ーいなくなっても、終わらないー
マリーが本を開くと、マトリスが、その表紙をのぞき込んだ。
「今日は、董卓が倒された後のお話です」
「コッ」
「都の人たちは喜びました。これで、少しは安心して暮らせると思ったでしょうね」
マリーは、しおりを抜いた。
「けれど、董卓の下で働いていた人たちは、反対に、怖くなってしまいました」
*
董卓が死んでも、その軍が、なくなったわけではなかった。
各地には、董卓に従っていた武将や兵士が残っている。
その中に、李傕と郭汜という二人の武将がいた。
「りかく、と、かくし。今日は、少しややこしい名前ですね」
マトリスの首が傾く。
「董卓の部下だった二人組、と覚えておいてください」
「コッ」
二人は心配していた。
董卓は、皇帝の命令で討たれた。
それなら、その部下だった自分たちも、捕まって殺されるのではないか。
そこで、罪を許してほしいと願い出た。
ところが、董卓を倒した後、政治の中心に立った王允は、それを認めなかった。
「前のお話で、呂布と力を合わせた人ですね」
王允にも、董卓の軍を、そのまま許してよいのかという考えがあった。
だが、許されなかった側は、ますます恐ろしくなる。
このまま、捕まるのを待つしかないのか。
それとも、兵士を解散させ、自分たちだけで逃げようか。
そんな相談が始まった。
「兵士をばらばらにして、こっそり逃げれば、見つかりにくいと思ったのですね」
マトリスが、片足を上げた。
「あなたは、隠れなくても大丈夫です」
小さな足は、ゆっくり下ろされた。
*
そこへ、別の考えを述べる人が現れた。
賈詡という人物である。
「かく、と読みます」
「コ?」
「郭汜の『かくし』と、賈詡の『かく』は、別の人です。二人組が、急に一人になったわけではありません」
マリーは指を三本立てた。
「逃げようかと相談している二人と、作戦を考える一人ですね」
賈詡は言った。
兵を解散して逃げれば、守ってくれる者がいなくなる。
その状態で追われたら、簡単に捕まってしまう。
それよりも、残った兵を集め、長安へ向かったらどうか。
「コケッ!」
「はい。逃げるどころか、都へ攻めていこうと勧めたのです」
勝てば、自分たちの身を守ることができる。
負けてから、逃げることを考えても遅くはない。
追い詰められていた李傕たちは、その案に従った。
自分たちも処罰されるかもしれない。
そう恐れる兵士たちが加わり、軍は大きくなっていく。
「同じ怖さを抱えた人たちが、集まったのですね」
マリーは本へ目を落とした。
「そして、その怖さが、今度は都へ向かう力になってしまいました」
*
長安では、呂布たちが迎え撃った。
あの、三兄弟を相手に戦った呂布である。
けれど、今度の敵は、一人の武将ではない。
大勢の兵士が都を囲み、攻撃を仕掛けてくる。
城壁の上にも、門のそばにも、守る人が必要だった。
食べ物や武器も運ばなければならない。
「呂布が一人で、全部の門に立つことはできませんからね」
マトリスが、右を見て、左を見た。
「そうです。片方を守っている間に、別のところが危なくなることもあります」
しかも、都の中から、攻めてきた軍に味方する者まで現れた。
とうとう守りは破られ、李傕たちの軍が長安へ入ってくる。
呂布は支えきれず、都を脱出した。
「コケ?」
「呂布も、逃げました」
強い武将がいる。
それだけでは、大きな町も、皇帝も、守りきれなかったのである。
*
王允は、都に残った。
そして、捕らえられ、殺されてしまった。
マリーがそこで言葉を切ると、マトリスは、羽をふくらませたまま動かなかった。
「董卓を倒すことは、できたのですけれどね」
その後、残された軍をどうするのか。
恐れている兵士たちを、どう落ち着かせるのか。
都を守るために、誰と力を合わせるのか。
まだ、考えなければならないことが、たくさんあった。
けれど、うまく収めることができなかった。
「大きな火を一つ消せても、周りに火のついた薪が残っていたら、また燃えてしまいますね」
マトリスが、本を見上げた。
「人を薪にたとえるのは、少し乱暴ですけれど。問題が残っていた、ということです」
*
こうして、皇帝のそばで力を握る人が、また入れ替わった。
今度は、李傕や郭汜たちだった。
幼い献帝は、董卓から解放されたと思ったのも、つかの間。
また、軍を持つ者たちの力に囲まれてしまった。
「皇帝なのに、誰かを止めることも、自分の暮らしを落ち着かせることも、難しかったのです」
マトリスが、マリーの靴へ体を寄せた。
長安の人々も、再び戦いに巻き込まれた。
戦う者が変わっても、食べ物を奪われたり、家族を失ったりする苦しさは変わらない。
「都の人たちは、誰が勝つかより、もう戦わないでほしいと思ったでしょうね」
マリーは、そっとページをめくった。
*
「さて。都がこんな様子の間も、ほかの土地では、人々の暮らしが続いています」
畑を耕す人がいる。
町を守る人がいる。
自分の軍を大きくしようとする人もいる。
以前、董卓を倒そうと集まった武将たちは、それぞれの土地で動き始めていた。
「その一人が、曹操です」
マトリスの首が、すっと伸びた。
「覚えていましたか。関羽に温かいお酒を用意した人ですね」
「コッ」
「その曹操が、今度は、自分の足場を固めていきます。兵士だけでなく、その人たちを支える食べ物も、暮らす場所も必要になりますから」
マリーは、しおりを挟んだ。
「次は、曹操のお話にしましょう」
マトリスが本をつつこうとして、その前で止まる。
「はい。今日は、ここまでです」
「コケッ」
鶏は立ち上がると、水の器へ歩いていった。
途中で一度、振り返る。
「本は、逃げませんよ」
マリーが閉じた本を見せると、マトリスは、ようやく前を向いた。




