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リセット  作者: ナオ
5/79

5話 通知

 最初は、暇つぶしだった。

 寝る前に少しだけ。

 電車の中で少しだけ。

 

 仕事の休憩中に、誰かの投稿を流し見するだけだった。

 

 それがいつからか、見ないと落ち着かないものに変わった。

 

 真鍋美咲は、池袋駅東口へ向かう通路でスマホを見ながら歩いていた。

 

 人にぶつかりそうになって、ようやく顔を上げる。

 

 朝の8時半。

 

 会社へ向かう人間の流れは速い。

 誰もが急いでいて、誰も他人を見ていない。

 

 そのくせ、スマホの中では全員が誰かに見られたがっている。

 

 美咲は27歳だった。

 都内の不動産会社で事務をしている。

 派手ではないが、地味すぎもしない。

 

 大学を出て、そのまま普通に就職して、普通に働いてきた。

 

 友達も少なくはない。

 恋人はいない。

 別に不幸じゃない。

 

 でも、画面の中に出てくる人間たちと比べると、何も起きていない人生みたいに見えた。

 

 通勤電車の中で、まずインスタを開く。

 

 大学時代の知り合いが、婚約指輪の写真を上げている。

 

 白い皿の上に、リングケースとカフェラテ。

 

 #プロポーズされました。

 #これからもよろしくね。

 数百件のいいね。

 

 コメント欄には祝福の言葉が並んでいた。

 

 美咲は何も押さず、次へ飛ばした。

 

 次は会社の後輩のストーリーだった。

 

 高そうなホテルのアフタヌーンティー。

 

 次の動画では男の手だけが映っている。

 

 ああいうのを匂わせと言うのだと、誰かが言っていた。

 

 幸せを全部見せるのではなく、少しだけ見せる。

 その方が反応が取れる。

 

 全部分かっているのに、見てしまう。

 

 胸の奥がざらつく。

 

 美咲はスマホを閉じた。

 

 そのくせ3分後にはまた開いた。

 

 会社に着くと、隣の席の後輩が明るい声で言った。

 

「真鍋さん、昨日DM返しました?」

 

「何の?」

 

「例の物件のやつです、オーナーさん返信早いんで既読ついてたらすぐ返した方がいいっす」

 

「見てないかも」

 

「やば、急いだ方がいいです」

 

 やばい。

 急いだ方がいい。

 

 そういう言葉ばかり増えた気がする。

 

 仕事でも、私生活でも、SNSでも。

 既読がついたら返す。

 通知が来たら見る。

 反応が遅いと、何かを失う気がする。

 

 美咲は午前中ずっとスマホを気にしていた。

 

 会社のPCに向かいながら机の上に伏せた画面を何度も見た。

 

 光らない。

 誰からも来ない。

 

 来ないと、少しだけ自分が薄くなる気がした。

 

 昼休み、同僚たちがランチへ出るのを断って、美咲は1人でコンビニのサラダパスタを食べた。

 

 別に嫌われているわけではない。

 

 ただ、誰かといる時までスマホを見るのは感じが悪いと分かっていた。

 

 だから1人の方が都合がいい。

 

 食べながら、裏垢を開く。

 

 本垢では言えないことを吐くためだけに作ったアカウントだった。

 

 フォロワーは58人。

 

 知らない女ばかりだった。

 

 病む。

 しんどい。

 メンブレ。

 匂わせきつい。

 

 そういう言葉が、夜になるほど流れてくる。

 

 美咲は何となく安心していた。

 自分だけじゃないと思えるからだ。

 

 でも本当は、あの場所でさえ誰かに見られたくて書いている。

 

 今日も1つ投稿した。

 

『昼休みに1人でごはん食べるの、別に平気なふりしてるけど、たまに普通にきつい』

 

 数分で2件いいねがついた。

 

 それだけで、少し呼吸が楽になる。

 反応がある。

 見えている。

 

 ただ、それだけのことが、異常なくらい効く。

 

 午後、得意先からの電話を1本取り逃した。

 

 折り返しのタイミングが遅れて、上司に軽く注意される。

 

「最近、ちょっと抜けてるよな」

 

「すみません」

 

「体調悪いなら言って」

 

「大丈夫です」

 

 本当は大丈夫じゃなかった。

 眠れていない。

 夜中の2時とか3時まで、画面を見ている。

 

 誰かの幸せを見て、自分の生活と比べて、勝手に削れて、なのに閉じられない。

 

 通知を消しても、指がまた開く。

 

 病気みたいだと思う。

 

 でも、病気というほどの大げさなものではないとも思う。

 

 それが1番やっかいだった。

 

 会社帰り、美咲は池袋西口のカフェに寄った。

 

 SNSで見かけた新作スイーツを注文して、窓際の席に座る。

 

 写真を撮る。

 角度を変える。

 明るさをいじる。

 肌を少し飛ばす。

 テーブルの上を整える。

 5枚、10枚、15枚。

 

 ようやく1枚を選んで投稿する。

 

『仕事終わりの糖分』

 

 たったそれだけの文に、15分かかった。

 

 投稿した瞬間は少しだけ気分がいい。

 

 出した、という感覚がある。

 

 空っぽの自分から何かが外へ出た感じがする。

 

 でも、その先が長かった。

 

 いいねが増える速度。 

 誰が見て、誰が見ていないか。

 ストーリーは上げすぎると必死に見えるか。

 加工が強すぎるか。

 コメントに何て返すか。

 

 全部が気になる。

 スマホの画面から目を離せない。

 

 隣の席では、若い女2人が笑いながら動画を回していた。

 

「それ盛れてる」

 

「待って、それは加工強い」

 

「いや逆にこのくらいじゃないと無理」

 

 無理。

 

 その言葉に、美咲は少しだけ笑いそうになった。

 本当にそうだと思った。

 このくらいじゃないと無理なのだ。

 

 普通の顔。

 普通の生活。

 普通の気分。

 

 そんなものを、そのまま出しても誰も見ない。

 

 だから少し盛る。

 少し削る。

 少し嘘を混ぜる。

 

 それを毎日やっていると、どこまでが自分なのか分からなくなる。

 

 夜、家に帰ってからが本番だった。

 

 風呂に入る前にスマホ。

 ドライヤーの後にスマホ。

 ベッドに入ってからスマホ。

 

 通知欄には、仕事の連絡、アプリのおすすめ、セール情報、フォロー通知、知らない広告が並ぶ。

 

 多すぎて本当に欲しい通知は埋もれる。

 でも、それでも見てしまう。

 

 0時を過ぎた頃に大学時代の元彼のアカウントが動いた。

 

 普段はほとんど更新しない男だった。

 なのに、その日は珍しくストーリーを上げていた。

 

 部屋の照明。

 グラスが2つ。

 女の爪だけが見える。

 

 ……それだけ。

 

 匂わせですらない、ただの断片だ。

 

 でも、美咲には十分だった。

 

 胸の奥が急に冷える。

 別れて3年も経っている。

 未練なんてないと思っていた。

 

 なのに、知らない誰かの存在が画面に混ざっただけで、呼吸が浅くなる。

 

 美咲は何度もそのストーリーを見返した。

 

 誰だろう。

 いつからだろう。

 どういう女だろう。

 自分より若いのか。

 かわいいのか。

 ちゃんと愛されてるのか。

 

 そんなことを考える意味は1つもない。

 ないのに、頭が止まらない。

 

 気づくと、相手のフォロー欄を遡っていた。

 女の気配がありそうなアカウントを開く。

 

 鍵垢。

 非公開。

 また戻る。

 昔の写真を見る。

 

 自分が映っていた頃の投稿は、もう残っていない。

 

 全部消えていた。

 

 美咲はベッドの上で固まった。

 

 自分だけがまだ少し残っていたのだと、そこで分かった。

 

 相手はとっくに消している。


 自分だけが、古い通知みたいに、どこかに引っかかっていた。

 

 スマホが手から滑って、床に落ちた。

 

 ――鈍い音。

 

 その音でようやく、自分が泣いていることに気づく。

 

 泣くほどのことじゃない。

 そう思う。

 でも、泣いている。

 

 悔しいのか、恥ずかしいのか、自分でも分からなかった。

 

 1時過ぎに裏垢を開き、何か書かずにいられなかった。

 

『誰かの幸せを見て勝手に死にたくなるの、ほんと終わってる』

 

 投稿して、数秒待つ……。

 反応がない……。

 10秒。

 20秒。

 1分。

 

 誰も何も押さない。

 

 急に、その文がひどくみじめに見えた。

 かまってほしい人間の文だと思った。

 

 実際そうだった。

 美咲はすぐに消した。

 

 消したあとで、もっと苦しくなった。

 

 なかったことにしたいのに、自分があの文を書いた事実だけは消えない。

 

 スマホの画面に、自分の顔がうっすら映る。

 

 目の下が暗い。

 髪も乾ききっていない。

 盛れていない顔だった。

 

 その時、別の通知が入る。

 

 マッチングアプリからだった。

 

『あなたに興味を持った人がいます』

 

 美咲はしばらく見つめたあと、アプリを開いた。

 そこには笑った男の顔が並んでいた。

 

 年収。

 職業。

 趣味。

 居住地。

 

 条件だけが先に並ぶ。

 

 人を見る前に、情報を見る。

 

 恋愛まで広告みたいだと思った。

 

 でも、美咲はその中の1人に、何となくいいねを返した。

 

 理由はなかった。

 

 ただ、今ここで誰かと接続していないと、自分が本当に消えそうだった。

 

 翌朝、会社へ向かう途中で、ホームの白線の前に立つ。

 

 電車が入ってくる風が強い。

 スマホを見る。

 昨夜の投稿のいいね数。

 元彼のストーリーはもう消えている。

 

 マッチングアプリの相手からは、短いメッセージが来ていた。

 

『はじめまして、よろしくお願いします』

 

 美咲はその文を読みながら、自分が今ここから落ちたとしてもスマホだけは最後まで手放さない気がした。

 

 それが1番怖かった。

 

 死にたいわけじゃない。

 ただ、通知のない世界に自分が耐えられる気がしなかった。

 

 電車が止まり、ドアが開く。

 人が流れる。

 美咲もその中に混ざる。

 何もなかった顔で。

 

 ポケットの中で、スマホがまた小さく震えた。

 それだけで、今日もまだ生きていられる気がした。

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