47話 焦りの帰還
薄紫がかった青空が、どこまでも広がっている。
頬を撫でる風には、日本とは異なる草木の匂いが混じっていた。
遠くには鬱蒼とした森が連なり、そのさらに向こうには、幾重もの山々が蜃気楼のように霞んでいる。
「本当に……戻ってきたんだな」
喬介が感慨深げに呟く。
日本へ帰還してから二年。彼にとって、この世界で過ごした日々は決して短いものではなかった。
戦いの記憶。ともに歩んだ仲間たち。そして、今もこの世界で生きる者たち。目の前に広がる景色を眺めていると、それらが昨日のことのように蘇ってきた。
「懐かしい……」
波美もその場に立ち尽くし、吹き抜ける風を全身で受け止めていた。
「空の色も、風の匂いも、全然変わってないね」
「あぁ」
喬介は静かに頷く。
空也も、二人とは少し離れた場所で周囲を見渡していた。
「また、ここに来ることになるなんて……」
その瞳に、幾つもの感情が浮かんでいる。
空也にとってミドラディアスは、魔術士として過ごした世界。大切な仲間と出会い、旅をした。
一方で、魔族となり、兄である陸徒へ刃を向けた場所でもある。辛い記憶も少なくない。それでも、この世界で得たものまで否定することはできなかった。
「空也、大丈夫か?」
「うん」
陸徒が弟の顔を覗き込むと、少し無理やりにも思えるような微笑みが返ってきた。
「いろいろ思い出しただけだよ。でも大丈夫」
「そうか」
「みんな……元気にしてるかな」
胸元へ手を当てながら、空也は遠くの景色を見つめた。
その傍ら、初めてミドラディアスを訪れた那琴は、感慨に浸る三人とは対照的でいた。
見知らぬ世界へ突然連れてこられたにもかかわらず、取り乱した様子はない。鈍色の小太刀へ手を添えたまま、鋭い眼差しを周囲へ巡らせている。
遠くに広がる森。わずかな地形の起伏。敵が身を隠せそうな場所まで、一つずつ確認していた。
「ここが、異世界ミドラディアスか」
那琴が小さく呟く。
「あたしたちが初めて来た時と違って、随分と落ち着いているのね」
「いや、驚いてはいる」
隣に立つ波美の言葉に、那琴は少し口元を緩めて上空を見上げる。
「空の色も、日本とは違う。見たことのない植物も多い。だが、今は見物をしている場合ではないだろう」
「それは、そうだけど」
「異世界であろうと、警戒を怠れば命を落とすことに変わりはない」
落ち着いた口調で答え、那琴は再び周囲へ意識を向けた。
「少なくとも、この近くに人の気配はない。ただし、森にはなにかいる」
「この世界じゃ、街の外にモンスターがいるなんて当たり前なんだから。日本と同じつもりで歩かないことね」
「承知した」
背後から聞こえたステラの声に、那琴は短く返す。
「でも、今はそんなことより雫よ!」
ステラは途端に表情を険しくさせ、パステリアウィッシュを握り直した。
「早くアジトへ戻らないと!」
先ほどまで、法力を使い果たした反動で足元も覚束ない状態だった。
それでも構わず疲労を押し殺すように歩き出す。
「待て、ステラ」
喬介の声が、その足を止めた。
「なによ! 急がないと雫たちが!」
「わかっている。だが、先に確認すべきことがある」
「確認?」
喬介は、ステラが握るゲートクリスタルの欠片へ目を向ける。
先ほどまで強い光を放っていた欠片は、既に輝きを失っていた。
「これまで欠片が反応した場所では、必ずなんらかの異変が起きていたんだろう?」
「えぇ」
「なら、今回もこの場所に何かが起きる可能性があるのではないか」
喬介の言葉に、陸徒も周囲を見渡す。
「確かに、なにも調べないままここを離れるのは危険か」
「でも、雫とソニカを放っておけっていうの?」
「そうは言っていない。だから少し待て」
地団駄を踏みそうなほどに急かすステラを抑え、喬介は現在地を把握しようと周囲の地形を調べ始めた。
緩やかに続く平原。北側に広がる街道。そして遠方には、巨大な建造物の輪郭が微かに見える。
「あれは……」
喬介が目を細める。
北の方角。山々の隙間に、幾つもの尖塔を備えた首城が薄らと浮かんでいる。
「あそこに見えるのはエルグランド城だ」
「本当?」
波美が喬介の隣に立ち、同じ方向へ目を凝らす。
「……確かに、あのお城っぽいね」
喬介は、この世界にいた頃、エルグランドを拠点に行動していた。
首城の形も、周辺の地形もよく覚えている。
「つまり、ここはエルグランド領内だ」
「それがどうしたのよ?」
「もし、この近くで異変が起きているのなら、エルグランド側がなにも把握していないとは考えにくい」
喬介は冷静に状況を整理する。
「アーシェラは、領内の異変を見過ごすような者ではない。ティアナもいる」
疾風の隼騎士ティアナ。
豊富な知識を持ち、わずかな痕跡から異変の根源を見つけ出すことにも長けている。
「それに、ヨルムやヴァーソ、ルキノの姿がない」
ヨルムは外周や街道の哨戒。ヴァーソは素早い伝令と誘導。ルキノは森や裏道の索敵を得意としている。
この場所で何か大きな異変が起きていれば、彼らの誰かが調査へ訪れていても不思議ではない。
しかし周囲に人影はなく、それらしい気配も感じられなかった。
「エルグランドの魔騎士たちが、まだ異変に気づいていない可能性は?」
陸徒がやや訝しげに喬介を見る。
「もちろん、ないとは言い切れない。だが首城から、この場所はそれほど離れていない。なにかが現れて騒ぎになれば、既に察知しているはずだ」
「なら、この場所にはなにも起きないということか?」
「あぁ。俺はそう考えている」
喬介はステラへ顔を向ける。
「今回の転移は、これまでのクリスタルの導きとは違う」
「違う?」
「欠片が自ら目的地を選び、俺たちを導いたわけではない。雫たちのもとへ戻りたいというステラの強い想いに欠片が共鳴し、その力へ空間転移術を重ねた」
「アタシが、無理やり道を繋いだ」
喬介は頷いた。
「だから、ここは異変が起きる場所として選ばれたのではない。ステラがミドラディアスへ戻ろうとした結果、辿り着いた場所だ」
「それなら……」
「ここに留まる必要はない。雫たちの救助を優先できる」
ステラの表情がわずかに明るくなる。
「だったら、今すぐアジトへ行くわよ!」
「ただし、全員で向かうべきではない」
「そう。エルグランドにも情報を伝える必要があるということね」
喬介は北方に見える首城へ視線を向ける。
「アジトでなにが起きたのか。プレサージュでデオルが暗躍している可能性。そして、日本では中岡敏宗が関与していること。どれもアーシェラへ報告しなければならない」
「なら、二手に分かれるのか」
陸徒の問いに、喬介が頷く。
「俺と波美でエルグランドへ向かう」
「あたしも?」
「あぁ。首城まで距離がある。なにが起きるかわからない以上、一人で行動するより二人のほうがいい」
「わかった。お兄ちゃんと一緒に行くよ」
波美は握りしめた拳を見せる。
「陸徒とステラはアジトへ向かってくれ。空也と那琴も同行してほしい」
「承知した。戦闘の痕跡が残っていれば、追跡できるかもしれない」
那琴が装備した忍具を確認しながら即答する。
「喬介、波美。エルグランドのほうは任せたわよ」
「任せて」
「そちらも気をつけろ。状況を伝えたら、俺たちもすぐに合流する」
二つの組へ分かれた一行は、それぞれの目的地へ向かって歩き始めた。
陸徒、ステラ、空也、那琴の四人は、山麓にあるアジトを目指して急いだ。
ステラは疲労の残る体で先頭を歩き続ける。時折足元をふらつかせても、止まろうとはしない。
「ステラ、少し休んだほうがいい」
「嫌よ」
「まだ法力も戻ってないだろ」
「休んでる間にも、雫たちは苦しんでるかもしれないのよ!」
振り返ることなく言い返し、さらに歩調を速める。
陸徒は何も言えなくなった。今のステラを無理に止めても、自分を責める時間を与えるだけだろう。それならば、隣で支えながら先へ進むしかない。
やがて山麓へ近づくにつれ、周囲の様子が変わり始めた。木々の枝が折れている。地面には何か巨大なものが通ったような跡が刻まれ、所々に黒く焼け焦げた痕跡が残されていた。
「戦闘の跡だ」
那琴は地面へ屈み込み、土の状態を調べる。
「時間はそれほど経っていない」
「この先よ」
ステラの声が強張る。
風に乗って、焦げた臭いが漂ってきた。
さらに進むと、視界を遮っていた森が途切れる。その先に広がっていた光景を見た瞬間、四人は足を止めた。
「そんな……」
ステラの手から聖杖が離れて地面へ落ちた。
アジトの周辺は、焦土と化していた。草木は黒く焼け、地面には無数の亀裂が走っている。至る所に大きな穴が穿たれ、岩肌は砲撃を受けたように抉られていた。
石造りだったアジトの建物も、原形を留めていない。壁は崩れ落ち、屋根は吹き飛び、瓦礫の山へ変わっていた。
以前ステラが空間転移術で訪れた時の面影は、どこにも残されていなかった。




