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リセット  作者: ナオ


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42話 署名

 最初は、名前を書くだけの話だった。


 お金を借りるわけじゃない。

 自分が住むわけでもない。


 ただ、書類の一番下に名前を書く。


 それだけ。


 そう言われると、人はだいたい深く考えない。

 深く考えたら断るしかなくなるからだ。


 村瀬亮は33歳。


 川口の金属加工会社で働いている。


 独身。


 実家を出てからは、安い1DKで1人暮らしだ。

 朝は早い。

 帰りは遅い。

 給料は悪くないが、余裕もない。


 車のローンと、前に組んだカードの分割がまだ少し残っている。


 それでも生活は回っていた。


 派手じゃない代わりに、ちゃんと壊れもしない生活だった。

 壊れたのは、妹から電話が来てからだった。


 妹の美咲は28歳。

 結婚していたが、2年前に離婚した。


 今は男と同棲しているらしい。

 らしい、というのは、亮がその男に会ったことがなかったからだ。


 名前は和也。

 職業は営業。

 そう聞いていた。


 ……それ以上は知らなかった。


 兄妹仲が悪いわけではない。

 でも、良いとも言えなかった。


 実家にいた頃から、美咲は困った時だけ連絡してきた。


 金を貸してほしい。

 父に言わないでほしい。

 少しだけ保証してほしい。


 そういう時だけ、声がやわらかくなる。

 亮はそれを分かっていた。

 分かっていても、切れなかった。


 血縁というのは、嫌いになっても無関係にはなれない。

 電話は日曜の昼だった。


「お兄ちゃん、今平気?」


 その一言で、亮は少し嫌な予感がした。


「何?」


「いや、ちょっと相談あって」


「金ない」


「まだ何も言ってないじゃん」


 その返し方まで、いつも通りだった。

 明るく笑って、こっちの警戒を先に薄めようとする。


「和也がさ、部屋借りたいんだけど」


 亮は黙った。

 その沈黙を、美咲はすぐ埋める。


「今のとこ更新できなくて」


「何で?」


「ちょっと審査が」


「何したの?」


「何もしてないって」


 そう言う時は、だいたい何かしている。

 

 でも、美咲はそこを詳しく言わない。

 言わないまま、結論だけ近づけてくる。

 

「でね、保証人だけお願いできないかなって」

 

 亮はその瞬間、ベランダの洗濯物を見ていた。

 

 風が少しだけある。

 Tシャツが揺れている。

 それくらい何でもない日曜だった。

 なのに、その一言だけが急に別の重さを持った。

 

「嫌だよ」

 

 亮はすぐ言った。

 

 美咲は少し黙った。

 たぶん、もう少し考えてから断ると思っていたのだろう。

 

「でも、ただ名前書くだけだよ」

 

「そのただが一番まずいだろ」

 

「ちゃんと払うし」

 

「ちゃんと払えるやつが何で審査落ちるんだよ」

 

 そこは美咲も答えなかった。

 代わりに言った。

 

「今ほんとに困ってるの」

 

 亮はその言葉に弱かった。

 本当に困っている声を、完全に切れるほど器用じゃなかった。

 

 昔からそうだ。

 父親は怒鳴る人だった。

 母親は黙る人だった。

 

 だから、家の中で美咲が泣くと、亮が間に入るしかない時が何度もあった。

 その癖が、今でも少し残っている。

 

「保証会社あるだろ」

 

「それでも厳しいって」

 

「じゃあ親に言えよ」

 

「お父さんには無理」

 

 その一言で、亮は少しだけ疲れた。

 

 無理なのは分かる。

 父親は今でも面倒だ。

 でも無理だからって、こっちへ持ってくるなとも思う。

 

 そういう気持ちと、でも妹だしな、という古い感覚が、いつも中途半端に混ざる。

 

「1回会うだけでいいから」

 

 美咲が言う。

 

「和也もちゃんと説明したいって言ってる」

 

 その「ちゃんと」が信用できないと分かっているのに、亮は最終的に会うことを断れなかった。

 断れなかった時点で、半分負けていたのだと思う。

 

 会ったのはファミレスだった。

 

 和也は思ったより普通の男だった。

 

 36歳。

 短髪。

 スーツではないが、きれいなジャケットを着ていた。

 声も落ち着いている。

 最初にきちんと頭を下げた。

 

「すみません、急にこんな話」

 

 ……その言い方がうまかった。

 

 最初から下に出る。

 でも下に出るやつほど、本当に下ではないこともある。

 

 亮はそこで少しだけ警戒を解きかけた。

 完全なダメ男なら、もっと断りやすいのにと思った。

 

「事情って何?」

 

 亮が聞くと、和也は少し困った顔をした。

 

「前の仕事の時に、ちょっとだけ金融の整理がうまくいってなくて」

 

 その言い方が嫌だった。

 

 金融の整理。

 

 借金とか延滞とかを、そうやって薄く言い換える人間は信用しづらい。

 

「でも今は働いてますし」

 

「家賃も払えます」

 

「そこは本当に迷惑かけません」

 

 迷惑をかけません、という言葉を使う人間ほど、後で迷惑の総量が大きいことがある。

 

 亮は水だけ飲んだ。

 美咲は横で黙っている。

 

 こういう時の美咲はずるい。

 

 自分からは押さない。

 男に喋らせて、自分は困っている妹の顔だけする。

 

「保証人って、どこまで責任あるか分かってる?」

 

 亮が聞くと、和也はすぐうなずいた。

 

「分かってます」

 

 そのうなずきも早かった。

 たぶん、何回か同じ話をしてきたのだろうと思った。

 

「でも、絶対に迷惑かけないんで」

 

 絶対。

 その単語で、亮は少しだけ笑いそうになった。

 

 絶対に迷惑をかけない人間は、最初から他人に保証人を頼まない。

 それなのに、その場では言わなかった。

 言えば、美咲が泣きそうな顔になる気がしたからだ。

 

 結局、亮はその日は保留にした。

 

 持ち帰ると言った。

 

 でも帰り道の時点で、もう断り切れない感じが少しあった。

 妹は駅まで一緒に歩いてきた。

 

「ほんとに今回だけだから」

 その言葉に、亮は返事をしなかった。


 今回だけ。

 その手の言葉が今回だけで終わったことなんて、今までほとんどなかったからだ。


 その夜、亮はネットで保証人の責任を調べた。


 家賃滞納。

 原状回復。

 夜逃げ。

 訴訟。


 ……読めば読むほど嫌になった。

 嫌になったのに、翌日、美咲から来たLINEは短かった。


『だめそう?』


 たったそれだけだった。

 その短さに、亮はまた弱かった。


 責めてもいない。

 泣いてもいない。

 ただ少し困ってる感じだけ置いてくる。

 それが一番断りにくい。


 書類を書いたのは、その3日後だった。


 不動産屋の小さな店舗。


 カウンターの向こうに若い女。

 奥に店長らしい男。

 和也は落ち着いていた。

 美咲も明るかった。


 まるで、少し面倒な手続きがあるだけの空気だった。


「こちら、保証人欄だけお願いします」


 仲介の女がそう言った時、亮は少しだけ手が止まった。


 ……保証人欄だけ。


 その言い方も、たしかにそうだった。

 でも、その欄が一番まずいのも本当だった。


 名前を書く。

 住所を書く。

 勤務先を書く。

 年収を書く。


 書きながら、亮は自分の生活を差し出している感じがした。

 妹のために、じゃない。


 知らない男の不安定な生活の下に、自分の生活を薄く敷いている感じだった。

 印鑑を押した瞬間に取り返しがつかなくなった気がした。

 

 でもその場では、誰もそんな顔をしない。

 

「ありがとうございます」

 

 仲介が笑う。

 美咲もほっとした顔をする。

 和也は深く頭を下げる。

 

「ほんと助かりました」

 

 その空気にいると、自分だけが大げさみたいだった。

 

 保証人くらいで。

 家族なんだから。

 困ってる時くらい。

 

 そういう空気が揃っている時、人はだいたい嫌な予感を「考えすぎ」にしてしまう。

 

 最初の2か月は何もなかった。

 

 何もないから、亮も少し安心しかけた。

 やっぱり大丈夫だったのかもしれないと。

 

 でも、平穏っていうのは、壊れる前ほど少し長めに続くことがある。

 3か月目の終わり、知らない番号から着信があった。

 

 昼休みだった。

 出ると、管理会社の男だった。

 

「村瀬様でしょうか」

 

 その丁寧さで、亮の背中が少し冷えた。

 

「はい」

 

「ご契約者様とご連絡が取れず」

 

 その一言で、全部が一気に現実になった。

 

 取れない。

 

 その言い方も嫌だった。

 逃げたかもしれないし、寝てるだけかもしれないし、払う気はあるけど無視しているだけかもしれない。

 でも、保証人へ電話が来た時点で、もうそのどれも大差がない。

 

「何かご存知でしょうか?」

 

 亮は何も知らなかった。

 本当に知らなかった。

 知らないのに、自分の名前だけはそこにある。

 

 それが保証人だった。

 

 美咲に電話する。

 出ない。

 

 和也にもかける。

 出ない。

 

 LINEも既読がつかない。

 

 それだけで、亮は少しだけ笑いそうになった。

 分かりやすすぎたからだ。

 

 こういう時だけ、全員がきれいに消える。

 夜、亮は会社帰りにその部屋へ行った。

 

 古いアパート。

 2階。

 電気はついていない。

 郵便受けには督促の紙が何枚か入っていた。

 

 隣の部屋の女が、ドアを細く開けてこっちを見ていた。

 その視線が、妙に嫌だった。

 

 何も知らない他人から見ると、自分もその部屋の関係者なのだと分かるからだ。

 

 亮はドアを叩いた。

 

 何度か。

 返事はなかった。

 耳を当てると、中はしんとしていた。

 生活がある静けさじゃない。

 抜けたあとの静けさだった。

 

 管理会社からは、その後も連絡が来た。

 

 滞納は2か月分。

 

 更新料も未払い。

 荷物も一部残置。

 契約者と連絡不能。

 保証人としてご相談したい。

 

 ……相談したい。

 

 それも嫌な言い方だった。

 実際には、払うか片づけるかの話なのに、相談と言う。

 

 少し柔らかくするだけで、断りにくくなるからだ。

 ようやく美咲とつながったのは、そのまた数日後だった。

 

 夜10時過ぎ。

 雑音がした。

 たぶん外だった。

 

「何?」

 

 その第一声で、亮は怒りが抜けた。

 悪びれている人間の声じゃなかったからだ。

 

「何じゃねえよ」

 

「管理会社から来てるんだけど」

 

 美咲は少し黙ってから言った

 。

「和也と今ちょっと揉めてて」

 

「揉めてるじゃ済まねえだろ」

 

「私だって困ってるよ」

 

 その返しが、昔から一番嫌いだった。

 自分が困っている時に、相手も困っている顔をして並んでくるやつだ。

 

 でも困らせた元が誰かは、曖昧なままにする。

 

「お前、今どこ」

 

「友達の家」

 

「和也は」

 

「知らない」

 

「知らないで済むと思ってんの」

 

 美咲はそこで少し苛立った声になった。

 

「じゃあどうすればいいの」

 

 その言い方で、亮はやっと分かった。

 

 この話はもう、責任の所在じゃない。

 

 誰が最後に拾うかの押しつけ合いだ。

 そして家族の中でそういう役をやるのは、昔から自分だった。

 

 管理会社との話し合いは、昼休みを潰して行った。

 滞納分。

 解約費。

 残置物処理。

 原状回復の一部。

 その場で全部ではない。

 

 でも、最低限の金額だけでも、亮の貯金には痛かった。

 

「保証人様のご負担になります」

 

 管理会社の男は申し訳なさそうな顔をした。

 でも、その申し訳なさは亮の口座残高までは減らさない。

 

 必要なのは金だけだ。

 

 感情はその横で丁寧に置かれるだけだった。

 

 部屋の残置物確認もした。

 服。

 空の収納ケース。

 コンビニ袋。

 男物のジャケット。

 安いドライヤー。

 炊飯器。

 

 何も特別なものはなかった。

 でも何も特別じゃない生活の残骸ほど、あとで気持ちが悪い。

 この程度の部屋のために、自分は名前を書いたのかと思うからだ。

 

 机の上に、亮が見覚えのない封筒があった。

 開けると、消費者金融の明細だった。

 

 名義は和也。

 額は思ったより大きかった。

 そこでようやく、亮は妙に納得した。

 

 審査が厳しかった理由も。

 急いでいた理由も。

 美咲があの日、やけに明るかった理由も。

 全部そこに繋がる。

 

 最初から分かっていたはずなのに、最終確認だけ後から届くのがこういう話だった。

 

 片づけを終えて部屋を出る時、管理会社の男が言った。

 

「お身内だと、断りづらいですよね」

 

 亮は何も言わなかった。

 それを他人に言われると、余計に惨めだった。

 

 断りづらい。

 

 たったそれだけの理由で、名前を書いて、金を払い、他人の逃げたあとの部屋まで片づける。

 保証人っていうのは、そういう情けない入口からでも、ちゃんと人の生活を持っていく。

 

 その夜、亮は実家へ電話した。

 母が出た。

 

 父はまだ帰っていないらしかった。

 

「何かあった?」

 

 母にそう聞かれて、亮はしばらく黙った。

 

 言えば、家族の話になる。

 言わなければ、自分1人の損で終わる。

 

 そのどちらも嫌だった。

 でも結局、亮は言った。

 

「美咲のことで」

 

 母はすぐには返事をしなかった。

 その沈黙で、たぶん全部は知らなくても、ろくな話じゃないことだけは伝わったのだろうと思った。

 

 亮はベランダへ出た。

 夜風が少しあった。

 煙草は吸わないのに、何か口に入れたかった。

 

 スマホには管理会社からの確認メールが残っている。

 銀行アプリを開けば、今月の残高が少し軽くなっている。

 

 全部、自分で印鑑を押した結果だった。

 

 誰かに脅されたわけじゃない。

 騙されたとまで言うには、最初から嫌な予感もあった。

 

 それでも書いた。

 だから一番腹が立つのは、和也でも、美咲でもなく、断れなかった自分なのかもしれなかった。

 でも家族っていうのは、そういう自分の弱いところまで込みで使ってくる。

 

 保証人は、名前を書く仕事じゃない。

 

 断れなかった自分の性格に、あとから値段がつく仕組みなんだと、亮はその夜ようやく分かった。

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