6話 名義
最初に頼まれた時、美紀はそこまで大ごとだと思わなかった。
「1回だけでいいから」
その言い方が、たぶんよくなかった。
1回だけ。
少しだけ。
今日だけ。
そういう言葉は、だいたい後から腐る。
美紀は25歳。
池袋西口のカラオケ店で夜勤をしている。
昼職ではないが風俗的な仕事でもない。
中途半端な時間の仕事で中途半端な生活をしていた。
昼に寝て、夕方起きて、夜に働く。
友達は減った。
でも、その方が楽でもあった。
ちゃんとしてる人間の生活を横で見ていると、自分の方だけ時間が少しずつ濁っていく気がした。
彼氏の亮は27歳。
バーテンダー見習いだと言っていたが、今は店に出ていない時間の方が多かった。
最初に会ったのは西口の居酒屋だった。
気さくで、話がうまくて、さみしい時にちょうどいい優しさを出す男だった。
美紀は、そういう優しさが危ないことを知っていた。
……知っていたのに、付き合った。
人間は、知っていることではあまり助からない。
その日、亮は美紀の部屋で煙草を吸いながら言った。
「携帯、1回線だけ追加で契約できない?」
美紀はコンビニのパスタを食べながら、顔を上げた。
「なんで」
「店の連絡用で、俺……前に飛ばれてるから審査ちょい通りにくくて」
「自分でやればいいじゃん」
「それができたら頼んでないって」
亮は笑っていた。
軽い調子だった。
深刻そうに頼まれるより、そっちの方が断りづらい。
「金は俺が払うし、端末代も通信費も全部!マジで名義だけ」
名義だけ。
その言葉も軽かった。
美紀はフォークを置いた。
「なんかやだ」
「何が?」
「いや、なんか」
「疑ってる?」
その聞き方が少しだけ面倒だった。
責めるでもなく、傷ついたふりをする。
そういう時の亮はうまかった。
「別にそうじゃないけど」
「じゃあいいじゃん、美紀にしか頼めないんだよ」
にしか、という言葉は気持ちがいい。
他にも頼める相手はいるのかもしれない。
でも、その時だけは自分が選ばれた気がする。
そういう瞬間に、人はだいたい損をする。
結局、美紀は翌週、駅前のショップへ行った。
平日の昼で、店内は空いていた。
若い店員が、プラン説明を淡々と進める。
本人確認。
支払い方法。
契約内容。
オプション。
補償。
全部が早かった。
美紀は言われるままに頷いた。
隣で亮がスマホを見ながら座っている。
他人事みたいな顔だった。
契約書に自分の名前を書く瞬間だけ、少しだけ嫌な感じがした。
けれど、その違和感はすぐに流れた。
新しい端末の箱を持って店を出た時、亮が肩を抱いた。
「助かった」
その一言で、嫌な感じはだいたい消えた。
単純だと自分でも思う。
でも、そういうものだった。
最初の1か月は何も起きなかった。
亮はちゃんと金を払った。
振込も早かった。
むしろ、美紀の方が考えすぎだったかもしれないと思った。
2か月目に入って、支払いが少し遅れた。
「今日ちょっと立て替えといて、明日返す」
その明日は、3日後になった。
でも返ってきた。
だから美紀は、まだ大丈夫だと思ってしまった。
3か月目、端末がもう1台増えた。
「え?」
「いや、SIMだけだと不便で、すぐ返すから」
「聞いてないんだけど」
「ごめんごめん、言うの忘れてた」
悪びれていない顔だった。
忘れてた……で済ませる顔。
美紀は少し怒ったが、結局その場で終わった。
喧嘩するほどでもないと思った。
こういう、するほどでもないことの積み重ねで、人間関係は腐る。
秋に入る頃には、亮は美紀の部屋に来る回数が減っていた。
連絡は来る。
でも会わない。
会う時だけ妙に優しい。
会わない間は、既読がついても返ってこない。
美紀は嫌な予感を持ちながら、見ないふりをしていた。
自分から全部を確かめるのが怖かったからだ。
壊れる前の関係は、曖昧なままの方がまだ生きて見える。
それを壊したのは、1本の電話だった。
昼の11時。
寝入りかけていた美紀は、知らない番号に起こされた。
「安藤美紀さんのお電話でお間違いないでしょうか」
男の声だった。
固い。
店の営業でも、督促でもない声。
「そうですけど」
「警視庁の者です、お伺いしたいことがありまして」
その瞬間、美紀は完全に目が覚めた。
心臓が変な音を立てた。
「……何の件ですか」
「お使いの携帯番号の一部が、特殊詐欺の連絡手段として利用されていた可能性がありまして」
言っている意味が、すぐには入ってこなかった。
特殊詐欺。
連絡手段。
利用されていた。
自分の番号。
頭の中で単語だけが滑る。
「ちょっと待ってください」
「ご本人確認の上、いくつか確認したいので署まで来ていただけますか」
電話を切ったあと、美紀はしばらく布団の上で動けなかった。
亮に電話した。
出ない。
もう1回かける。
出ない。
LINEを送る。
『何したの?』
既読はつかなかった。
そこで初めて、美紀は全部を理解した。
理解したというより、もう理解するしかなかった。
あいつが使った。
あいつが飛んだ。
名義は自分。
それだけの話だった。
警察署で事情を説明しても、気分はまったく軽くならなかった。
刑事は若くも年寄りでもない男だった。
感情を出さず、淡々と聞く。
「契約したのはあなたですね」
「はい」
「端末は誰が主に使用していましたか」
「彼氏です」
「お名前は」
「……分からないです、本名かどうかも」
言っていて、吐きそうになった。
付き合っていたはずの男の、本名すら怪しい。
住所も、勤務先も、全部ふわふわしていた。
そんな相手に名義を渡した。
ばかだと思った。
でも刑事は笑わなかった。
笑わない代わりに、同じことを少し言い換えて聞いた。
「以前にも似た依頼をされたことは?」
「ないです」
「違和感はありましたか」
「……ありました」
「それでも契約した」
「はい」
その、はい、がひどく重かった。
自分で認めるたびに、言い訳が1つずつ剥がれていく感じがした。
帰り道、池袋西口はいつも通りだった。
バスロータリー。
人の流れ。
コンビニの白い灯り。
雑居ビルの看板。
何も変わらない。
でも、美紀の方だけが急に街に合わなくなった気がした。
スマホを見ると、料金会社から未払い通知が来ていた。
亮が払うと言っていた分だった。
その通知文は、警察で受けた説明より冷たかった。
契約者さま。
期日までにお支払いください。
利用停止予定日。
名義人というのは、こういう時にだけはっきりする。
夜、亮からようやく返信が来た。
『ごめん』
その3文字を見た瞬間、美紀は逆に落ち着いた。
終わった、と思った。
腹が立つというより、ああやっぱり、という感じだった。
『警察から電話きた』
送る。
既読がつく。
返事は少し遅れて来た。
『俺も巻き込まれてる』
笑いそうになった。
巻き込まれてる。
まだその言い方をするのかと思った。
『もう無理』
『美紀も名前出さなきゃ大丈夫だから』
その文を見た瞬間、指先が冷えた。
自分が助かる話しかしていない。
最初から最後まで、こいつはそうだったのだと、そこでようやく腑に落ちた。
『私の名義なんだけど』
送る。
少し経ってから、返信。
『だから悪かったって』
謝っているようで、何も返していない文だった。
金も。
生活も。
信用も。
たぶん最初から返す気なんてなかった。
美紀はトーク画面を閉じた。
ブロックするか少し迷ったが、しなかった。
どうせ逃げるなら、こっちが閉じても閉じなくても同じだと思った。
数日後、店の休憩室で同僚に聞かれた。
「なんか最近死んでない?」
「まあ」
「男?」
「まあ、そんな感じ」
同僚はそれ以上聞かなかった。
やさしさなのか、面倒なだけなのか分からない。
でも、今はそれがありがたかった。
人に全部説明するには、長すぎて、情けなさすぎる話だった。
その夜、レジ裏で料金の支払い画面を見ながら、美紀は少しだけ笑った。
自分の名前で、自分じゃない男の後始末をしている。
恋愛というより、ほとんど事故処理だった。
けれど、契約書に名前を書いたのは自分だ。
そこだけは誰にもずらせない。
深夜2時を過ぎて、店の前の道路は少し静かになった。
ガラス越しに、コンビニの前で煙草を吸う男が見えた。
知らない顔だった。
でも、この街には、ああいう顔が多すぎる気がした。
頼る側の顔。
誘う側の顔。
何も知らないふりをする顔。
美紀はスマホの画面を消して、レジの金額を確認した。
数字は合っていた。
少なくとも今この場では、自分の名前と数字が一致している。
そのことだけが、少し救いだった。
亮からは、もう何も来なかった。
代わりに請求だけが残った。
愛されていた記憶よりも、長く手元に残った。




