ー呂布の一矢と、止まった戦いー
マリーが本を開くと、マトリスは机の上の小さなクッションで、足を踏み替えていた。
「今日は、弓矢が一本、飛びます」
マトリスが、首を伸ばした。
「ただし、人を射るための矢ではありません。戦いを止めるための矢です」
「コッ?」
「どうしてそんなことができたのか、順番にお話ししますね。今回も『三国志演義』のお話です」
*
徐州を呂布に取られた劉備は、小沛に身を置いていた。
そこへ、袁術の軍が迫ってきたのである。
軍を率いているのは、紀霊という武将だった。
「きれい、と読みます。袁術の命令で、劉備を攻めに来た人です」
相手は大軍だった。
小沛にいる劉備たちだけでは、守りきれるかどうかわからない。
劉備は、呂布に助けを求めた。
マトリスが、羽をふくらませた。
「ええ。自分の徐州を取った人に、助けをお願いするのです。困った相手ですが、今は近くにいる、力のある人でもありました」
*
一方の呂布にも、考えなければならないことがあった。
劉備が袁術に倒されれば、次は自分が危ない。
袁術の勢力が近くまで広がり、徐州も攻められるかもしれないのだ。
「劉備を助けることが、自分の徐州を守ることにもなるのですね」
ただ、袁術の軍と正面から戦えば、呂布の兵にも被害が出る。
劉備を見捨てたくはない。
けれど、袁術との大きな戦いも避けたい。
そこで呂布は、兵を連れて小沛の近くへ向かった。
そして、劉備と紀霊の両方を、自分の陣へ招いたのである。
*
同じ席に着いた二人は、落ち着かなかった。
片方は、攻めに来た人。
もう片方は、攻められている人だ。
そこへ呂布が、戦いをやめるようにと言い出した。
紀霊は困った。
袁術から、劉備を倒せと命じられている。
呂布に言われたから帰りました、では済まない。
かといって、ここで呂布まで敵に回すのも厄介だった。
「帰っても怒られそうですし、帰らなくても目の前に呂布がいます」
「コッ」
「難しいお席ですね。ごちそうの味も、よくわからなさそうです」
マトリスは、おやつを一つつついた。
*
呂布は、自分の武器を持ってこさせた。
戟という、長い柄の先に刃がついた武器である。
「げき、と読みます。呂布のものには、横にも小さな刃が出ています」
それを兵士に渡し、陣の入り口のほうへ、遠く離して立てさせた。
その距離、百五十歩。
人を狙うのでさえ難しそうな遠さなのに、呂布が狙うのは、武器の横に出た小さな部分だった。
呂布は、二人に告げた。
自分が矢を一本放ち、あそこに当てたら、両方とも兵を引くこと。
外れたら、それぞれ陣へ帰り、戦えばよい。
「コケッ?」
「弓が当たるかどうかで、戦いをやめるか決めよう、と言ったのです」
紀霊は、遠くに立つ戟を見た。
あんなに小さなところへ、一本で当てられるはずがない。
そう考え、呂布の提案を受け入れた。
劉備も、うなずいた。
*
呂布が、弓を手に取った。
矢をつがえる。
先ほどまで言い争っていた人々も、口を閉じた。
遠くの入り口に、戟が一本立っている。
その手前には、長い距離があった。
呂布は、弓を引き絞った。
狙いを定める。
そして、放った。
矢が、まっすぐに飛んでいく。
次の瞬間、狙った小さな部分に、見事に命中したのである。
「コケッ!」
マトリスが、クッションの上で立ち上がった。
「はい。当ててしまいました」
マリーは、ページの上へ指を置いた。
「力が強いだけではなかったのですね。遠くの小さな的に、一度で当てる腕もあったのです」
*
紀霊は、驚いた。
だが、自分で約束を受け入れている。
当たったのを見たあとで、やはり戦うとは言いにくい。
しかも、目の前にいるのは、その矢を放った呂布である。
「約束を破ったら、この人を敵に回すかもしれませんね」
呂布は、袁術には自分からも話をすると伝え、両方に兵を引くよう求めた。
こうして紀霊は軍を引き、劉備も、ひとまず危機を逃れたのである。
大勢の兵がぶつかる前に、一本の矢が戦いを止めた。
*
「でも、矢が当たることと、劉備を攻めてよいかどうかは、本当は別のお話です」
マトリスが、首を傾けた。
「紀霊も、戦わずに帰る理由が必要でした。呂布との約束があれば、勝手に逃げ帰ったのではないと、説明できますね」
ただ力ずくで帰れと言われるよりも、受け入れる余地があったのだ。
そして、当てられるはずがないと思わせるほどの的に、呂布は当ててみせた。
「弓の腕で驚かせて、自分の言葉も聞いてもらったのですね」
「コッ」
「今回は、劉備にとって頼もしい呂布でした」
マリーは、しおりを挟んだ。
「けれど、助けてもらったからといって、これからずっと仲よく暮らせるとは限りません」
マトリスの首が、ゆっくりと下がった。
「次は、馬をめぐる騒ぎです。そこで、また張飛が関わってしまいます」
マリーが本を閉じると、マトリスは、おやつの皿を見た。
端のほうに、小さなかけらが一つ残っている。
首を伸ばし、一度で、つつき取った。
「こちらも、よく当たりましたね」
皿を確かめたマトリスは、クッションの上へ座り直した。




