44話 面談
最初に壊れたのは、教室じゃなかった。
家でもなかった。
面談室だった。
そこは、話し合うための部屋のはずだった。
白い机。
向かい合う椅子。
壁に貼られた進路資料。
観葉植物。
加湿器。
全部が、冷静で安全な場所みたいな顔をしていた。
でも実際には、あそこで一番よくやられているのは、問題を小さくすることだった。
小さく見せる。
言い方を丸める。
責任を散らす。
誰か1人が悪い話じゃない形にする。
そうしているうちに、削られる方だけがちゃんと削られていく。
藤川真琴は、中学2年だった。
特別目立つ子ではない。
成績は中くらい。
部活は美術部。
友達は少ないが、いないわけでもない。
先生からも、特に問題のある生徒とは思われていなかった。
そういう、どこにでもいる子だった。
だから最初は、少しのことだと思った。
机に落書き。
上履きがなくなる。
グループLINEで自分だけ返信がない。
体育の着替えの時に笑われる。
そういうのは、はっきりした暴力じゃない。
だから、被害だと口にするには少し薄い。
薄いから、飲み込みやすい。
真琴も最初はそうした。
よくあること。
気にしすぎ。
たまたま。
自分にそう言い聞かせた。
でも、その「たまたま」は毎週あった。
毎週あるたまたまは、もうたまたまじゃない。
ある日の昼休み、机の中に入っていたプリントがびしょびしょになっていた。
水だった。
牛乳じゃない。
だから余計に悪かった。
汚すためというより、気づくかどうかの境目に置く感じがしたからだ。
気づいても、大騒ぎしにくい。
でも確実に嫌な気持ちにはなる。
その加減が、いちばん長く効く。
真琴は濡れたプリントを持って、トイレへ行った。
個室に入って、しばらく立ったままだった。
泣くほどでもないと思った。
でも涙は出た。
泣くほどでもないことの方が、学校では長く残る。
その日の放課後、担任の大野が声をかけてきた。
「藤川、ちょっといい?」
大野は30代半ば。
国語教師。
怒鳴るタイプではない。
生徒にも柔らかい。
保護者受けもいい。
そういう先生だった。
面談室に入ると、大野は少し困ったような顔をして座った。
「最近、少し元気ない?」
真琴は首を振った。
「別に」
その「別に」は嘘だった。
でも、いじめられてますとは言えなかった。
言った瞬間、話が大きくなる気がしたからだ。
大きくなれば、クラスにも分かる。
分かれば、もっと面倒になる。
そういうことを、まだ中2でもちゃんと考える。
「何かあったら言ってね」
大野はそう言った。
その時は、本当に気づいていない顔だった。
でもその翌週、真琴は保健室で養護教諭に呼び止められた。
「少し休んでく?」
そこで初めて、自分の顔がそんなに分かりやすくなっているのかと思った。
たぶん、授業中にぼんやりしていたのだろう。
たぶん、給食もあまり食べていなかったのだろう。
でも、気づくのは先生の仕事なのだから、気づいたなら止めてほしいとも思った。
その気持ちと、気づかれたくない気持ちが、同時にあった。
数日後、母へ学校から電話が入った。
真琴はそれを夜になってから知った。
「先生から電話あったけど、何かあったの?」
母は台所で皿を拭きながら、できるだけ普通の声で聞いた。
父は仕事で遅い。
弟はリビングでゲームをしていた。
そういういつもの夜の中で、その質問だけが妙に浮いた。
「何もない」
真琴は言った。
「でも、学校では少し元気ないって」
「別に」
……母はしばらく黙っていた。
それから言った。
「いじめとかじゃないよね」
その言葉を聞いた瞬間、真琴はなぜか少し腹が立った。
いじめとかじゃないよね、じゃない。
もしそうだったらどうするのかが先だろうと思ったからだ。
でも、そう思ったところで、口から出たのは違う言葉だった。
「違う」
母はそれ以上聞かなかった。
聞かないことで、少し優しい顔をする大人がいる。
でもそれは、助ける準備じゃなくて、面倒を避ける優しさの時もある。
1週間後、真琴の体操着が切られた。
大きくではない。
脇の縫い目が少し。
ハサミでちょんと入れた程度。
でも着たらすぐ分かる位置だった。
そこでようやく、真琴は担任へ言った。
放課後の職員室前。
他の先生が行き来する廊下で、小さい声で。
「……ちょっと嫌なことされてて」
大野はその一言で、空気を変えた。
真剣な顔をした。
すぐ面談室を開けた。
真琴はその時、少しだけ安心しかけた。
やっと言えたと思った。
ここからちゃんと何かが動くのかもしれないと思った。
でも、違った。
大野は丁寧だった。
メモも取った。
否定もしなかった。
でも、最初にこう言った。
「まずは大ごとにしない形で整理しようか」
その一言で、真琴は少しだけ冷えた。
大ごとにしない形。
つまり、学校が困らない形を最初に考えているのだと分かったからだ。
「誰か心当たりある?」
「……あります」
「名前は今すぐじゃなくてもいいよ」
大野は優しかった。
でも、その優しさは全部、波を立てないために使われている感じがした。
「藤川も、もし言いづらかったら無理しなくていいから」
無理しなくていい。
それもまた、学校でよく使われる言葉だった。
言わなくてもいい理由を、生徒の側へ置くための。
真琴は結局、その日、名前を出さなかった。
出したら止まると思えなかったからだ。
中途半端に出したら、むしろもっと悪くなる気がした。
その感覚だけは正しかったのかもしれない。
でも出さなかったことで、次の話はすぐに「人間関係のすれ違い」みたいな顔をし始めた。
翌日から、クラスの空気が少しだけ変わった。
表立ったことは減った。
落書きもない。
物もなくならない。
でも、もっと細かいものが増えた。
席替えで近くになると、ひそひそ笑う。
真琴が話すと、会話が止まる。
廊下ですれ違う時だけ、わざとぶつからない程度に肩を寄せる。
そういう、教師が見ても「気のせい」と言えそうなものばかりが増えた。
やり方が変わったのだ。
大人が動く気配を感じた時だけ、見えるものを減らす。
子どもはそのへんだけ、やけに賢い。
月末、学校から呼ばれた。
母も一緒だった。
面談室には大野と、学年主任の女教師もいた。
真琴はその並びを見た瞬間、嫌な予感がした。
自分を助ける会じゃない。
整理する会だと思った。
大野はいつもの柔らかい声で言った。
「最近、藤川さんが少し……しんどそうだということで、お母さまと共有しておきたくて」
共有。
その言葉も便利だった。
問題を解決するんじゃなく、みんなで持ってることにする。
そうすれば、誰の責任も少し薄まるからだ。
母は緊張した顔で座っていた。
パートを早退して来たのだろう。
エプロンは外していたが、手元だけまだ少し荒れていた。
「いじめの可能性もゼロではないんですが」
学年主任が言った。
「現時点では、はっきりした証拠がなくて」
真琴はその言葉を聞いて、急に黙りたくなった。
証拠。
学校はいつもそうだと思った。
机の落書きは消える。
グループLINEは見せにくい。
体操着は「引っかけた」でも通る。
つまり、子ども同士の悪意は、大人が責任を取らなくて済む程度にいつも薄い。
だから、証拠がない限り、何もなかったことに近づいていく。
母が言った。
「本人はつらいと思ってるんですよね」
その言い方は、真琴には少しだけ頼りなく聞こえた。
もっと怒ってほしかった。
もっとはっきり、何とかしてくださいと言ってほしかった。
でも母は、学校と揉める準備がある顔ではなかった。
生活に余裕がない親は、学校と戦う体力も少ない。
それを真琴は、その時なんとなく分かってしまった。
大野はうなずいた。
「もちろん、そこは配慮します」
配慮します。
それもまた、何もしない時によく使う言葉だった。
席を少し離す。
様子を見る。
声かけを増やす。
全部そうだ。
やっている感はある。
でも止める力は弱い。
真琴は、その面談の途中で、自分が一番まずい場所にいることに気づいた。
明確に守られるほどの被害者ではない。
でも無傷でもない。
だから、学校は大きく動かない。
家もそこまで強く出ない。
自分だけが、毎日ちゃんとしんどい。
……その位置だった。
面談が終わる頃、学年主任が言った。
「お母さまも、ご家庭で少し見ていただいて」
その言い方で、真琴はようやく全部を理解した。
見ていただいて、はつまり、そっちでも何とかしろという意味だった。
学校だけの問題ではない形にしたいのだ。
そうすると、学校の責任が少し薄くなるから。
帰り道、母は何度か何か言いかけてやめた。
駅までの道で、最終的に言ったのは、
「少し学校休む?」
だった。
真琴はそれを聞いて、少しだけ笑った。
自分がいなくなる方を先に考えるのかと思ったからだ。
でもそれも、母なりの精一杯なのだろうとも思った。
家計を崩さず。
学校とも揉めすぎず。
娘も壊しきらず。
その狭い隙間で、できることを探しているだけだ。
「休んだら余計無理」
真琴は言った。
それは本音だった。
休んだら、戻れなくなる気がした。
次の日から、真琴は前より静かになった。
学校では必要なことしか言わない。
昼休みは図書室へ行く。
トイレは1人で行かない。
LINEはあまり見ない。
そうやって自分で被害を減らすしかなかった。
学校も少しだけ動いた。
席は離れた。
大野も声をかけてくる。
でも、空気は変わらなかった。
それどころか、クラスの中には「先生に言ったらしい」という薄い気配だけが残った。
誰も直接は言わない。
でも、真琴が通る時だけ会話が少し切れる。
それだけで十分だった。
7月の終わり、また面談があった。
今度は三者面談のついでみたいな顔だった。
進路の話も混ぜて、何でもない感じでやるつもりなのだろうと思った。
大野は変わらず優しかった。
でも最後にこう言った。
「2学期、気持ちを切り替えていけるといいね」
真琴はその瞬間、何かが完全に切れた気がした。
切り替える。
誰が。
何を。
自分がか。
やられた側がか。
そう思った。
でも、口には出さなかった。
出したところで、今度は「感情的になっている生徒」の顔をされるだけだと思ったからだ。
面談が終わって、母はまた少し疲れた顔をしていた。
大人も大人で、たぶんしんどいのだろうと思う。
でも、そのしんどさで、自分のしんどさが軽くなるわけでもなかった。
真琴は帰り道、スマホを開いて、クラスのグループを見た。
通知はたくさんある。
でも自分への返信は少ない。
いつも通りだった。
学校も。
家も。
グループLINEも。
全部が少しずつ普通の顔をして続いていく。
面談っていうのは、話し合う場所じゃないのかもしれないと、真琴はその時思った。
壊れたことを、壊れきっていない形に言い換える場所なのかもしれない。
そうやって夏休みに入る頃には、真琴は前よりちゃんと笑えるようになっていた。
先生の前では。
家でも少し。
それが一番まずかった。
大人は、笑えている子を見ると少し安心するからだ。
でも本当は、笑えるようになったんじゃない。
何を言っても、そこまで変わらないことに慣れただけだった。




