ー譲られる徐州と、迎えたお客さまー
マリーが本を開くと、マトリスは机の上の小さなクッションに座っていた。
ただし、顔はおやつの皿に向いている。
「今日は、劉備のお話ですよ」
「コッ」
首だけが、本の方へ戻ってきた。
「前のお話で、曹操に敗れた呂布が、劉備を頼って徐州へ向かったと言いましたね」
マリーは、少し前のページを開いた。
「どうして劉備が徐州を任されていたのか。今日は、そこまで少し戻りましょう」
*
徐州を治めていたのは、陶謙だった。
曹操に攻められたとき、劉備は兵を連れて助けに来た。その後も徐州にとどまり、小沛という町に身を置いていたのである。
「しょうはい、と読みます。劉備たちがいる場所ですね」
戦いがひとまず収まっても、傷ついた土地が、すぐ元に戻るわけではない。
壊れた家を直す人がいる。
畑を耕し直す人がいる。
離ればなれになった家族を捜す人もいる。
徐州には、立て直さなければならないことが、たくさん残っていた。
そんな中、陶謙が重い病気になった。
「ここからは、『三国志演義』のお話で進めますね」
陶謙は劉備を呼び、徐州を任せたいと頼んだ。
だが、劉備は、すぐには受け取らなかった。
「コッ?」
「おやつのお皿を譲られるのとは、違いますからね」
マリーは、本の上に手を置いた。
「町も、畑も、そこで暮らす人たちもあります。いただきます、と言ったら、その人たちを守る役目も引き受けるのです」
しかも、陶謙には息子たちがいた。
劉備は、自分が受け継ぐべきではないと断る。
それでも陶謙は、徐州を任せる相手として、劉備を望んだ。
*
やがて、陶謙は亡くなった。
残された人たちは、これから徐州をどうするか、考えなければならなくなる。
この時代、治める人がいなくなったからといって、周りの有力者たちが、静かに待っていてくれるとは限らない。
兵を率いて、奪いに来る者もいる。
「鍵のかかっていない倉を、見つけたような顔をする人もいるのでしょうね」
マトリスが、おやつの皿を見た。
「そちらは、あなたの分もあります」
徐州の人々の中からも、劉備に任せたいという声が上がった。
陶謙に仕えていた糜竺たちも、劉備を説得したのである。
「びじく、と読みます。徐州で劉備を支える、大切な人の一人です」
何度も頼まれ、劉備は、とうとう引き受けた。
こうして劉備は、徐州を治める立場になったのである。
*
「草履を売っていた人が、大きな土地を任されましたね」
「コケッ」
「でも、これで安心して暮らせます、とはいきません」
兵士には、食べ物がいる。
町には、決まりがいる。
争いが起きれば、誰かが話を聞かなければならない。
畑仕事をする人を、いつまでも戦いに連れ出しておくわけにもいかなかった。
「自分たちのご飯だけ考えていた頃より、ずっと大変です」
マリーは、おやつの皿から果物を一つ取り、本の横へ置いた。
「これを、関羽にも、張飛にも、兵士たちにも分けるとしたら、どうしますか」
マトリスは、果物を見つめた。
「小さく切っても、限りがありますね。だから、次の実りまで考えなくてはいけないのです」
マトリスが、くちばしを伸ばす。
「あなたの分は、後で差し上げます」
*
さて、その徐州へ、ある武将がやってきた。
曹操との戦いに敗れ、兗州を追われた呂布である。
「ここで、前のお話につながります」
マトリスが首を上げた。
「呂布は、劉備を頼ってきました。兵士や家族を連れて、身を寄せる場所を求めたのですね」
劉備は、呂布を迎え入れた。
だが、迎える側にも、心配はあった。
呂布は、たいへん強い。
けれど、これまで仕えていた相手に刃を向けたこともある。
「丁原と、董卓のことですね。覚えていますか」
「コッ」
「今のお返事は、覚えている方で受け取っておきます」
とくに張飛は、呂布を信用していなかった。
強いから頼もしい。
強いからこそ、敵に回ると恐ろしい。
同じ強さでも、味方として見るかどうかで、ずいぶん違うのである。
*
『三国志演義』では、劉備は呂布に、徐州を譲ろうとまで申し出る。
これには、関羽も張飛も賛成しなかった。
呂布も、結局、その申し出を受けなかった。
「コケッ?」
「せっかく任されたばかりなのに、と驚きますよね」
マリーは、開いたページを見下ろした。
「困って来た人を助けることと、自分が預かった土地をどう守るか。両方、考えなければいけません」
結局、呂布は小沛に身を置くことになった。
かつて劉備たちがいた町で、兵を休めるのである。
劉備は徐州を治め、近くには呂布がいる。
ひとまず、落ち着く場所は決まった。
けれど、張飛の心配まで、なくなったわけではなかった。
*
「これで、劉備の周りには、強い人がまた一人増えました」
マトリスが、クッションの上で羽をふくらませた。
「ただし、関羽や張飛と、同じような仲間になったわけではありませんよ」
桃の園で、共に生きようと誓った二人。
戦いに敗れ、今は頼って来た呂布。
一緒にいる理由が違えば、考えていることも違う。
「同じ場所にいるからといって、同じ方を向いているとは限らないのですね」
マリーは、しおりを挟んだ。
「そして次は、徐州の外から、また戦いが近づいてきます。袁術という人を、覚えていますか」
マトリスは答えず、本の横の果物を見た。
「……こちらの約束は、覚えていましたね」
果物を差し出すと、すぐに小さなくちばしが伸びた。
少なくとも今は、マリーとマトリスの間に、意見の違いはなかった。




