7話 湯けむりと恋心と
森を抜け、琵琶湖へ続く湖岸沿いの道を歩く。
青々とした湖面が陽光を反射し、遠くには山々の稜線が見えた。
しばらく進むと、木造の大きな建物が姿を現す。
古風な和の意匠を残しながらも、入口付近は現代的に整備されていた。門の横に立てられた看板には、望月旅館と書かれている。
「ここが那琴の家か。結構立派な旅館だな」
「祖父の代に改装した。建物の一部は江戸時代から残っている」
「江戸時代から!?」
ステラが目を輝かせながら、長き時を刻んできた柱や屋根を見回す。
「こっちの世界へ来て二年経つけど、旅館に泊まるのは初めてだわ!」
「今日は泊まるつもりなのか?」
「異変がいつ起きるかわからないんだから、この周辺に拠点が必要でしょ?」
「それもそうだけど……」
「宿泊費は不要だ」
二人の間へ言葉を挟み、那琴は口元を伸ばした。
「こちらも、お前たちから情報を得たい。空いている部屋を使えばいい」
「さすがね。話がわかるじゃない!」
「お前、温泉旅館に泊まりたいだけだろ」
「違うって言ってるでしょ!」
旅館へ入ると、那琴は家族へ簡単に事情を説明した。
無論、異世界やモンスターについて全てを話したわけではない。湖畔の調査で知り合った協力者として、陸徒とステラを紹介する。
二人は客室へ案内され、荷物を置いた。
窓からは琵琶湖の景色を一望できる。畳の香りに包まれた純和風の部屋は、ミドラディアスにも現代の都市部にもない独特の趣があった。
しかし到着して間もなく、ステラは浴衣とタオルを手に立ち上がる。
「それじゃ、早速行ってくるわ!」
「どこに?」
「温泉に決まってるでしょ!」
「詳しい話はどうしたんだよ」
「長旅で疲れてるんだから、先に休憩するの! 頭をすっきりさせてからの方が話もまとまりやすいでしょ?」
「ミドラディアスから光って飛んできただけだろ……」
陸徒の呟きも聞かず、ステラは部屋を飛び出していった。
露天風呂は、旅館から少し離れた場所にあった。
背の高い木製の塀に囲まれた浴槽から、白い湯気が立ち上っている。塀の向こうには森の木々と青空が広がり、枝葉の隙間から琵琶湖の水面がわずかに見えた。
「あぁ~、気持ちいい!」
ステラは肩まで湯に浸かり、大きく息を吐いた。
ブロンドの髪は湯につかないように頭の後ろでまとめられている。
「大きな声を出すな。他の客もいる」
少し離れた場所では、那琴が静かに湯へ浸かっていた。
忍び装束を脱いでも姿勢は正しく、休んでいる最中でも周囲へ気を配っているように見える。
「今は誰もいないんだからいいでしょ。それに、せっかく温泉へ来たのに、そんな隅っこで固まってたらもったいないわよ」
「私はこれで落ち着いている」
「アンタ、モコに少し似てるわね」
「モコ?」
「アタシの幼馴染。無表情でなにを考えているのかわかりにくいの。アンタと同じで、戦いの時は無駄に冷静だし」
「無駄に、とは余計だ」
那琴は細い目で淡々と返す。
しばらく、湯の流れる音だけが続いた。
やがて那琴が、ステラへ視線を移す。
「一つ、聞きたいことがある」
「なによ?」
「あの陸徒という男は、お前の恋人なのか?」
「なっ!?」
ステラの素っ頓狂な声が露天風呂に響く。
驚いた拍子に立ち上がりかけ、慌てて肩まで湯へ戻った。
「な、なんでそうなるのよ!」
「二人の距離が近い。異世界からともに移動してきた上に、互いのことをよく理解しているように見えた」
「そ、それは長い付き合いだからよ! 別に恋人とか、そんなんじゃないわ!」
「違うのか?」
「違う!」
即座に否定したものの、ステラの頬は湯の火照りだけでは説明できないほど赤く染まっている。
「じゃあ、嫌いなのか?」
「嫌いとは言ってないでしょ!」
「好きなのか?」
「どうして二択なのよ!」
「嫌いではないなら、好意があると考えるのが自然だ」
「普通の友達って可能性もあるでしょ!」
「普通の友達にしては、陸徒を見る時だけ表情が違う」
「ど、どう違うっていうのよ……」
「嬉しそうだ」
「うっ……」
ステラは返す言葉を失い、口元まで湯に沈めた。
水面から桃色の瞳だけを出し、ぶくぶくと小さな泡を作っている。
「それに、森で私が陸徒を攻撃した時、お前は迷わず前へ出た」
「あれは法術士として当然の行動よ。目の前で人が襲われてたんだから」
「障壁を作った後、陸徒に怪我がないか真っ先に確認していた」
「そ、それも仲間なら普通でしょ!」
「そうか」
那琴は一度頷いた。
納得したようにも見えるが、その藍色の瞳はステラの動揺を完全に見抜いている。
「でも、陸徒が他の女と仲良くしていたら嫌だろう?」
「そりゃ嫌に——って、なにを言わせるのよ!」
ステラは湯を両手ですくい、那琴へ浴びせた。
飛んできた湯を、那琴は顔をわずかに動かすだけで回避する。ぴしゃりと背後の岩へ水音が響いた。
「図星か」
「うるさいわね! 大体、陸徒は鈍感なのよ! アタシがこれだけ、その……色々してあげてるっていうのに、全然気づかないし!」
「告白すればいい」
「できたら苦労しないわよ!」
開き直るように叫んだ直後、ステラは自分の発言に気づいて口元を両手で覆う。
「今のは違う! 忘れなさい!」
「やはり好きなのか」
「違うって言ってるでしょ!」
一方、木製の塀を挟んだ男湯。
陸徒は湯へ浸かりながら、隣から聞こえてくる会話に耳を傾けていた。露天風呂の構造上、女湯の声は思いのほかよく響く。
最初は聞くつもりなどなかった。だが自分の名前が出たため、どうしても気になってしまったのだ。
(ステラの奴、なにをそんなに騒いでるんだ?)
湯の中を少しずつ移動し、女湯との境にある塀へ近づく。
もちろん、覗こうとしているわけではない。ただ会話を聞くだけ。陸徒は自分へそう言い聞かせ、そっと耳を澄ませた。
「陸徒に直接聞かれたら、お前はどう答える?」
「そ、そんなの……」
塀の向こうで、ステラが言葉に詰まる。
「べ、別に嫌いじゃないし。一緒にいると、その……安心はするけど……」
(なんの話だ?)
陸徒はさらに聞き取ろうと、塀へ耳を近づけた。
——その時。
「……そこにいるな」
那琴の低い声が響いた。
「え?」
「どうしたのよ、那琴」
「塀の向こう。人の気配がする」
陸徒の背中に冷たいものが走る。
(やべっ!)
急いで塀から離れようとするが、すでに遅かった。
「お前の言っていた鈍感な男だろう」
「陸徒ぉ!?」
「ち、違う! これは声が聞こえてきたから、なんの話をしてるのか気になっただけで——」
「思い切り聞き耳立ててるじゃないのよ、このバカ陸徒っ!!」
「ステラ、待て! 話し合おう!」
女湯側から、大量の湯が塀を越えて飛んでくる。
だが、それはステラが両手ですくった程度の量ではない。那琴が手桶を使い、正確に陸徒のいる位置へ放ったものだった。
「ぶはぁっ!?」
頭上から湯を浴びせられ、陸徒は足を滑らせる。
派手な水音とともに、浴槽の中へ沈んだ。
「熱っ! って、元々風呂の湯だった!」
顔を出し、意味のない突っ込みを叫ぶ。
女湯からは、怒りに満ちたステラの声が返ってきた。
「陸徒! 部屋に戻ったら覚悟しなさいよ!」
「だから、わざとじゃねぇって!」
「問答無用っ!!」
静かな温泉旅館に、二人の騒がしい声がいつまでも響き渡っていた。
翌朝。朝食を済ませた陸徒、ステラ、那琴の三人は、再び琵琶湖の湖畔へ向かっていた。
陸徒の頭には大きなこぶの腫れ痕がまだ残っている。
昨夜、温泉から戻った後、待ち構えていたステラにパステリアウィッシュの鉄槌を下された結果だった。
「ったく、聞こえてきたんだから仕方ないだろ」
「まだ言い訳する気?」
「だから、最初は聞くつもりなかったって」
「最初は、ということは途中から意図的に聞いていたのだな」
那琴が冷静に指摘する。
「お前はどっちの味方なんだよ!」
「事実を言っただけだ」
那琴は忍び装束に身を包み、昨日と同じ小太刀を腰へ差している。
旅館を出る際は上着で隠していたが、森へ入ってからはすぐに動けるよう、その姿へ戻っていた。
「陸徒が悪いのよ。乙女の会話を盗み聞きするなんて最低なんだから」
「乙女の会話ねぇ……」
「なによ?」
「いや、なんでもない」
下手なことを言えば、再び殴られる。
陸徒は学習し、口を閉ざした。
三人は昨日転移してきた場所を中心に、森の中を調べていく。
ゲートクリスタルの欠片は、今も弱い光を放っていた。ただし、どの方向へ進んでも光の強さはほとんど変わらない。
「変ね。昨日はこの場所へアタシたちを導いたのに、ここから先の反応がない」
「異変はまだ発生していないのかもしれない」
那琴が地面へしゃがみ込み、土の状態を確認する。
「数日前に感じた気配も、常に発生していたわけではない。強くなったり、完全に消えたりを繰り返していた」
「場所が移動してるってことか?」
「その可能性もある」
陸徒は周囲を見回す。
一見すれば、何の変哲もない小さな森だ。鳥の鳴き声。風に揺れる木々。遠くから聞こえる湖の波音。モンスターが潜んでいるような気配は感じられない。
「なぁ那琴。昨日言ってた不穏な気って、今も感じるのか?」
「微かに。ただ、昨日よりも近い」
「近いって、どっちから?」
那琴は返事をせず、突然立ち上がった。
藍色の瞳を鋭くし、森の奥へ顔を向ける。
「どうしたの?」
「静かに」
三人は口を閉ざした。
しばしの静寂。
その中に、地面を擦るような音が混ざっている。
初めは風の音と聞き違えるほど小さかった。しかし次第に大きくなり、一定の間隔で重い振動が伝わってくる。
「なにかいるわね」
ステラが聖杖パステリアウィッシュを構える。
陸徒もラディアセイバーの柄を抜いた。
「陸徒。それで戦えるの?」
「無理だろうけど、素手よりはマシだ」
「柄でどう戦うつもりよ!」
ゴンッ!
二人の言い合いを遮るように、森の奥から激しい音が響く。
続けて、太い木の幹が軋む音。枝葉が激しく揺れ、その内の一本が根元から倒れた。
「来るぞ」
那琴が小太刀を抜き、体勢を低くする。
さらに二本、三本と木がなぎ倒される。
土煙と無数の葉が舞い上がり、その奥で巨大な影が動いた。




