
即座に純白のバリアが出現する。
しかし、先ほどの攻防で急激な法力の消耗をしていたため、一時的な枯渇状態へと陥っていた。
完成した壁は薄く、ジャイアントボアの突進を受けた瞬間、ガラスのように砕け散ってしまう。
「きゃあっ!」
衝撃に弾き飛ばされ、地面を転がる。
聖杖パステリアウィッシュが手を離れて飛び、近くの木へ当たって落下した。
「ステラ!」
陸徒は迷わず走り出した。
手に持っているのは、刀身を失ったラディアセイバーの柄だけ。それでも体は、仲間の危機を見過ごすことを許さなかった。
「陸徒、来ちゃダメ!」
ステラは上半身を起こしながら叫ぶ。
「お前らだけに戦わせて、黙って見てられるかよ!」
ジャイアントボアが、倒れたステラへ向かって歩み寄る。
陸徒は両者の間へ割り込み、刀身のない柄を両手で構えた。
「それでは戦えない!」
那琴も、地面へ片膝をついたまま声を上げる。
「んなこと、言われなくたってわかってる!」
荒い鼻息が蒸気のように音を立てる。つり上がった瞳は陸徒に狙いを定め、巨体の前足で地面を掻いた。
次の突進が来る。
陸徒は額に汗を滲ませながら柄を握り締める 何度力を込めても、ラディアセイバーは応えてくれなかった。
それでも、今だけは——。
「頼む。もう一度だけ、俺に力を貸してくれ……!」
脳裏に蘇る、ミドラディアスでの記憶。
初めてブラッディオーガと戦った夜。
旅の仲間たちと切り抜けた数々の死闘。
そして、バサラとの最終決戦。
ラディアセイバーは、いつも陸徒の想いへ応えるように力を与えてきた。
「俺は、もう誰も死なせたくないんだ!」
ジャイアントボアが突進を開始する。
刹那——柄が、脈を打った。
「なにっ!?」
陸徒の両手へ、微かな振動が伝わる。
柄の中心に埋め込まれた青い宝石が光り、そこから眩い粒子が溢れ出した。
光は一直線に伸び、刀身の輪郭を形作っていく。透き通るような蒼白色。実体を持ちながらも、純粋な光だけで作られた大刃。
「ラディアセイバー……!」
ステラが目を見開く。
かつての金属質な刀身とは異なる。
だが陸徒の手にあるものは、紛れもなく神剣ラディアセイバーだった。




