34話 この刃にかけて
「逃げ……なさい……」
肘をついて上半身を起こそうともがきながら、ステラは必死に声を絞り出す。
「お断りいたしますわ」
彼女を背にした雫は、震える脚に力を込め立ち上がった。
「なにを……言ってるのよ……」
「ステラさんを置いて逃げるなど、できるはずがございません」
「アイツは……普通の猿じゃないのよ……」
「承知しております」
雫は刀を正眼に構え、マーダーエイプと向き合う。
先ほど受けた一撃で脇腹が痛む。刀を握る両手も、怪物の力を受け止めた衝撃で痺れていた。
それでも、退くつもりなど毛頭ない。
「力を合わせると、申し上げたばかりですわ」
マーダーエイプが咆哮し、雫へ突進する。
巨体に似合わぬ素早で、瞬く間に迫りくる。長い腕が伸び、左右から続けて振るわれた。
雫は一撃目を刀で受け流し、二撃目を身を沈めてかわす。だが怪物は攻撃を止めず、間近から牙を剥いて飛びかかってきた。
「っ!」
咄嗟に雫は無理やり体を横へ倒す。紙一重だった。だがすぐさま、片膝をついた状態から怪物の脚へ刀を振るった。
刃が剛毛に覆われた太腿を切り裂く。マーダーエイプが苦痛の声を上げ、雫を蹴り飛ばした。
「きゃあっ!」
雫の体が地面を跳ねながら転げ飛ぶ。
宝刀水鏡が手を離れ、少し先の地面へ突き刺さった。
「雫!」
ステラは必死に腕へ力を込めるが、まだ体が言うことを聞かない。
容赦なきマーダーエイプは雫へ狙いを定め、大きく跳躍した。その巨体が頭上から迫る。
雫は体中に走る痛みを気合いで振り払う。そしてすかさず横へ飛び退いた。またもや紙一重だったが、怪物の両腕が地面へ叩きつけられる。土と草が舞い上がり、雫の視界を覆った。
次の瞬間、土煙の中からマーダーエイプの腕が伸びる。
「くっ!」
雫は両腕で受け止めた。凄まじい力に押され、背中から地面へ倒される。
怪物の手が首元へ迫った。
「この程度で……!」
雫は腰を捻り、膝を怪物の腹部へ叩き込む。
わずかに拘束が緩んだ隙に体を抜き、地面を転がった。そのまま宝刀水鏡のもとへ手を伸ばす。柄を掴み、振り返りざまに刀を一閃させた。
追ってきたマーダーエイプの胸元へ、刃が深く食い込む。
「まだですわ!」
雫は刀を引き抜く動作で後方へ跳ぶ。
着地の手前で納刀。直後強く踏み込み、一瞬にして間合いを詰める。
水瀬家に伝わる剣術の型。雑念を捨て、ただ一点へ意識を集中する。
「水瀬流剣術——清流一文字!」
抜刀と同時に雫の姿が、一筋の光のように駆け抜けた。すれ違いざまに放たれた水平の斬撃が、マーダーエイプの首元を切り裂く。
怪物の動きが止まった。
雫は数歩先で足を止め、刀についた黒い血を振り払う。
その背後。頭部を失ったマーダーエイプの巨体がゆっくりと崩れ落ちた。地面へ倒れるより先に、その姿が黒い煙となって消滅する。
「はぁ……はぁ……」
鞘に納めた刀を強く握り締めながら、雫は肩で激しく息を切らせている。
だがこれで四体のモンスターは、すべて倒した。すぐに顔を上げ、ステラのもとへ駆け寄る。
「ステラさん!」
「そんな大声を出さなくても……聞こえてるわよ……」
ステラは苦しげに答える。
意識はある。雫は安堵しながらも、心配そうに傍へ膝をついた。
「どこをお怪我なさったのですか?」
「肩と背中を打っただけ。骨は折れてないと思う」
「今、起こしますわ」
「平気よ。自分で起きられるから」
「無理をなさらないでください」
雫はステラの背中へ腕を回し、慎重に上半身を起こした。近くへ転がっていたパステリアウィッシュを拾い、彼女へ手渡す。
ステラは聖杖を受け取ると、自分へ治癒法術を施した。
―其は傷を癒すそよ風の調べ―
「治癒!」
柔らかな光がステラの体を包み込む。
痛みが次第に和らぎ、傷ついた体が癒やされていった。
「これで大丈夫ですの?」
「完治とまではいかないけど、動くには問題ないわ」
「よかった……」
雫は心の底から深く息を吐いて、胸を撫で下ろす。
ステラはそんな彼女を見つめた。
「アンタ、馬鹿じゃないの?」
「え?」
「アタシを置いて逃げればよかったでしょ。モンスターとの戦いには慣れてないんだから」
「先ほども申し上げました。ステラさんを置いて逃げることなどできません」
「アタシたちは恋敵なんでしょ?」
「恋敵であることと、見捨てることになんの関係がございますの?」
雫の表情は心底真面目だった。ステラの言い分がまるで理解できないかのように、不思議そうに首を傾げている。
「私は、あなたと正々堂々競うつもりです。ステラさんが怪物に殺されてしまえば、勝負にすらなりませんわ」
「それだけ?」
「それに……」
雫は少しだけ目を伏せる。
「目の前で誰かが傷ついているのに、なにもせず逃げるような人間を、陸徒様が好きになってくださるとは思えませんもの」
「結局、陸徒のためってわけ?」
「もちろん、それもございます。ですが、私自身がステラさんを助けたいと思ったのです」
顔を上げた雫は、屈託のない笑みを浮かべた。
「アタシを……?」
「はい。異世界へ来て困惑していた私へ、いろいろ教えてくださいました。戦いの最中も、何度も守ってくださいましたもの」
「それは、アタシの方がモンスターに慣れてただけよ」
「理由はなんであれ、助けてくださったことに変わりはございません」
あまりにも真っ直ぐな言葉。そこには、相手へ取り入ろうとする意図など微塵もなかった。
ステラは照れたように雫から顔を背ける。
「そういうこと、恥ずかしげもなく言わないでくれる?」
「いけませんでしたか?」
「いけないっていうか……調子が狂うのよ」
「申し訳ございません」
「そこで素直に謝らないで!」
頬を赤くしながら、ステラはゆっくりと立ち上がる。まだ肩と背中に痛みは残っているが、歩くことはできそうだった。
「でも……その……」
パステリアウィッシュを握り、雫へ背を向ける。
「助かったわ」
「え?」
「聞こえなかったなら、もう言わない」
「いいえ。きちんと聞こえましたわ」
雫は嬉しそうに微笑む。
「どういたしまして、ステラさん」
「だから、その顔をやめなさいってば!」
「どのような顔でしょう?」
「なんでもない!」
ステラは誤魔化すように歩き出した。
数歩進んだところで足を止め、雫へ振り返る。
「いつまでそこにいるの? 周辺を調べるんでしょ」
「はい。すぐに参りますわ」
雫は宝刀水鏡についた汚れを拭い、腰元へ収める。そしてステラの隣へ駆け寄った。
「それで、どちらへ向かいますの?」
「まずは、あの丘へ登る。高い場所からなら、街か城が見えるかもしれないわ」
「異変を探す手掛かりも得られるかもしれませんね」
「そういうこと。今度は勝手に前へ出ないでよ」
「ステラさんこそ、私へ気を取られすぎないようになさってくださいませ」
「なっ……! さっきのは一度だけの失敗よ!」
「ふふっ。そういうことにしておきますわ」
「その言い方、さっきの仕返し!?」
二人の声が、広い平原へ響く。
ほんの少し前まで、互いをどう見ればいいのかさえわからなかった。
陸徒を巡る恋敵であることに変わりはない。けれど、今だけは同じ場所を目指し、肩を並べて進んでいる。




