32話 恋敵と
全身を包み込む青白い光。
上下左右の感覚すら失われ、ステラと雫は空間の歪みへ飲み込まれていった。
「きゃあああっ!」
「ステラさん!」
互いの声だけが、光の中へ虚しく溶けて回る。
どこへ転移するのかもわからない。陸徒たちを呼ぶ時間はなく、身構える余裕さえ与えられなかった。
やがて二人の体を襲っていた浮遊感が、唐突に消える。地面へ投げ出された二人は、そのまま草の上を転がった。
ステラは肩を強く打ち、雫も受け身を取れないまま倒れ込む。
同時に周囲を包んでいた光が弾けて消失。あとには、風に揺れる草木の音だけが残される。
「うぅ……痛い……」
ステラは呻きながら、ゆっくりと瞼を開いた。
頬へ触れているのは、柔らかな草だ。そして嗅ぎ慣れた土と植物の匂い。
遠くからは、聞き覚えのある鳥の鳴き声が届いてくる。
「ここは……」
腕を地面へつき、上半身を起こした。
体の痛みを確かめるように肩を回す。幸いにも、骨や筋を痛めてはいなかった。
ステラはすぐ近くに倒れている雫へ気づく。
「ちょっと、雫!」
呼びかけても返事がない。
慌てて立ち上がり、その傍へ駆け寄った。
「雫、しっかりしなさい!」
「……んっ」
肩を揺すると、雫の口から小さな声が漏れる。
やがて長い睫毛が震え、瑠璃色の瞳がゆっくりと開かれた。
「ステラ……さん?」
「気がついた?」
「ここは、どこですの……?」
「それはたぶん……そんなことより、立てる?」
「え、えぇ。少し体を打ちましたけれど、大丈夫ですわ」
ステラに支えられ、雫はゆっくりと身を起こした。
二人は改めて周囲を見回す。
そこは、どこまでも続く広大な平原だった。
膝ほどの高さまで伸びた草が風に波打ち、ところどころへ木々や大きな岩が点在している。少し離れた場所には低い丘があり、その先に何があるのかまでは見通せない。
民家や舗装された道路、電柱といった日本の景色はどこにもなかった。
「こんな場所、道場の近くには……」
雫が困惑したように呟く。
予感はしつつも確認するかのように、ステラは空を見上げた。
どこまでも広がる青空。しかし日本の空とは異なり、全体が薄紫色を帯びている。雲の形も、差し込む光の色合いも懐かしい。
「やっぱり……間違いない。ここはミドラディアスよ」
「ミドラディアス……」
雫は聞き慣れない名を反復した。
道場での話し合いには参加していたため、それが異世界の名であることは知っている。
だが知識として聞くことと、実際にその地へ立つことはまるで違っていた。
「では、本当に異世界へ転移したのですか?」
「そうみたいね」
「ここが……陸徒様たちの訪れていた世界……」
雫は茫然と平原を見渡す。
にわかには信じられない話だった。
ほんの少し前まで、自分は祖父の道場にいた。それが今は、空の色すら異なる世界へ立っている。
「夢ではありませんのね」
「残念だけど、夢じゃないわ。ほら」
ステラは雫の頬を指で摘まんだ。
「い、痛いですわ!」
「痛いなら現実でしょ」
「だからといって、他人の頬を摘まむ必要はございません!」
雫は頬を押さえ、不満そうにステラを睨む。
「確認してあげただけじゃない」
「それでしたら、ご自分の頬で確認なさってください」
「アタシは最初から現実だってわかってるもの」
「もう……」
雫は頬を膨らませる。
そんな彼女から顔を背けたステラは、密かに安堵の息を吐いた。突然異世界へ連れてこられたというのに、普段どおり言い返す元気はあるらしい。
周囲に差し迫った危険がないことを確認し、ステラは肩に掛けたバッグに手を入れた。取り出したゲートクリスタルの欠片は、すでに輝きを失っている。
「勝手に連れてきておいて、もう反応なし? 相変わらず自分勝手なクリスタルね」
「その欠片が、私たちをこちらへ?」
「えぇ。今までの転移と同じなら、異変が起きる場所へ導いたはずよ」
「でしたら、元の世界へ戻ることもできるのではありませんか?」
「それができたら苦労しないわ」
ステラは欠片を空へかざし、光へ透かす。
ほんのりと青みがかった透明な結晶は、陽光を受けて煌めきを放ち、幾つもの面にステラの顔を映し出している。
内部に微かな力は感じられるものの、転移を引き起こすほど活性化してはいないようだ。
「この欠片がいつ反応するのか、アタシにもわからないの。異変を解決したからって、すぐ帰れるとも限らないし」
「では、しばらくはこちらで過ごすことになるかもしれないのですね」
「そういうこと」
ステラは欠片をバッグへ戻す。
その時、雫が少し離れた地面へ視線を向けた。
「ステラさん。あちらになにか落ちていますわ」
「え?」
二人の転がった場所から数歩離れた草むらに、長い物が二つ横たわっていた。
一つは、銀色の巨大な十字架を模した聖杖。
もう一つは、水色と金色で波の模様が描かれた、黒塗りの鞘へ収められた日本刀だった。
「あれは……パステリアウィッシュだわ!」
ステラは駆け寄り、聖杖を拾い上げる。
雫も日本刀を拾い、鞘と柄を確認した。
「水鏡ですわ。どうして、ここに……」
「クリスタルが一緒に転移させたんでしょうね」
「ですが、これは道場に置いたままでした」
「アタシも転移の時慌ててたから、手元から離してしまっていたけど……」
ステラは聖杖を両手で持ち、傷がないか調べる。
転移の際に投げ出されたようだが、幸い目立った損傷はなかった。
「アタシたちに必要なものだからと、一緒に持ってきてくれたのかしら」
「それほど、ここが危険な場所ということでしょうか?」
雫は宝刀水鏡を腰へ差しながら、わずかに表情を強張らせる。
「ミドラディアスでは、モンスターなんて当たり前に存在してるわ。武器がない状態で放り出されたら、それこそ一大事よ」
「先ほどのドヘルズペインのような怪物が、ほかにもいるのですか?」
「いるわよ。種類によって強さは全然違うけどね」
雫は息を呑み、再び周囲へ警戒を向けた。
先ほどまで美しく見えていた平原が、途端に危険な場所へ思えてくる。
木の陰や岩の背後から、いつ怪物が現れるかわからない。
「そんなに怯えなくても平気よ」
「怯えてなどおりませんわ」
「刀の柄を握りしめたまま言われても、説得力がないんだけど」
「これは警戒しているだけです」
「はいはい」
ステラは素っ気なく返し、平原の先へ目を凝らした。
パステリアウィッシュが手元にあれば、並のモンスター程度なら恐れる必要はない。
問題は、これからどう行動するかだった。
「せめて陸徒がいれば……」
無意識に、その名を口にする。
直後、背後に雫がいることを思い出し、ステラは気まずそうに口を閉ざした。
「陸徒様を、こちらへお呼びすることはできませんの?」
「転移先が同じ日本だったらね。でも、ここは異世界。互いの壁を越えて空間を繋ぐなんて、今のアタシにはできない」
「ゲートクリスタルの欠片がなければ、戻ることも呼び寄せることもできないのですね」
「そう。だから次に欠片が反応するまで、アタシたちだけで行動するしかないわ」
言いながら己の言葉にハッとして息を止める。
自分たちだけ。つまり雫と二人きり。
つい先ほど、彼女から正式な宣戦布告を受けたばかりである。
陸徒への気持ちはいい加減なものではない。遠慮するつもりもない。真っ直ぐな瞳でそう告げられた直後に、帰る方法のない異世界へ二人だけで転移してしまった。
ステラはパステリアウィッシュを握りしめ、雫から顔を背ける。
何を話せばいいのかわからない。宣戦布告への返事すら、まだしていなかった。
「……ステラさん」
「な、なによ」
話しかけられただけで、ステラの肩が跳ねる。
「どうして目を逸らしていらっしゃるのです?」
「別に。周囲を警戒してただけよ」
「先ほどから、同じ方向ばかり見ておりますけれど」
「そっちになにかいるかもしれないでしょ!」
「そうですか」
雫はそれ以上追及しなかった。
しばらく気まずい沈黙が続く。
少なくとも、ステラはそう感じていた。
ところが雫の表情には、戸惑いも居心地の悪さも浮かんでいない。
彼女は周囲を見渡したあと、ステラへ向き直った。
「こちらの世界について、私にはなんの知識もございません」
「そうでしょうね」
「ですから、ステラさんのお力をお借りしたいのです」
「え?」
予想外の言葉に、ステラは目を瞬かせる。
「アタシの?」
「はい。ここがどのような場所なのか、どちらへ向かえばよいのか。私には判断できませんもの」
「アンタ、ついさっきアタシに宣戦布告したのを忘れたわけ?」
「忘れておりませんわ」
精悍な顔で雫は平然と答える。
「陸徒様を巡って、私たちは恋敵です」
「こ、恋敵って……」
途端にステラの頬が熱を帯びていくのを如実に感じた。
「ア、アタシはまだ、陸徒を、す、好きだなんて、認めてないんだけど!」
「それでしたら、恋敵ではないのですか?」
「そういうわけじゃ……」
「どちらですの?」
「うるさいわね! 今は関係ないでしょ!」
「えぇ。私もそう思います」
雫は屈託のない笑みを浮かべた。
「今は陸徒様を巡って争う時ではありません。元の世界へ戻るためにも、力を合わせるべきですわ」
そこに駆け引きや偽りはなかった。
陸徒への想いは決して譲らない。それでもステラを敵として嫌っているわけではなく、心から恋の好敵手として認めている。
だからこそ、危険な状況では協力を求めることに何の抵抗もないのだ。
「ステラさんは、この世界のことをご存じです。私はモンスターとの戦いに慣れておりませんが、剣を振るうことならできます」
雫は腰の宝刀水鏡へ手を添える。
「お互いに足りないものを補えば、きっとこの状況も乗り越えられますわ」
「アンタって、本当に調子が狂うわね」
「そうでしょうか?」
「普通、宣戦布告した直後の相手に、そんな顔で協力を求める?」
「恋と今の状況は別の問題ですもの」
「簡単に分けられるものなの?」
「少なくとも、私はそのつもりですわ」
「……そう」
ステラは腰に手を当てて小さく息を吐いた。
雫の態度を見ていると、一人で気まずくしていたことが馬鹿らしく思えてくる。
「わかったわよ。ここから戻るまでは協力する。それでいいんでしょ?」
「ありがとうございます」
「でも勘違いしないで。アタシがいなきゃ、アンタ一人じゃ危なっかしいからよ」
「ふふっ」
「なにがおかしいの?」
「いいえ。ステラさんはお優しいのだと思いまして」
「誰がよ! アンタを放っておいて怪我でもされたら、陸徒になにを言われるかわからないだけ!」
「そういうことにしておきますわ」
「絶対に信じてないでしょ!」
ステラは声を荒らげる。
しかし、先ほどまで感じていた重苦しい気まずさは、いつの間にか薄れていた。




