ー燃える都と、ばらばらの連合軍ー
マリーが本を開いても、マトリスは、すぐには座らなかった。
足元を一回りして、マリーを見上げる。
「呂布が戻った、その後ですね」
「コッ」
「はい。今日は、董卓が都を離れるお話です」
マリーは、しおりを抜いた。
「引っ越しというには、あまりにも困った出発でした」
*
董卓がいる都は、洛陽といった。
立派な宮殿があり、大勢の人が暮らす、大きな町だった。
そこへ、董卓を倒そうとする連合軍が迫っていたのである。
呂布は強い。
けれど、呂布一人が強いからといって、各地から集まった軍を、いつまでも食い止められるとは限らない。
そこで董卓は、皇帝を連れて、西にある長安へ移ることにした。
「らくようから、ちょうあんへ。どちらも、都として使われたことのある町です」
マトリスが、右へ首を傾けた。
「ただ、自分たちだけで出発するつもりではありませんでした」
董卓は、洛陽に住む人々にも、長安へ移れと命じた。
家を離れたくない人もいる。
店を続けたい人もいる。
病気で、遠くまで歩けない人もいた。
それでも兵士たちは、人々を追い立てた。
「明日から別の町に住みなさい、と突然言われても、困りますよね」
「コケ」
「荷物をまとめるだけでも、大変です」
食べ物も、水も、運ぶ手段も、十分には用意されていない。
道には人があふれ、家族とはぐれる人や、疲れて動けなくなる人も出た。
兵士に急かされながら、人々は西へ向かうしかなかった。
*
「そして董卓は、空いた町を、そのまま残してはおきませんでした」
マリーの声に、マトリスが顔を上げた。
宮殿や人々の家に、火が放たれたのである。
自分たちを追ってくる軍に、立派な都を渡したくなかったのだ。
持ち出せる財産は奪う。
持ち出せない建物は焼く。
董卓の兵士たちは、墓に納められた宝まで掘り出した。
「コケーッ!」
「はい。それは、してはいけないことです」
マリーは、小さくうなずいた。
「亡くなった人のお墓まで荒らすなんて。残された家族が知ったら、どんな気持ちになるでしょうね」
洛陽のあちこちから、煙が上がった。
人々が毎朝通った道。
食べ物を売っていた店。
何代も家族で住んできた家。
そうしたものが、炎に包まれていく。
「董卓にとっては、置いていく建物だったのでしょうけれど」
マリーは、本の端を押さえた。
「住んでいた人にとっては、帰る場所だったのです」
マトリスは、座ったまま動かなかった。
*
やがて、連合軍の一人、孫堅が洛陽へ入った。
「そんけん、といいます。覚えていますか? 歴史の記録では、華雄を倒したのは、この人の軍でしたね」
「コッ」
「はい。今日は、お名前だけでも大丈夫です」
孫堅たちが見たのは、焼け跡になった都だった。
董卓を追い払えば、人々が喜んで迎えてくれる。
そんな光景は、そこにはなかった。
宮殿は焼け、家々は崩れ、通りには暮らしの気配がない。
孫堅は荒らされた皇帝の墓を整え、都の中で消えずに残っていた火を消させた。
「ようやく着いたのに、守りたかったものが、もう壊されていたのですね」
マトリスが立ち上がり、マリーへ一歩近づいた。
マリーは、その頭の上へ、そっと手を置いた。
「でも、董卓は、まだ逃げている途中です」
*
董卓を、このまま行かせてよいのか。
曹操は、連合軍の人々に、追いかけて戦おうと呼びかけた。
ところが、大きな軍を持つ人たちは、なかなか動かなかった。
戦えば、自分の兵士が傷つく。
追いかけた先に、敵が待ち伏せしているかもしれない。
誰かが先に行ってくれればよい。
そんな考えもあったのだろう。
「みんなで董卓を倒そうと集まったのに、いざ追いかけるとなると、足が止まってしまったのです」
「コケッ」
「ええ。曹操も、腹が立ったでしょうね」
曹操は、自分に従う軍などを率いて、董卓の軍を追った。
けれど、その先には、徐栄という董卓の武将が待っていた。
曹操の軍は敗れ、曹操自身も傷を負った。
馬まで倒され、危ないところを、いとこの曹洪に助けられる。
曹洪は、自分の馬を曹操に譲ったのである。
「そうこう、といいます。この人も曹操の仲間ですよ」
マトリスの首が、ゆっくり傾く。
「曹操に、曹洪。似ていますね。親戚には、曹のつく名前の人が、ほかにも出てきます」
「コ……」
「今、覚えるのをやめようと思いませんでしたか?」
*
曹操は、どうにか連合軍のもとへ戻った。
そして、軍をどう動かせば董卓を追い詰められるか、改めて提案した。
だが、それも実行されなかった。
連合軍には、兵士も武将も、たくさんいる。
けれど、全員に命令できる、強い仕組みがない。
まとめ役の袁紹がいても、ほかの人たちが、何でも言うとおりにするわけではなかった。
「みんな、自分の軍を持っていますからね。自分が困ると思えば、動かないこともできてしまうのです」
やがて、食べ物の取り分や、それぞれの思惑をめぐって、仲間同士の関係まで悪くなっていった。
董卓と戦うための連合は、少しずつ、ばらばらになっていく。
董卓を倒せないまま。
皇帝を助け出せないまま。
「たくさん集まれば、それだけで何とかなる。というものでも、なかったのですね」
マリーが本から顔を上げると、マトリスは、すぐそばに座っていた。
「劉備たち三兄弟は、三人で呂布に立ち向かいました。けれど、もっと大勢の連合軍は、同じようには動けませんでした」
マトリスが、マリーの指先を、くちばしで軽くつつく。
「……お話が少し、難しくなりましたか?」
「コッ」
「では、今日は、これだけ覚えてくださいね。董卓は都を焼いて逃げ、追いかける側は、仲間割れを始めてしまいました」
しおりを挟みながら、マリーは続けた。
「ただ、長安へ移った董卓にも、安心できる日が、ずっと続くわけではありません」
そのすぐ近くで、董卓を倒すための企てが、動き始める。
今度は、大勢の軍ではなく、董卓の身近にいる人々によって。
「続きは、また明日にしましょう」
マトリスは立ち上がると、マリーの靴に体を寄せた。
マリーは、もう一度、その背をそっとなでた。




