ー強い呂布と、空っぽのおなかー
マリーが本を開くと、机の上の小さなクッションが、もぞもぞと動いた。
マトリスが座り直し、羽をふくらませる。
「今日は、曹操が自分の土地へ戻った、その続きです」
「コッ」
「留守の間に、呂布が入り込んでしまいましたね。曹操は、帰って休むどころではなくなりました」
マリーは、前の話の終わりを指で確かめた。
「今度は、自分の帰る場所を取り戻す戦いです」
*
曹操が徐州から引き返すと、兗州の多くは、すでに曹操から離れていた。
その中で、荀彧たちが守り抜いた拠点が残っていた。
曹操は、そこを足場にして戦い始める。
「全部取られていたら、兵士を休ませる場所にも困りますからね。守ってくれた人たちがいて、助かったのです」
けれど、相手は呂布だった。
赤兎馬に乗り、長い武器を振るう、あの強い武将である。
しかも、そのそばには、作戦を考える陳宮がいた。
「ちんきゅう、と読みます。前のお話で、曹操に背いた人の一人ですね」
マトリスが首を傾ける。
「強い呂布に、知恵を貸す人がついたのです。曹操にとっては、ますます困りますね」
戦いの中心になったのは、濮陽という町だった。
「ぼくよう、といいます。今日は、呂布が拠点にした町だと覚えてください」
曹操は、その町を奪おうと攻めた。
だが、簡単にはいかなかった。
*
「ここで、『三国志演義』の曹操は、とても危ない目に遭います」
町の中から、曹操に味方するという知らせが届いた。
門を開けるから、そこから入ってほしい。
曹操は、その誘いに応じて兵を進めた。
ところが、待っていたのは、味方ではなかった。
隠れていた敵が現れ、町の中で火が上がる。
罠だったのである。
「コケーッ!」
「はい。入れてもらえてよかった、と喜んでいる場合ではありません」
炎と煙の中で、兵士たちが入り乱れた。
誰がどこにいるのか、見失う。
帰ろうにも、来た道が安全とは限らない。
曹操は、必死に逃げ道を探した。
その途中で、なんと呂布に出くわしてしまう。
マトリスの首が、ぴたりと止まった。
「ですが、呂布は、目の前の相手が曹操だと気づきませんでした」
呂布は尋ねた。
――曹操は、どこにいる!
曹操は、とっさに別の方を指した。
向こうへ逃げた、と。
呂布は、そちらへ追いかけていったのである。
「コッ?」
「今、本人に聞きましたね」
マリーは、本から顔を上げた。
「曹操も、正直に『私です』とは答えられませんから」
マトリスが、マリーの指した方をのぞく。
「こちらには逃げていませんよ」
曹操は、どうにか町から抜け出した。
けれど、一歩間違えば、そこで命を落としていたところだった。
*
戦いは、一度では終わらなかった。
曹操も呂布も兵を動かし、攻めたり、退いたりを繰り返す。
そんな中、さらに困ったことが起きた。
大量のイナゴが発生し、作物を食い荒らしたのである。
「コッ」
マトリスが、少し前へ身を乗り出した。
「あなたにとっては、ご飯かもしれませんけれど」
マリーは、クッションから出かけた小さな足を見た。
「人が食べるはずの作物まで、なくなってしまったのです」
畑に穀物がなければ、収穫できない。
収穫できなければ、兵糧を集めることも難しい。
戦いで荒れた土地を、さらに飢えが襲った。
曹操の軍も、呂布の軍も、そのまま戦い続けることが難しくなった。
「どちらの武将が強いかに関係なく、お腹はすきますからね」
呂布がどれほど強くても、武器を振って穀物を実らせることはできない。
曹操が作戦を考えても、それだけで倉がいっぱいになるわけではなかった。
両方の軍は、いったん兵を引いた。
*
「これで、仲直りしたわけではありませんよ」
マトリスが見上げる。
「お互い、戦う余裕がなくなったのです」
曹操も、苦しい立場にいた。
せっかく得た土地の多くを失い、食べ物にも困っている。
このまま兗州を取り戻せるのか。
ほかの有力者を頼ることまで、考えなければならなかった。
だが、荀彧は、兗州を足場として守る大切さを説いた。
曹操を支え、帰りを待っていた人たちがいる。
そこを捨ててしまえば、立て直す場所まで失ってしまう。
「残ってくれた人たちがいるうちに、もう一度、力を合わせようとしたのですね」
曹操は態勢を整え、戦いを続けた。
今度も、一度にすべてを取り戻せたわけではない。
敵の動きを見て、戦う場所や時を選ぶ。
勝ったところから、少しずつ自分の支配を取り戻していく。
呂布も抵抗したが、やがて兗州にとどまれなくなった。
*
「こうして曹操は、自分の足場を取り戻していきました」
マトリスが、クッションの上で胸を張った。
「長い戦いでしたね。最初に戻ってきて、呂布と一騎打ちをして、おしまい。とは、いきませんでした」
兵士を休ませる場所。
食べ物。
留守を守る仲間。
そうしたものが、曹操を支えていた。
「では、負けた呂布は、どこへ行ったのでしょう?」
マリーがページをめくると、マトリスも首を伸ばした。
「徐州です。劉備を頼っていきます」
「コケッ!」
「はい。前に、関羽や張飛と一緒に戦った、あの劉備です」
その頃、徐州でも大きな変化が起きていた。
陶謙が亡くなり、その後を誰に任せるかという話が進んでいたのである。
「次は、劉備が徐州を任されるお話にしましょう」
マリーは、しおりを挟んだ。
マトリスは、閉じられた本を見てから、机の端にあるおやつの皿を見た。
「……そちらは、空っぽではありませんよ」
小さく切った果物を一つ差し出すと、マトリスは、すぐにくちばしを寄せた。
今日のお腹の問題は、無事に解決した。




