表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リセット  作者: ナオ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

41/45

41話 原状回復

 最初は、ただの清掃だと思っていた。

 

 汚れた部屋を片づける。

 

 ゴミを出す。

 床を拭く。

 消臭する。

 そういう仕事だと。

 

 もちろん、最初から普通のハウスクリーニングじゃないことは分かっていた。

 

 求人にも、特殊清掃、と書いてあった。

 でもその言葉は、思っていたよりずっと静かで、ずっと重かった。

 

 小川誠は34歳。

 

 前は引っ越し屋で働いていた。

 

 その前は倉庫。

 その前は解体。

 どれも長く続かなかったわけじゃない。

 

 ただ、辞めても次があった。

 身体を使う仕事は、そこが気楽だった。

 

 特殊清掃の会社に入ったのは、知り合いに誘われたからだった。

 

「人は選ぶけど、続くやつは続く」

 

 そう言われた。

 給料も少し良かった。

 夜勤もある。

 臭いもある。

 たまにきつい現場もある。

 

 でも、運ぶだけ、片づけるだけ、そう思えばいけると思った。

 

 最初の現場は風呂場だった。

 

 夏だった。

 管理会社の男が廊下でずっと口を押さえていた。

 先輩は無言で窓を開けて、薬剤を撒いて、手順を説明した。

 

「最初は顔じゃなく足元だけ見ろ」

 

 その言葉だけ妙によく覚えている。

 

 顔を見ると残る。

 足元だけ見て、作業だけをする。

 それがコツだと教えられた。

 誠は何とか続いた。

 吐いたこともある。

 飯が入らない日もあった。

 

 ……でも続いた。

 

 結局この仕事も、慣れるかどうかだった。

 慣れるといっても、平気になるわけじゃない。

 

 臭いが先か。

 部屋の空気が先か。

 腐敗の進み方はどのくらいか。

 そういうことが分かるようになるだけだ。

 この日も、朝から現場だった。

 

 板橋の古い団地。

 

 5階。

 エレベーターなし。

 依頼は管理会社経由。

 1人暮らしの男。

 発見は遅め。

 親族は遠方。

 

 その程度の情報だけ先に入っていた。

 

 団地の廊下は静かだった。

 洗濯物が干してある。

 ベビーカーが置いてある。

 

 ドアの向こうにテレビの音もする。

 そういう普通の生活の真ん中に、急に片づけるしかない死が混ざっている。

 

 誠はそれがまだ少し苦手だった。

 

 現場の前に立つたび、その部屋だけが別の世界じゃなく、普通の生活の続きにあると分かるからだ。

 

 管理会社の担当は若かった。

 30前くらい。

 スーツはちゃんとしているのに、目だけ疲れている。

 

「近隣から臭いで」

 

 それだけ言った。

 

 説明の省き方が、もう慣れている感じだった。

 

「親族は」

 

 誠が聞くと、男は手元の書類を見た。

 

「弟さんがいるらしいです」

 

「らしい」

 

「はい」

 

「来るんですか」

 

「夕方には」

 

 夕方には。

 それなら先に荒いところまで終わらせないといけない。

 

 親族が来た時、部屋がそのままだと余計に面倒になることがある。

 

 泣くとか、怒るとかじゃない。

 現実が急に遅れて届いて、誰も動けなくなるからだ。

 

 先輩が鍵を開けた。

 ドアが重かった。

 臭いはすぐ来た。

 

 何度経験しても、最初の一息はきつい。

 

 薬剤の匂いでは消えない、生き物が止まって時間だけが経った匂いだった。

 誠はマスクの位置を少し直して、中へ入った。

 

 ワンルーム。

 狭いキッチン。

 ベッド。

 ローテーブル。

 テレビ。

 コンビニの袋。

 郵便物。

 

 何も特別ではない部屋だった。

 

 だから余計に嫌だった。

 死ぬ直前まで、たぶん普通に生活していた感じが残っているからだ。

 

 床には雑誌が数冊。

 パソコンは古いノート。

 冷蔵庫の上に薬のシート。

 壁際に段ボール。

 

 先輩が淡々と言う。

 

「玄関側からいくぞ」

 

 誠はうなずいた。

 やることは決まっている。

 

 写真。

 仕分け。

 廃棄。

 拭き取り。

 消毒。

 染みた箇所の確認。

 

 マニュアルにすれば簡単だ。

 

 でも、現場は毎回少しずつ違う。

 この部屋は、死んだことそのものより、生活の薄さが残っていた。

 

 服は最低限。

 食器も少ない。

 調味料もほとんどない。

 段ボールには通販の履歴だけがたまっている。

 誰かと暮らしていた跡がない。

 誰かがたまに来ていた跡も薄い。

 

 こういう部屋は、片づけている途中で急に静かになる。

 

 音がないからだ。

 2時間くらい経った頃、先輩が小さく言った。

 

「机ん中よろしく」

 

 誠はローテーブルの引き出しを開けた。

 

 中には通帳。

 未開封の役所の封筒。

 保険証券。

 電気代の督促。

 メモ帳。

 

 そのくらいだった。

 メモ帳は開きかけで止まっていた。

 何気なく見ると、買うものが書いてあった。

 

 電池。

 醤油。

 ゴミ袋。

 

 そんなものだった。

 誠はそこで少しだけ手が止まった。

 

 遺書でもない。

 大事な言葉でもない。

 ただ、明日も生活が続くつもりの字だった。

 

 そういうものの方が、この仕事ではたまに刺さる。

 

 死ぬ人間は、最後に特別な言葉を残すとは限らない。

 

 むしろ、電池とか醤油とか、そういう続きの方が残っていることが多い。

 

「どうした」

 

 先輩が言う。

 

「いや」

 

 誠はメモ帳を封筒へ入れた。

 それで終わりにした。

 

 この仕事でいちいち立ち止まると、全部が残る。

 だから手を動かす。

 

 手を動かしている間だけは、自分も少し道具に近づけるからだ。

 

 昼を過ぎた頃、管理会社の若い男が戻ってきた。

 ペットボトルの水を持っている。

 

「これ、差し入れで」

 

 誠は礼だけ言った。

 男は部屋の入口から中を見て、すぐ目をそらした。

 

「こういうの、よくあるんですか」

 

 その質問はたまにされる。

 たぶん、聞いたところで意味はない。

 

 でも何か言葉を挟まないと、自分がここに立っていることまで現実になるからだろう。

 

「あるよ」

 

 先輩が答えた。

 

「普通に」

 

 普通に。

 その言い方に、男は少しだけ黙った。


 ……誠も黙った。

 

 実際、普通にあるのだ。

 

 老人だけじゃない。

 中年もいる。

 若いやつもいる。

 病気もある。

 事故もある。

 酒もある。

 自殺もある。

 

 でも、理由が何であれ、最後に残るのは部屋だ。

 

 片づける側は、そこだけを見る。

 

 夕方前、弟が来た。

 

 40前くらい。

 スーツ姿。

 顔は兄に少し似ていた。

 でも、似ているからどうなるわけでもない。

 

 男は部屋に入る前から謝っていた。

 

「すみません」

「ご迷惑を」

「すみません」

 

 誰に言っているのか分からない謝り方だった。

 

 管理会社か。

 近所か。

 兄か。

 自分か。

 

 ……たぶん全部。

 

 誠はその男に、見つかった貴重品と書類の入った箱を渡した。

 

「確認お願いします」

 

 男は手を震わせながら箱を開けた。

 

 通帳。

 財布。

 鍵。

 保険証。

 

 それを1つずつ見るたびに、表情が少しずつ遅れて崩れる。

 

 泣くわけではない。

 でも、兄の死ではなく、兄の生活そのものを渡されている顔だった。

 

「……全然、連絡取ってなくて」

 

 男がぽつりと言った。

 誠は何も返さなかった。

 こういう時、慰める言葉はだいたい薄い。

 男は続けた。

 

「仕事忙しいとか、向こうも1人が楽だろうとか、そういうのにしてて」

 

 そこで止まる。

 誠はまた何も言わなかった。

 この仕事をしていると、遺族はたまに勝手に話し始める。

 

 たぶん、片づける人間の前だと話しやすいのだ。

 こちらが故人の人生に直接は関わっていないから。

 

 でも、最後の部屋だけは見ているから。

 

「冷蔵庫、見てもらえますか」

 

 弟が小さく言った。

 

「兄、ちゃんと食べてましたかね」

 

 その質問が一番きつかった。

 誠は少しだけ間を置いてから言った。

 

「……中、あまり入ってなかったです」

 

 嘘はつかなかった。

 でも全部も言わなかった。

 冷蔵庫には、賞味期限の切れた豆腐と、缶チューハイと、水だけだった。

 

 その情報全部を、そのまま返す必要もないと思ったからだ。

 

 弟はうなずいた。

 うなずいたあとで、少しだけ笑った。

 

「昔から、ちゃんとしてるようで雑なんですよ」

 

 その笑いがひどく弱くて、誠は目をそらした。

 そういうのは、もう兄に届かない。

 でも、遅すぎた会話ほど、死んだあとの部屋にだけ残る。

 

 夕方、あらかた作業は終わった。

 

 臭いはまだ少しある。

 床材も一部は剥がさないといけない。

 でも、部屋としてはもうだいぶ静かになっていた。

 

 最初に開けた時より、ずっと何もない部屋に見える。

 

 それがこの仕事のいちばん変なところだった。

 片づけるほど、人がいた証拠が減っていく。

 痕跡を消すのが仕事だから当たり前なのに、その当たり前がたまに嫌になる。

 

 帰り際、弟がまた頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

 誠は軽く会釈しただけだった。

 管理会社の男も、ほっとした顔で名刺をしまっている。

 

 現場が終わると、みんな少しだけ安心する。

 

 死んだことが片づいた気になるからだ。

 でも、片づくのは部屋だけだと、誠は思う。

 夜、会社へ戻る車の中で、先輩がコンビニの唐揚げを食っていた。

 

「今日、早かったな」

 

「そうすね」

 

「このあともう1件あるってよ」

 

 誠は窓の外を見た。

 

 夕方の道路。

 ファミリーカー。

 スーパーの袋を下げた女。

 自転車の高校生。

 

 そういう普通の流れの中に、また次の部屋がある。

 

 誰かが1人で止まって、発見が遅れて、残されたものだけが次に回る。

 

「慣れた?」

 

 先輩がふいに聞いた。

 誠は少し考えた。

 

「どうすかね」

 

 先輩は笑った。

 

「慣れたと思ったら終わりだよ」

 

 その言い方が冗談みたいで、少し嫌だった。

 でも少しだけ本当でもあるのだと思った。

 

 完全に慣れたら、多分この仕事は続けやすい。

 でも、人としては何かが減る。

 

 減るのに、減った自分の方が生きやすい場面もある。

 

 それが厄介だった。

 会社に戻る前、誠はコンビニで電池を買った。

 部屋のリモコンが切れていたのを思い出したからだ。

 

 レジへ並んでから、昼に見たメモ帳を思い出した。

 

 電池。

 醤油。

 ゴミ袋。

 たったそれだけだった。

 

 それなのに、今日一日で一番残っているのが、その文字だ。

 

 死は派手じゃない。

 片づける側から見ると、たいていは途中で止まった生活の方が先に見える。

 

 誠は電池の入った小さな袋を持ったまま、少しだけ立ち止まった。

 

 原状回復という言葉は、よくできていると思う。

 元の状態に戻す。

 

 でも本当は、戻る元なんてもうどこにもない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ