ー冷めないお酒と、頼もしいひげー
マリーが本を持って腰を下ろすと、マトリスは、もう足元に座っていた。
「……今日は、私より早いのですね」
「コッ」
「はい。連合軍の出発でしたね。覚えていますよ」
しおりを抜き、昨日の続きを開く。
「董卓を止めるために、各地から軍が集まってきました。今日は、その人たちが力を合わせて……」
マリーは少し先へ目を走らせた。
「合わせようとする、お話です」
*
董卓を倒そうと集まった武将たちは、相談の末、袁紹という人物を連合軍のまとめ役に選んだ。
「えんしょう、といいます。代々、国の大事な役目を務めてきた、立派な家の出身です」
マトリスが首を伸ばす。
「大勢をまとめるには、みんなが納得する人を選ばないといけませんからね」
けれど、集まったのは、それぞれ自分の兵士を率いる人たちだ。
董卓を倒したい気持ちは同じでも、考えていることまで同じとは限らない。
自分が手柄を立てたい人。
自分の兵士を減らしたくない人。
ほかの誰かに、先に戦ってほしい人。
「みんなでご飯を作ろうと集まったのに、誰も火の番をしたがらないようなものでしょうか」
マトリスは黙っている。
「食べるときだけ集まられても、困りますよね」
「コケッ」
「そこは、よくわかるのですね」
そんな連合軍に、劉備、関羽、張飛の三兄弟も加わっていた。
ただし、今の劉備は、大きな軍を持つ有名な武将ではない。
立派な家柄の人や、大勢の兵士を連れた人たちに交じると、どうしても目立たなかった。
「ですが、連れている二人は、とても頼もしいのです」
マリーは、本の中の名前を指先で押さえた。
「今日は特に、関羽の出番ですよ」
*
さて、ここからは『三国志演義』で語られる、有名なお話である。
連合軍の前に、董卓の部下、華雄という武将が立ちはだかった。
「かゆう、といいます。とても強くて、連合軍から戦いに出た武将たちが、次々に討たれてしまいます」
マトリスの羽が、少しふくらんだ。
軍の偉い人たちが集まった場所にも、悪い知らせが届く。
こちらの武将が、また倒された。
華雄は勢いづき、もっと強い相手を出せと迫っている。
誰を向かわせればよいのか。
居並ぶ人々が困っていた、そのときだった。
――私が参りましょう。
声を上げたのは、関羽だった。
背が高く、長く立派なひげをたくわえた男が、前へ進み出る。
ところが、すぐに任せてもらえたわけではない。
関羽がどれほど強いか、ここにいる人たちは、まだ知らなかったからだ。
どんな役目についているのかと尋ねられ、関羽は、劉備の下で兵を率いる身だと答えた。
すると、それを聞いた袁術という人物が怒りだした。
――そのような身分の者を出すとは、我々を軽く見ているのか。
マトリスが、片足を上げたまま止まった。
「強いかどうかより、役目が立派かどうかを気にしたのですね」
「コケ?」
「困っているのは、敵が強いことのはずなのですけれど」
そこで口を挟んだのが、曹操だった。
この男は、見たところ、ただ者ではない。
一度、行かせてみようではないか。
曹操はそう言って、関羽の出陣を後押しした。
*
戦いに向かう関羽へ、曹操は温めた酒を差し出した。
冷たい風の中へ出る前に、一杯飲んでいくとよい。
ところが関羽は、その杯を受け取らなかった。
――酒は、そのまま置いておいてください。戻ってからいただきます。
「コッ?」
「はい。帰ってきてから飲みます、と言ったのです」
関羽は馬に乗り、華雄の待つ方へ駆けていった。
やがて、陣の外から激しい太鼓の音が響く。
兵士たちの叫び声。
大地を揺らすような物音。
待っている人たちには、外で何が起きているのか、よく見えない。
関羽は大丈夫なのか。
やはり、別の武将を出すべきだったのではないか。
そう思う間もなく、馬のひづめの音が近づいてきた。
戻ってきたのは、関羽だった。
華雄を討ち取って。
マトリスが、すっくと立ち上がった。
「そして、置いていったお酒は、まだ冷めていなかったそうです」
「コケーッ!」
「ええ。驚くほど早く、勝って帰ってきたのですね」
マリーは、誇らしげに胸を張る鶏を見下ろした。
「マトリスが倒したわけではありませんよ?」
それでも、ふくらんだ胸は、そのままだった。
*
「ただし、本当に起きた出来事を記した歴史書では、華雄は孫堅という武将の軍に敗れています」
マリーは、ひと呼吸置いた。
「今のお話は、関羽の強さを印象深く伝える、物語の名場面なのです」
マトリスが首を傾ける。
「温かいお酒が冷める前に帰ってくる。それだけで、どれほど強かったのか、想像できますものね」
だが、華雄が倒れたからといって、董卓への道が開けたわけではなかった。
董卓の側には、さらに恐ろしい武将がいる。
「前に出てきましたね。赤兎馬をもらって、董卓の味方になった人です」
マトリスの首が、ぴたりと止まる。
「そう。呂布です」
関羽は強い。
張飛も強い。
けれど、今度の相手は、一人で向かって簡単に勝てるような男ではなかった。
「次は、三兄弟が、その呂布と向かい合います」
マリーが本を閉じようとすると、マトリスが裾をつついた。
「今日は、ここまでです」
「コッ」
「お酒が冷めないうちに帰ってきたお話ですから、私たちも、お茶が冷めないうちに休憩しましょう」
マリーは傍らのカップへ手を伸ばした。
ひと口飲んで、止まる。
「……こちらは、すっかり冷めていますね」
マトリスが、短く鳴いた。




