40話 保育
最初は、4月までの話だと思っていた。
保育園が決まるまで。
認可外の空きが出るまで。
職場に少しだけ待ってもらう間だけ。
そのつなぎで何とかすればいいだけだと、真帆はずっと自分に言っていた。
大げさに考えると動けなくなるからだ。
でも、大げさに考えなくても、生活はちゃんと首を絞めてきた。
長谷川真帆は31歳。
練馬の外れにある古いアパートで2歳の娘を寝かしつけたあと、スマホの保育園申込結果の画面を何度も見返していた。
時刻は23時14分。
画面には短く、保留とだけ出ている。
不承諾でもなく、落選でもなく、保留。
いちばん嫌な言い方だと思った。
まだ決まっていない顔をして、実際には何も進んでいないからだ。
真帆はシングルマザーだった。
娘の咲良は2歳になったばかり。
父親はもういない。
正確には、いるにはいるが、生活にはいない。
養育費は最初の3か月だけだった。
それ以降は連絡も薄くなり、今では真帆の方からもう連絡していない。
怒る元気もなくなったからだ。
昼はコールセンターの契約社員。
時給は悪くない。
でも、休めばそのまま減る。
娘が熱を出せば休む。
保育園の面談で抜ければ減る。
延長保育に間に合わなければ頭を下げる。
それでも生活は回っていた。
……ギリギリで。
今までは。
今年に入って、職場から言われた。
「4月以降、シフト少し増やせますか」
増やせればありがたい。
でも預け先が決まらないと無理だった。
無理だと答えた時の上司の顔が、妙にきれいに困っていて嫌だった。
怒っているわけじゃない。
責めているわけでもない。
でも、困るのはこっちだけじゃないですよね、という顔だった。
その顔を見ると、真帆は自分が社会の側に少しずつ押し出されている感じがした。
実家は埼玉だった。
母はまだ働いている。
父はいるが、子どもの面倒を見るような人ではない。
兄とは何年も連絡していない。
頼れる相手はいないわけではない。
でも、頼ったら最後、生活の全部を説明しないといけない相手ばかりだった。
だから頼らなかった。
頼らないで、何とかしようとしてきた。
それがだめだったのかもしれない。
区役所にも行った。
認可外も見た。
一時保育も電話した。
病児保育も調べた。
ファミサポも登録した。
でも、どれも少しずつ足りなかった。
時間が合わない。
距離が遠い。
料金が高い。
空きがない。
そういう「少しずつ無理」が、全部きれいに生活へ乗ってくる。
3月の半ば、真帆は職場の休憩室で先輩の女に言われた。
「うちの近所に、子ども預かってくれるおばさんいるよ」
唐突だった。
コンビニのパスタを食べながら、雑談みたいな顔で言われた。
「保育士とかじゃないんだけど、昔から近所の子たまに見てて」
真帆は最初、聞き流しかけた。
でも先輩は続けた。
「ちゃんと保育園決まるまでの間だけでも、使えるかもよ」
その言い方がちょうどよかった。
違法でもない顔。
グレーでもない顔。
ただ、近所の親切なおばさんみたいな顔。
だから真帆は食いついた。
「どんな人ですか」
「50代くらいかな」
「料金は?」
「そこまで高くなかったと思う」
高くなかったと思う。
その曖昧さに、本当なら警戒するべきだったのかもしれない。
でもその時の真帆には、警戒より先に「助かるかも」の方が大きかった。
会ったのは、その週末だった。
西武線の駅から少し歩いた住宅街。
古い一軒家。
門扉の横に小さな鉢植えが並んでいる。
家の中は普通だった。
少し生活感が濃いだけで、汚くもない。
出てきた女は西村和子と名乗った。
56歳。
エプロンをしていて、話し方はやわらかい。
「大変だったでしょう」
その最初の一言で、真帆は少し泣きそうになった。
大変でしょう、じゃない。
大変だったでしょう、だった。
もう大変だったことにしてくれる言い方だった。
和子はお茶を出して、咲良にもジュースを出した。
子どもの扱いも慣れていた。
抱き方。
目線。
声。
それ全部が自然だった。
「保育園、なかなか入れないのよね」
和子は首を振った。
「今のお母さんたち、本当に大変」
真帆はそのたびに安心した。
分かってもらえる感じがしたからだ。
値段も、想像より少し安かった。
安い、と思ってしまった。
そこが一番まずかったのだと思う。
安い時、人は中身を細かく見なくなる。
このくらいなら助かる。
このくらいで回るなら。
そうやって、最初の不安をなかったことにしやすいからだ。
和子の家に咲良を初めて預けた日は、何も起きなかった。
仕事はちゃんと終わった。
迎えに行くと、咲良はお絵描きをしていた。
和子は笑って言った。
「全然手のかからない子ね」
その一言に、真帆は少し救われた。
自分の子どもが誰かに受け入れられる感じがしたからだ。
親になると、そういうことで変に泣きそうになる日がある。
2回目も平気だった。
3回目も。
だから真帆は、少しずつ和子の家へ預ける回数を増やした。
平日。
土曜。
残業の日。
どうしても外せない研修の日。
そのうち、和子は言うようになった。
「遅くなる時は早めに連絡してね」
「お弁当持たせなくても、こっちで出せるわよ」
「大変なら土曜も見られるし」
その言葉に、真帆は何度も助けられた。
助けられたと思った。
でも、その頃から、少しずつ違和感もあった。
迎えに行った時、咲良がたまに妙に静かな日がある。
帰り道で眠そうすぎる日がある。
お菓子をたくさん食べた匂いがする日がある。
最初は、疲れただけかと思った。
でもある日、咲良がぽつりと言った。
「きょう、ずっとねてた」
真帆は笑って聞いた。
「お昼寝したの」
「うん」
「いっぱいしたの?」
「いっぱい」
その時は、それだけだった。
でも夜、和子から来たメッセージには「今日は元気いっぱいでした」と書いてあった。
そこで少しだけ引っかかった。
でも、その少しだけを、真帆は深く追わなかった。
追ってしまうと、また預け先がなくなるからだ。
4月の初め、職場からシフトを増やしてほしいとまた言われた。
断れなかった。
断れば更新が危うい空気があったからだ。
真帆は和子に頼んだ。
「来週、少し遅い日が増えるかもしれなくて」
和子は笑った。
「大丈夫よ」
その笑顔に、真帆はほっとした。
ほっとした自分に、少しだけ罪悪感もあった。
母親なのに。
他人にそこまで頼っていいのか。
でも、その罪悪感すら、生活の前では小さかった。
回る方を選ぶしかなかった。
遅番が始まってから、和子は少しずつ変わった。
いや、変わったというより、最初からあった部分が見えやすくなったのかもしれない。
「今月、少しきついのよね」
ある日、迎えに行った真帆へぽつりと言った。
キッチンで食器を洗いながら、独り言みたいに。
真帆は財布を開きかけて、やめた。
「料金は払ってますよね」
そう言うと、和子はすぐ笑った。
「そういう意味じゃないのよ」
でも、その笑い方が少しだけ固かった。
それ以降、似たようなことが何度かあった。
「おやつ代もかかるし」
「最近、光熱費も高いのよね」
「小さい子って目が離せないから」
請求ではない。
でも、言われるたびに真帆の中へ少しずつ刺さる。
言われた方が、先に気まずくなる言い方だった。
だから真帆は、封筒に少しだけ多めに入れるようになった。
5000円。
1万円。
その程度。
その程度なのに、払うたびに生活はちゃんと苦しくなった。
でも、払わないと預けにくくなる気がした。
その「預けにくくなる」が、何より怖かった。
5月の連休明け、咲良の腕に小さな痣があった。
服を着替えさせる時に見つけた。
強く掴んだみたいな色だった。
真帆はしばらくそれを見ていた。
見てから、すぐに和子へ連絡しなかった。
そこがもうだめだったのかもしれない。
聞けば何か答えが返る。
でも、その答えがもし嫌なものだったら、次から預けられなくなる。
だから先に、自分の中で別の理由を探した。
自分でぶつけたのかもしれない。
公園かもしれない。
椅子かもしれない。
そうやって、母親のくせに、自分から見ないふりを作りにいった。
次に和子の家へ迎えに行った時、咲良は昼寝用の布団でぼんやりしていた。
夕方6時過ぎなのに、まだ眠そうだった。
「今日もたくさん寝ちゃって」
和子は笑った。
「いい子だったわよ」
真帆はその顔を見ながら、ようやく少しだけ寒くなった。
この人は本当に子どもに慣れている。
慣れているから、雑に扱っても顔に出にくいのかもしれない。
でもその考えを、真帆はその場で口にできなかった。
代わりに言ったのは、
「最近、ちょっと眠そうな日が多くて」
それだけだった。
和子は少しだけ眉を下げて言った。
「お母さんも忙しいから、疲れてるのかもね」
その返しが妙に自然で、真帆は逆に何も言えなくなった。
忙しいのは事実だった。
疲れさせているのも、自分なのかもしれない。
そう思わせるのがうまい人間はいる。
悪意があるのかどうかも曖昧なまま、人を黙らせる。
6月に入る頃には、和子はさらに平気な顔で言うようになった。
「来月から、少しだけ金額見直してもいい?」
「時間も長いし」
「こっちも責任あるから」
責任。
その言葉に、真帆は少し笑いそうになった。
責任を持っている人間が、子どもの腕にあんな痣を作るだろうかと思ったからだ。
でも笑えない。
笑ったら終わる。
終わったら、また預け先がなくなる。
真帆はその夜、咲良が寝たあとで、1人で泣いた。
和子が怖いのか。
和子がいなくなるのが怖いのか。
自分でも分からなかった。
たぶん両方だった。
母親失格だと思った。
でも、そう思いながら翌朝も仕事へ行った。
出勤しないと家賃が払えない。
その現実は、失格かどうかより先に来る。
7月、職場で真帆は初めて倒れた。
休憩室で立ち上がった時に視界が狭くなっただけだった。
大きなことではない。
でも同僚に「大丈夫?」と聞かれて、真帆は少しだけ壊れそうになった。
大丈夫じゃないです、と言えたらどれだけ楽だろうと思った。
でも言わなかった。
その代わり、スマホを開いて、和子に送った。
『今日、延長お願いできますか』
その時点で、もう答えは決まっていたのだと思う。
嫌でも、怖くても、違和感があっても、真帆はまだ和子に頼むしかなかった。
返事はすぐ来た。
『大丈夫よ』
その3文字で、真帆は少しだけ安心してしまった。
そこがいちばん苦しかった。
本当はもう、安心していい相手じゃないかもしれないのに。
夜、迎えに行くと咲良はソファで眠っていた。
口の端に、お菓子のかすみたいなものがついていた。
和子はエプロンのまま言った。
「本当に大変ね、お母さん」
真帆はその言葉を聞いて、なぜかひどく腹が立った。
大変にしているのは、誰だろうと思ったからだ。
保育園に落ちたことか。
金がないことか。
職場か。
男が逃げたことか。
それとも、自分みたいな母親か。
でも、その怒りを口にしたら、今夜から咲良を連れて帰るしかなくなる。
そして明日、仕事を休むしかなくなる。
それができるほど、真帆の生活には余裕がなかった。
だから真帆は、財布から封筒を出した。
少し多めに入れたやつだった。
和子は受け取って、当たり前みたいにうなずいた。
礼も言わなかった。
それでようやく、真帆ははっきり分かった。
もうこれは助け合いじゃない。
預け先でもない。
首をかけて、子どもを人質みたいに差し出しているだけだと。
分かったのに、その夜も真帆は咲良の寝顔を見ながら、次に誰へ電話すればいいか分からなかった。
保育園はまだ決まらない。
職場は待ってくれない。
実家には帰りたくない。
和子の家も、もう怖い。
それでも朝は来る。
それが一番残酷だった。
預け先っていうのは、子どもを置く場所のことじゃない。
大人の方が、自分の罪悪感を一時的に置いて仕事へ行くための場所なのかもしれないと、真帆はその夜、思ってしまった。




