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リセット  作者: ナオ


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43話 配信

 最初は、顔を出さない約束だった。


 声だけ。

 手元だけ。

 雑談だけ。


 だから大丈夫だと思った。


 誰にも知られない。


 普通のバイトより少し楽で、少しだけ金になる。


 そう思って始める女は多いのだろうと、美月はあとになって思った。

 大丈夫だと思うための理由が、最初からちゃんと用意されているからだ。


 西野美月は24歳。


 昼はアパレルの倉庫で働いている。

 時給は安く、シフトも不安定で、重い段ボールだけが毎日少しずつ腕に残った。


 1人暮らしではない。

 板橋の古い団地で母と暮らしていた。


 でも家に金はなかった。


 父親はいない。


 高校を出てすぐ働き始めてから、ずっと何かが足りない生活だけが続いていた。

 服が欲しいとか、旅行へ行きたいとか、そういう派手な足りなさではない。


 スマホ代。

 定期代。

 家へ入れる金。

 歯医者。

 友達の結婚祝い。


 そういう、断れば終わるわけでもない出費ばかりが続く。


 足りないのに、誰にも大変そうな顔は見せたくなかった。


 見せたところで何も増えないからだ。

 配信を始めたのは、倉庫の同僚が教えてくれたのがきっかけだった。


「顔出しなしでも、結構いけるよ」


 休憩室でカップ麺をすすりながら、その子は軽く言った。


「喋るの苦じゃないなら向いてるかも」


 向いてる。

 そういう言葉を久しぶりに聞いた気がした。

 仕事で向いてると言われることなんて、ほとんどなかったからだ。


 美月は昔から、話す時だけ少し愛想がよかった。

 顔がいいわけでもない。

 愛嬌があるとも違う。


 でも、相手の欲しい返事を少しだけ早く返すのがうまかった。


 配信アプリは簡単だった。


 登録。

 アイコン。

 名前。


 声だけの設定。

 少し加工された文字。


 それだけで始められた。


 最初の数日は、誰も来なかった。


 来ても2人か3人。

 何も投げない。

 少し喋って、消える。


 でも、それでよかった。


 誰にも知られないまま終わるなら、それはそれで安心だった。


 変わったのは、4日目の夜だった。


 同じ名前の男がずっといた。


 ユーザー名は「くろ」。

 コメントは少ない。

 でも落ちない。


 配信が終わる頃、小さなギフトを投げた。


 大した額じゃない。


 でも、美月にはそれが妙に効いた。


 本当に金になるのだと初めて分かったからだ。


 次の日も、くろは来た。


 その次も。

 少しずつコメントが増えた。


『今日疲れてる?』

『声ちょっと低いね』

『倉庫、だるそう』


 美月は最初、それを気味悪いと思った。

 でも同時に、少しだけ嬉しくもあった。

 家でも職場でも、自分の声の高さなんて誰も気づかないからだ。


 くろは他のリスナーより金を使った。


 少しだけ。

 でも継続して。


 メッセージも送ってきた。


『無理しないで』

『今日は配信ある?』

『来てくれると助かる』


 最後の一文が、妙に残った。

 助かる。

 誰かのその言葉に、自分が入る感じがしたからだ。


 配信は少しずつ生活へ入り込んだ。


 倉庫から帰る。

 風呂に入る。

 母が寝たのを確認する。

 イヤホンをつける。

 暗い部屋でスマホだけ光らせる。

 

 最初は30分だった。

 

 そのうち1時間になった。

 

 1時間半になった。

 

 長くやるほど、くろは喜んだ。

 

 他のリスナーも増えた。

 

 でも美月は、配信の中でくろの反応ばかり気にするようになっていた。

 

 いなければ不安だった。

 来れば安心した。

 投げれば嬉しかった。

 投げない日は、何か悪かったかと考えた。

 

 そういう依存は、恋愛の顔をしていない方が深い時がある。

 

 顔も知らない。

 声すら知らない。

 

 なのに、画面の向こうの機嫌だけで夜の気分が決まる。

 

 それが少しずつ普通になっていった。

 

 くろはある時から、配信の外でも喋りたがるようになった。

 

『通話しない?』

 

 美月は最初、断った。

 そこは違うと思ったからだ。

 

 配信の中だけ。

 顔も出さない。

 個別には行かない。

 最初に自分で引いた線だった。

 

 でも、くろは引かなかった。

 

『ちょっとだけでいい』

『疲れてるなら無理しない』

『ただ、配信だと人多いから』

 

 その言い方がうまかった。

 

 強く来ない。

 

 でも、こっちに選ばせる顔をする。

 

 そういう男は、だいたい面倒だと美月も分かっていた。

 分かっていたのに、ある夜、通話してしまった。

 

 理由は単純だった。

 

 くろがその月、一番投げていたからだ。

 

 そして、美月ももう、その金を前提に生活を少し組み始めていた。

 

 スマホ代を払った。

 美容院へ行った。

 母に少し多めに家へ入れた。

 

 その使い方をした時点で、配信はもう小遣いじゃなくなっていた。

 

 くろの声は普通だった。

 

 低くも高くもない。

 年齢もよく分からない。

 でも話し方が落ち着いていた。

 初めてなのに、前から知っている感じで喋る。

 

 その自然さが、逆に少し怖かった。

 

 でも、夜中の通話で「今日は何があったの」と聞かれると、人は思っているより簡単に話す。

 

 職場のこと。

 母のこと。

 お金のこと。

 少しだけ、未来が見えないこと。

 

 気づけば美月は、友達にも言わないことまで喋っていた。

 

 くろは否定しなかった。

 励ました。

 時々、すごくちょうどいいタイミングで黙った。

 

 その沈黙の作り方がうまい男は危ない。

 

 でも、そういう男ほど、寂しい夜には効く。

 

 通話のあと、くろはまたギフトを投げた。

 

 配信中に。

 

『さっきありがと』

 

 その一言と一緒に。

 それで美月は、少しだけ感覚を壊した。

 

 配信の中の客ではなく、少し特別な誰かになった気がしたからだ。

 

 実際には逆だったのかもしれない。

 配信の外まで買われ始めていただけで。

 そのあと、くろは少しずつ要求を増やした。

 

『もう少し遅い時間もやって』

『今日は他のやつより先に話したい』

『声だけじゃなくて手元映せる?』

 

 全部、小さい。

 全部、断れなくもない。

 

 でも断るたびに、次の投げが少し減る。

 

 反応も少し冷たくなる。

 美月はその変化にすぐ気づいた。

 そして、気づくたびに怖くなった。

 

 配信の収入より、くろが離れることの方が少し怖くなっている自分に。

 

 手元だけ、と思ってカメラを下げた日、くろは大きいギフトを投げた。

 

『今日いいね』

 

 たったそれだけだった。

 

 でも、その「いいね」で、美月は1回分の線を越えた。

 

 次は、私服を褒められた。

 次は、部屋の音を聞きたいと言われた。

 次は、外で歩いてるところを少しだけ見せてと言われた。

 

 顔は映さないから。

 位置は分からないから。

 今日だけだから。

 

 その言葉で、全部が少しずつずれた。

 ある夜、くろは言った。

 

『直接会った方が早くない?』

 

 美月はその文を見て、しばらく息が止まった。

 ついに来たと思った。

 来ると思っていたくせに、本当に来ると体が嫌がる。

 

『無理』

 

 そう返すと、くろはすぐには追わなかった。

 

 でも配信に来る回数が減った。

 投げも減った。

 反応も薄くなった。

 美月はそれを見て、腹が立った。

 

 腹が立つのに、配信をつけるたび、くろが来ていないか確認していた。

 

 そこまで来ると、もう向こうの思う通りだった。

 数日後、くろからまたメッセージが来た。

 

『別に変なことしないよ』

『ただ飯食うだけ』

『今まで結構入れてるし、そのくらい信用ない?』

 

 その一文が嫌だった。

 信用ない、じゃない。

 

 金を使ったぶん、何かを受け取れると思っている言い方だったからだ。

 

 でも、美月はそこで完全には切れなかった。

 切ったら、今までのやり取り全部が気持ち悪くなる気がしたからだ。

 自分が賢くやってるつもりだった時間まで、全部安くなる気がしたからだ。

 

 会ったのは昼だった。

 

 池袋のカフェ。

 人が多い場所。

 それなら大丈夫だと思った。

 くろは40代だった。

 少し太っていて、服は普通だった。

 顔も普通だった。

 だから余計に気持ち悪かった。

 

 こういう男が、夜中の画面の向こうで自分の声を待っていたのだと思うと、急に全部のやり取りが湿った感じで戻ってくる。

 

「初めまして」

 

 男は笑って言った。

 その笑い方まで、もう少し若いものを想像していた自分が嫌だった。

 

 話は最初だけ普通だった。

 

 仕事のこと。

 配信のこと。

 どうやって始めたか。

 でも途中から、男は自然に言った。

 

「今日、あんま時間ない?」

 

 美月はコーヒーを置いた。

 

「あるけど」

 

「じゃあ場所変えない?」

 

「どこ」

 

「静かなとこ」

 

 その言い方で、もう終わりだった。


 最初から飯だけじゃない。

 でも、そこまでのやり取り全部で、そうじゃない顔を作ってきたのだ。

 美月は立ち上がった。

 

「帰る」

 

 男は少しだけ驚いた顔をした。

 その驚き方に、逆に慣れを感じた。

 今まで、何人かはついてきたのだろうと思った。

 

「え、何で」

 

「そういうの聞いてない」

 

「いや、そんな怒ること?」

 

 そう言う男ほど、最初から分かっている。

 怒る権利があることも。

 

 それでも、相手が先に気まずくなるのを待っているだけだ。

 

 美月は財布から自分の分だけ置いて店を出た。

 駅までの道で、スマホが震えた。

 くろだった。

 

『意味わかんない』

『こっちは時間作ったんだけど』

『今まで何だったの?』

 

 その文を見た時、美月はやっと全部つながった。

 

 投げ銭も。

 通話も。

 優しさみたいな文面も。

 全部、買っていただけだ。

 買ったぶんだけ近づけると思っていただけだ。

 

 でも一番嫌だったのは、そのことに今までちゃんと気づいていたくせに、見ないふりをしていた自分だった。

 その夜、美月は配信をつけなかった。

 

 次の日も。

 その次の日も。

 

 ……でもアプリは消せなかった。


 通知を切っても、気になって開く。


 ランキングを見る。

 前の常連の名前を見る。


 くろのアカウントがまだいるのも見つける。


 そのたび、少しだけ吐きそうになる。


 なのに、配信をしないと金も減る。

 それが一番現実だった。


 1週間後、美月はまた配信をつけた。


 顔は出さない。

 声だけ。

 雑談だけ。

 最初と同じ形に戻したつもりだった。


 でももう、同じではなかった。


 リスナーのコメントの1つ1つに、値段がついて見えるようになっていたからだ。


『声好き』

『今日遅かったね』

『また通話したい』


 全部、ただの文字なのに、少しずつ手を伸ばしてくる感じがする。

 美月はそれでも笑って返した。

 前より少しだけうまく。

 少しだけ空っぽに。


 配信が終わる直前、小さなギフトが飛んだ。


 知らない名前だった。


 でも、金額はちゃんと分かる。

 美月は反射みたいに言った。


「ありがとう」


 その声が、自分でも少し前よりやわらかいのが分かった。


 そこで初めて、本当に怖くなった。

 嫌な思いをしたから終わるんじゃない。

 嫌な思いをしても、金になる形だけ身体が覚えていく。


 それが一番、配信っぽかった。

 終わったあと、部屋は静かだった。


 母はもう寝ている。

 団地の外は暗い。

 スマホの画面だけがまだ少し光っている。

 美月は通知欄を見た。

 新しいフォロワー。

 新しいギフト。


 知らない男からのメッセージ。


 その全部が、前より少しだけ怖くて、前より少しだけありがたかった。

 そこまで来ると、もう何に溺れているのか、自分でも分かりにくくなる。


 男か。

 金か。

 承認か。

 それとも、誰かに待たれている感じそのものか。


 ……たぶん全部だった。


 だから抜けにくいのだと、美月はやっと分かった。


 画面を閉じても、次の夜はまた光る。

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