51話 個室
最初は、寝るだけの場所だった。
終電を逃した時。
家に帰りたくない時。
朝まで時間を潰したい時。
池袋のネカフェは、そういう人間を何でもない顔で受け入れる。
受付。
会員証。
ドリンクバー。
個室番号。
それだけで、一晩の居場所ができる。
だから高橋航平も、最初はそこをただの避難所だと思っていた。
航平は29歳。
西口の居酒屋で働いている。
社員ではない。
でもバイトでもない。
店長の下で、中途半端に長く使われている側だった。
シフトは重い。
帰りは遅い。
給料は悪くないが、生活が変わるほどでもない。
酒を扱う仕事でも、自分ではあまり飲まない。
疲れていると、酒より狭い個室の方が落ち着く夜がある。
航平は週に2回くらい、池袋西口のネカフェへ行っていた。
古いビルの7階。
受付の女はいつも同じ顔で会員証を受け取る。
明るすぎない照明。
少し湿った空調。
通路の奥へ進むと、個室番号だけが静かに並んでいる。
それが妙に好きだった。
誰とも喋らなくていい。
漫画を読むふりでもいい。
動画を流して寝てもいい。
シャワーを浴びて、朝まで消えていても誰にも咎められない。
池袋の夜には、そういう「消えててもいい場所」が少しだけ必要だった。
店で働いていると、常連の顔を覚える。
ネカフェも同じだった。
毎回同じ時間に来る男。
スーツのまま入って、朝に出ていく女。
でかいキャリーケースを持ってる外国人。
寝るだけの顔をしたホスト。
酔ってるのに個室だけはちゃんと取る女。
そういうのを、見ようとしなくても少しずつ覚える。
中でも、個室番号23を取る女がいた。
小柄。
帽子。
黒いマスク。
荷物は少ない。
でも毎回、同じ小さいキャリーだけ持っている。
年は20代半ばくらい。
顔はよく見えない。
でも、受付で名前を書く時の手元だけが妙に慣れていた。
泊まり慣れている人間の手つきだった。
航平は別に、その女へ興味があったわけではない。
ただ、よく見る顔の1つだった。
金曜の深夜、店を閉めてからネカフェへ入る。
受付を通る。
通路へ入る。
その流れの中で、またあの女が23番へ入っていくのを見た。
その夜は雨だった。
靴の先が少し濡れている。
キャリーのタイヤも湿っていた。
でも、女はそれを気にしていない顔だった。
航平は31番に入った。
個室は狭い。
リクライニングの椅子。
汚れたクッション。
小さいテーブル。
壁の薄さだけが、いつ来ても同じだった。
イヤホンをつけて、動画を流し、靴を脱いで足を伸ばす。
それで十分だった。
朝まで誰にも何も言われない場所としては。
夜中の2時を回った頃、通路で少し音がした。
大きな音ではない。
でも、この手の場所では足音の質で何となく分かるものがある。
店員じゃない。
酔っ払いでもない。
迷っている客の歩き方でもない。
真っすぐ来る足音だった。
航平はイヤホンを外した。
通路の先で、男の声がした。
「23、入ってる?」
受付の若い男が答える。
「個人情報なんで」
「いや、連れなんだけど、中で待ち合わせしてて」
その言い方が妙に自然で、逆に嫌だった。
本当に連れなら、個室番号なんて受付で聞かない。
直接連絡を取るはずだからだ。
受付の男もそれが分かっている声だった。
「こちらからお伝えする形なら」
男は少しだけ黙った。
それから言う。
「じゃあそれで」
その会話で終わるかと思った。
でも終わらなかった。
数分後、通路を歩く音がまたした。
今度は1人じゃない。
……2人。
しかも受付の男の足音じゃない。
航平はドアの隙間から少しだけ見た。
黒い服の男が2人いた。
1人はさっきの声のやつだろう。
もう1人は少し背が高い。
2人とも店員みたいな顔はしていない。
でも、無理やり感もない。
そういうのが一番まずい。
大きく揉めない方法に慣れている人間の歩き方だった。
23番の前で止まる。
軽くノック。
「開けて」
女の声は聞こえない。
もう1回ノック。
今度は少し低い声。
「話だけ」
それでも返事はない。
航平はそこで、見てはいけないものを見ている感じがした。
でも目を離せなかった。
ネカフェの個室っていうのは、完全な密室じゃない。
だから余計にまずい。
外の空気が少しだけ届くぶん、何かが起きても「ただの会話」に見える幅があるからだ。
受付の方から若い店員が来た。
「他のお客様もいるんで」
黒い服の男は振り向いて、少し笑った。
「すぐ終わる」
その言い方が、妙に落ち着いていた。
店員はそれ以上強く出なかった。
それもよく分かった。
この場所は、寝床がない人間や、帰れない人間や、見たくないものを抱えた人間を受け入れる代わりに少し変なことには鈍い。
通報するほどでもない。
暴れているわけでもない。
そういう線の内側で起きることには、あまり深く入りたがらない。
23番のドアが少しだけ開いた。
女の顔は見えない。
黒い服の男が低く言う。
「荷物だけ出して」
「今日はそれでいいから」
その一言で、航平は少しだけ背中が冷えた。
今日はそれでいい。
つまり、今日は本人を連れていかないだけで、何かは回収しに来ている。
女はしばらく返事をしなかった。
でも、数秒後、小さいキャリーだけがドアの隙間から出てきた。
男がそれを受け取る。
鍵はかけない。
怒鳴らない。
ただ、荷物だけ持っていく。
そこが一番嫌だった。
殴る方がまだ話が早い。
こういう、静かに生活だけ削っていくやり方の方が長く効く。
「明日、また連絡する」
男はそう言って、キャリーを引いた。
そのまま帰る。
店員は何も言わない。
言えないというより、もう終わった空気にされていた。
通路が静かになる。
航平はしばらく動けなかった。
関わる理由はない。
でも、何もなかったことにもできない。
ネカフェっていうのは、そういう場所なのかもしれないと思った。
完全に表でも裏でもない。
追われてる人間も、追う人間も、同じ顔で入って来られる。
番号だけが部屋になって、名前は薄くなる。
だから余計に、何かが起きても生活の延長みたいに見えてしまう。
朝5時前、航平がシャワーを使おうと外へ出ると、23番のドアが少し開いていた。
中の女は起きていた。
でも動いていない。
スマホだけ見ている。
キャリーがなくなった部屋は、妙に広く見えた。
航平は一瞬だけ迷ってから声をかけた。
「大丈夫ですか」
女は顔を上げた。
その時初めて、ちゃんと顔が見えた。
若い。
でも若いだけじゃない顔だった。
もう少し前に、何度も寝てない人間の目をしていた。
「……別に」
その返しは弱かった。
「さっきの、知り合い?」
女は少し黙った。
それから笑った。
笑ったというより、諦めた時の口の形だった。
「そういうことにしてます」
航平は何も返せなかった。
そういうことにしてます。
それで済ませている人間の生活に、たぶん今まで何人も踏み込んできたのだろうと思ったからだ。
「店の人?」
航平が聞くと、女は首を振った。
「前はそんな感じ」
「……今はちょっと違う」
その言い方も曖昧だった。
でも曖昧なままでしか言えない話もあるのだろうと分かった。
「荷物、大丈夫なんですか」
女はスマホを見たまま言う。
「大丈夫じゃないです」
「でも、あれ持ってかれるだけならまだ軽いから」
その軽い、が軽くないことくらいは、航平にも分かった。
着替えかもしれない。
化粧品かもしれない。
身分証かもしれない。
スマホの予備かもしれない。
どれにしても、生活の次に必要なものだけを持っていかれたのだろう。
そうやって人は、ちゃんと逃げきれない形にされる。
「通報とか」
そこまで言って、航平は自分でも薄いと思った。
女は少しだけ笑った。
「ここで?」
それで終わりだった。
ネカフェの個室番号っていうのは、多分、逃げた人間の部屋番号じゃない。
まだ完全には逃げ切れていない人間に、一晩だけ与えられる整理番号みたいなものなのだ。
朝6時過ぎ、航平が先に出た。
雨は止んでいた。
西口の空気は少し白くて、夜の匂いだけが薄く残っている。
通勤の人間が増え始める。
スーツ。
学生。
始発で帰る女。
全部が同じ道を歩く。
ネカフェの中で個室番号だけになっていた人間も、朝になればまた何かの顔をして外へ出る。
それが池袋だった。
昨日まで何でもなかったみたいな顔で、ちゃんと夜の続きが歩いている。
その日の夜、航平はまた同じネカフェへ行った。
癖だった。
家に帰る前に、少しだけ狭い個室へ入りたい夜はある。
受付を通る。
会員証を出す。
若い店員が何でもない顔で番号を出す。
通路を歩く。
23番のドアは閉まっていた。
そのまま空いているようにも見えた。
でも、個室の前には小さいボストンバッグだけが置いてあった。
誰のものか分からない。
でも、誰かがまた一晩だけそこへいるのだろうとは分かった。
池袋の夜には、そういう部屋がいくつもある。
住所じゃない。
家でもない。
でも、とりあえず今夜だけ消えるには十分な場所。
そして本当に怖いのは、そういう場所ほど、追う側もちゃんと知っていることだった。




