ー怒りの向かった先ー
マリーが本を開くと、マトリスは、いつものように机の上の小さなクッションに座った。
「今日は、曹操のお父さんが亡くなった、その後のお話です」
「コッ」
「少し、つらいところがあります。人が強い力を持っていると、その怒りまで、大勢の人に届いてしまうことがあるのですね」
マリーは、静かにページをめくった。
*
曹操の父は、曹嵩といった。
「そうすう、と読みます。息子の曹操とは、最後の音が違いますね」
曹嵩は、家族や財産とともに、曹操のもとへ移ろうとしていた。
ところが、その旅の途中で、一行は襲われ、殺されてしまう。
この事件の詳しい経緯には、いくつかの伝え方がある。
物語の『三国志演義』では、徐州の支配者である陶謙が護衛につけた者たちが、財産を奪おうとして起こした事件として描かれている。
「じょしゅうという土地と、そこを治める、とうけんという人が出てきます」
マトリスが首を傾けた。
「今日は、曹操の怒りが向かった相手だと覚えてくださいね」
曹操にとって、父を迎えるはずの旅だった。
無事に着いたという知らせを待っていたところへ、殺されたと伝えられたのである。
曹操は、悲しみ、激しく怒った。
そして、陶謙を討つために軍を動かした。
*
曹操の軍は、徐州へ攻め込んだ。
陶謙の軍は迎え撃つが、曹操の勢いを止められない。
町が攻められ、人々は逃げた。
けれど、誰もが安全な場所まで逃げられるわけではなかった。
曹操の軍は、兵士だけでなく、戦っていない住民まで大勢殺したのである。
マトリスの羽が、少しふくらんだ。
「……はい。お父さんを殺した相手ではない人たちまで、です」
畑を耕していた人。
店で物を売っていた人。
子供を連れて逃げようとしていた人。
その人たちは、曹操の父が襲われた事件とは関係がなかった。
「曹操が悲しかったことも、怒ったことも、わかります」
マリーは、本の端を押さえた。
「でも、だからといって、関係のない人を殺してよいことにはなりません」
マトリスは、鳴かなかった。
曹操は、前には董卓の横暴を止めようとしていた。
自分の土地では、大勢の人を受け入れ、軍を整えようともしていた。
その曹操が、今度は、よその土地の人々を苦しめている。
「同じ人なのですよね」
マリーの指が、行の上で止まった。
「頼もしいことをした人でも、ひどいことをする。それを、なかったことにはできないのです」
*
追い詰められた陶謙は、ほかの人々へ助けを求めた。
その求めに応じて動いた一人が、劉備だった。
「コケッ」
マトリスの首が伸びた。
「はい。関羽と張飛の、お兄さんです。久しぶりに出てきましたね」
この頃、劉備は、公孫瓚と関わりながら、自分の兵を率いていた。
曹操ほど大きな力を持っていたわけではない。
それでも、徐州を助けるために向かったのである。
「相手が強いから、聞かなかったことにします。とは、できなかったのでしょうね」
劉備は援軍として加わり、曹操を退かせようとした。
『三国志演義』では、曹操へ手紙を送り、争いを収めるように求める場面も描かれる。
「劉備と曹操は、以前は同じ連合軍にいましたね」
「コ?」
「今度は、曹操が攻める側で、劉備が助けに入る側です」
前に味方だったからといって、ずっと同じ側にいるとは限らない。
守ろうとする土地や、助けようとする相手が違えば、向かい合うこともあった。
*
曹操は、兵糧の問題もあって、一度は軍を退いた。
だが、それで徐州への攻撃が終わったわけではなかった。
再び軍を率いて攻め込み、戦いを広げていく。
「一度帰ったからといって、安心はできなかったのですね」
ところが、その曹操のもとへ、思いがけない知らせが届いた。
留守にしていた兗州で、反乱が起きたのである。
曹操の側にいた張邈や陳宮らが、曹操に背いた。
そして、別の武将を迎え入れていた。
「誰だと思いますか?」
マトリスが、じっとマリーを見上げる。
「呂布です」
「コケーッ!」
「そうです。赤兎馬の呂布が、また出てきました」
長安を追われた呂布は、その後も各地を渡り歩いていた。
その呂布が、今度は曹操の留守を狙って、兗州へ入ったのである。
*
曹操は、ほかの土地を攻めている場合ではなくなった。
自分の帰る場所が、奪われかけている。
兗州の多くが曹操から離れ、残された拠点では、荀彧たちが守りを固めていた。
「前のお話で紹介した、相談相手の人ですね」
「コッ」
「はい。留守を任せられる人がいるのは大切だと、お話ししたところでした」
その留守が、まさに危なくなっていた。
曹操は徐州から軍を引き返し、呂布と戦うために戻った。
徐州の人々にとっては、ようやく攻撃が止まったことになる。
けれど、失われた家や畑も、亡くなった家族も、それで元に戻るわけではなかった。
劉備は、徐州に残った。
その姿を、陶謙や、徐州の人々が見ていた。
*
マリーは、しおりを手に取った。
「今日は、曹操がお父さんを失い、その怒りから徐州を攻めたお話でした」
マトリスが、クッションの上で少し身を寄せ、マリーの手に体を触れさせる。
「次は、曹操と呂布の戦いです。曹操は、自分の土地を取り戻さなければなりません」
自分から攻めていた曹操が、今度は奪われた土地を取り返す側になる。
その間も、人々は、畑を耕し、家族を養っていかなければならなかった。
マリーは本を閉じ、そばにいるマトリスの小さな背に手を添えた。
マトリスは、逃げずにじっとしていた。
「……今日は、少し難しかったですね」
「コッ」
短い返事に、マリーはもう一度、その背をなでた。




