7話 担当
最初に店へ入った時、沙季はもう少し明るい場所だと思っていた。
もっときらきらしていて、笑っている女ばかりいるのだと思っていた。
実際は違った。
明るいのは照明だけだった。
音も、香水も、男の声も、全部が少しだけ強すぎる。
その中で、客の女だけがみんな静かに壊れていた。
西島沙季は29歳だった。
昼は保険会社のコールセンターで働いている。
毎日同じような説明をして、同じような断られ方をされる。
怒鳴られる日もある。
泣かれる日もある。
その全部に、丁寧な声で返事をしなければならない。
感情を出した方が負ける仕事だった。
最初にその店へ入ったのは、会社の後輩に連れられてだった。
「初回なら安いですよ」
その言い方が、サブスクか何かみたいで少し笑った。
でも、実際そういうものだったのだと思う。
最初は安い。
最初だけは、誰にでもやさしい。
担当になった男は、蓮という源氏名だった。
細くて、肌がきれいで、声が低かった。
いかにも売れそうな顔ではない。
だから逆に、安心した。
露骨に綺麗な男の方がまだ警戒できる。
蓮はテーブルにつくなり、沙季の水を取ってグラスへ注いだ。
「仕事帰り?」
「そう」
「しんどそう」
「顔に出てる?」
「出てるっていうか、ちゃんと疲れてる顔」
その言い方が妙にやさしかった。
ブスとか、老けてるとか、そういう言葉は使わない。
でも、弱っているところはちゃんと見つける。
それが客を掴む男のやり方なのだと、あとから知った。
その日の会計は安かった。
初回料金と、少しのドリンク代だけ。
帰り際、蓮がエレベーター前まで送ってくれた。
「また来てよ」
営業だと分かっている。
なのに、その言葉が仕事の疲れよりあとに残った。
また来てよ。
会社でも家でも、そんなふうに言われることは減っていた。
2回目は1週間後だった。
本当は行かないつもりだった。
でも金曜の夜、会社でクレームを3本連続で受けたあと、無性に誰かにやさしくされたいと思った。
蓮は2回目もちゃんと覚えていた。
「保険の仕事でしょ」
「覚えてたんだ」
「そりゃ覚えてるよ」
たぶん、こういう店の男はみんな覚えている。
客の名前も、仕事も、前回の会話も。
覚えているというより、記録しているのかもしれない。
それでも、その瞬間だけは自分が特別みたいに思える。
……それが効く。
店に通う女は、金を払って酒を飲みに来ているんじゃない。
自分が見えていると思いたくて来ている。
沙季も同じだった。
3回目で連絡先を交換した。
4回目でLINEの返信を待つようになった。
5回目には、昼休みにスマホを見る回数が増えた。
蓮から来る文面は短かった。
『今日いるよ』
『仕事おつかれ』
『無理しすぎんなよ』
たったそれだけだ。
それだけなのに、心が少し持ち上がる。
逆に返事が遅い日は、それだけで気分が落ちた。
担当という言葉を、沙季はその頃ようやく自分の中で使い始めていた。
ただのホストじゃない。
担当。
その呼び方には、関係みたいな響きがある。
実際は金の流れに名前をつけただけなのに。
ある日、蓮が少し疲れた顔で言った。
「今日、締め日前でやばいんだよね」
店のことはよく分からなかったが、その時にはもう締め日という言葉くらい知っていた。
売上を締める日。
数字が足りないと、機嫌が悪くなる日。
客の金額が、そのまま担当の顔色になる日。
「へえ」
「へえ、じゃないんだよな」
蓮は笑った。
軽く笑って、でも少しだけ視線を落とした。
「まあ、沙季に言うことじゃないんだけど」
「何で」
「いや、重いかなって」
重いかな。
そう言われると、逆に聞きたくなる。
自分なら支えられる気がする。
そう思わせる間が、たぶんうまかった。
「別にいいよ」
「ほんと?」
「うん」
そこで蓮は、ありがとうと言った。
そのありがとうが、店に入った時のものより深く聞こえた。
たぶん気のせいだった。
でも、沙季にはそう聞こえた。
その日、沙季は予定より高いボトルを入れた。
会計を見た時、少し血の気が引いた。
でも蓮がうれしそうにしたので、まあいいかと思った。
こういう、まあいいか、で人は崩れる。
翌月には、来店頻度が増えていた。
月1が、月2になり、月3になった。
会わない日もLINEを待ち、既読がつけば安心する。
つかなければ、店で誰か他の女と飲んでいるのだろうと思って勝手に荒む。
自分でも面倒だと思う。
でも、面倒な感情ほど止まらない。
カードの請求額が増え始めたのは、その頃だった。
生活は回っていた。
家賃も払えていた。
食費も切っていない。
ただ、貯金が消えた。
数字だけが静かに減っていく。
沙季はそれを、自分への投資みたいに考えようとしていた。
楽しい時間に使っている。
気持ちが楽になるなら必要経費だ。
そう言い換えないと、自分が何をしているのか直視できなかった。
冬の終わり、蓮から珍しく長めの電話が来た。
「ちょっと声聞きたくて」
その一言で、沙季は完全にだめになった。
声を聞きたくて。
そんなことを言われたのは、いつぶりか思い出せなかった。
電話口の蓮は少し酒が入っているみたいだった。
「最近、沙季いないとつまんない」
「営業?」
「ひど」
「だってそうじゃん」
「まあ、仕事ではあるけど」
そこで少し間があった。
この間が、いちばん危ない。
言葉より先に期待が入ってくる。
「でも、沙季は普通に特別だよ」
沙季は何も返せなかった。
返したら、全部分かっている自分が邪魔をする気がした。
……特別。
その安い言葉に、自分から高い意味をつけるのはいつも客の側だ。
店ではそれを、色恋というのだと沙季は知っていた。
知っていて、落ちた。
知識は感情に勝たない。
3月の締め日、蓮はあからさまに数字が足りていなかった。
いつもより笑っていない。
でも露骨には言わない。
そういう時の方が、逆に分かる。
「今日、きつい?」
沙季がそう聞くと、蓮はすぐには答えなかった。
「まあ、ちょい」
「どのくらい」
「言わない方がいいやつ」
言わない方がいい。
そう言われると、聞きたくなる。
結局、沙季は売掛を切った。
その場では足りない分を、翌月払いに回す仕組みだと説明された。
名前だけ聞けば便利だ。
実際は、先に沼へ沈むための言い換えに近い。
伝票にサインする時、店長が事務的な顔で確認した。
「金額大丈夫ですか」
大丈夫なわけがなかった。
でも、そこで無理と言ったら、蓮の顔が曇る気がした。
「はい」
沙季はそう答えた。
その1回で、金の使い方の感覚が壊れた。
翌月から苦しくなった。
クレカの支払い。
携帯代。
保険料。
全部の数字に、売掛が混ざる。
昼の仕事を増やそうかとも思った。
でも疲れている時ほど、店へ行きたくなる。
苦しいから会いたい。
会いに行くと金が減る。
減るからまた苦しい。
ひどく単純なループなのに、抜ける時だけ異常に難しい。
5月の夜、沙季は店のトイレで吐いた。
飲みすぎたのではない。
カード会社から来た利用停止予告の通知を見たからだった。
鏡の中の自分は、化粧だけは整っていた。
目の下だけが死んでいる。
トイレを出ると、蓮が廊下で待っていた。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」
「ごめん」
何に対するごめんかは分からなかった。
でも、その声は少しだけ本物に聞こえた。
たぶんそれも、今の沙季には都合のいい解釈だった。
「私、もう無理かも」
「何が?」
「金」
蓮は黙った。
その黙り方で、沙季はようやく分かった。
自分が無理でも、店は止まらない。
担当が苦しくても、締め日は来る。
客が壊れても、翌日には別の女が座る。
蓮は少ししてから、低い声で言った。
「昼の仕事、増やせないの」
それが現実的な言葉だと分かって、逆に笑ってしまいそうになった。
増やせるなら、とっくにそうしている。
「無理」
「そっか」
蓮はそれ以上言わなかった。
やさしく抱きしめるでもない。
店を辞めると言うでもない。
ただ困った顔で立っていた。
その困り方が、いちばん残酷だった。
沙季はその夜、店を出てから西口のコンビニ前で立ち止まった。
スマホには、利用停止予告と、蓮からの『気をつけて帰って』が並んでいた。
街はいつも通りうるさい。
でも、自分の周りだけ妙に静かだった。
担当という言葉は、関係の名前じゃなかった。
金を流す方向にだけ使う、きれいな業界用語だった。
それに気づくのが遅かった。
遅かったけれど、請求だけはきっちり来た。
愛情より先に、引き落とし日が確定していた。




