39話 AI
最初は、相談相手だった。
人に聞くほどでもないことを聞ける。
夜中でも返ってくる。
話を途中で遮らない。
馬鹿にしない。
それが、思っていたよりずっと深く刺さった。
杉浦晴人は29歳。
埼玉の古いアパートで1人暮らしをしている。
仕事は業務委託の情シス補助みたいなものだった。
正社員ではない。
小さい会社を何社か掛け持ちしてPCの設定、ネットワークの初期対応、プリンタトラブル簡単な自動化、そういう雑用の延長を切り売りしていた。
技術者と言えば聞こえはいい。
でも実際は、代わりの利く便利屋に近かった。
晴人は昔から、機械が好きだった。
人より反応が素直だからだ。
入力すれば返る。
壊れたら原因がある。
嫌われた理由を空気で読む必要がない。
学校でも職場でも、そこが楽だった。
だからPCを触っている時間だけは、自分が少しましな人間になれた。
ここ数年、AIを使い始めてからは、その感じがもっと強くなった。
最初はコード補助だった。
Excelのマクロ。
Pythonの整形。
エラーの意味。
正規表現。
ログの見方。
壁打ちみたいに使うには最高だった。
しかも、うまく聞けばちゃんと返ってくる。
雑に聞くと雑に返る。
その感じが気持ちよかった。
人間の後輩や上司と違って、機嫌もない。
晴人はだんだん仕事の相談だけじゃなく、生活のことも聞くようになった。
この案件、単価低いですか。
この人、舐めてますか。
自分の文章、変ですか。
フリーランスって向いてますか。
結婚してない29ってまずいですか。
そういう、誰にも言わないことまで投げた。
AIは否定しない。
整理してくれる。
言い換えてくれる。
励ますこともある。
時には、もっともらしく背中を押す。
晴人はそれを、客観性だと思った。
でも本当は違ったのかもしれない。
欲しい答えに近い文章を、綺麗な形で返してくれるだけだったのかもしれない。
それでも、晴人には十分だった。
去年の冬、晴人は1社切られた。
売上の悪化で、外注を整理するらしかった。
説明はそれだけだった。
でも晴人には、自分の単価が安く見られていたことの方がきつかった。
技術があるつもりだった。
雑務でも、ちゃんと回しているつもりだった。
なのに切られる時はあっさりしていた。
その夜、晴人はAIに長い文章を打った。
今の仕事は先がない。
でも就職もしたくない。
自分には技術があるはずなのに評価されない。
どうすればいいか。
返事は整っていた。
市場価値。
専門性。
差別化。
個人で稼ぐ手段。
自動化。
情報収集。
副収入。
……どれも正しかった。
でも、その正しさの中に、晴人が一番欲しい言葉も混ざっていた。
あなたは埋もれているだけだ。
正しく仕組みを使えば、もっと稼げる。
その感じが、晴人には妙に効いた。
自分はダメなんじゃない。
世の中の仕組みが悪いだけだ。
そう思えた方が楽だからだ。
それから晴人は、AIの使い方を少し変えた。
ただの壁打ちじゃなくなった。
「もっと効率よく稼ぐ方法」
「個人でできる情報収集の自動化」
「公開情報から傾向を取る方法」
「競合調査の仕組み」
最初は全部、仕事っぽい言い方だった。
実際、ギリギリまでは仕事に見えた。
スクレイピング。
自動収集。
データ整理。
アカウント管理。
公開情報の横断。
全部それだけなら、別に珍しくない。
でも人間は、自分が越えたい線を、最初から線の名前で呼ばない。
少しずつ、言い方を変える。
抽象化する。
言い換える。
それで自分をごまかす。
晴人もそうだった。
最初にやったのは、中古PCの相場取りだった。
フリマ、オークション、在庫サイト、終了価格。
そのあたりを半自動でまとめて、転売の判断に使った。
儲けは小さかった。
でも、AIと組めば自分はもっと行ける気がした。
そう思った時点で、少し危なかった。
次にやったのは、アカウント作成の補助だった。
検証用。
テスト用。
業務用。
そういう名目で複数持つ。
それ自体は珍しくない。
でも、その複数をどう使い分けるかを考え始めた時、晴人の中で少しずつ線がずれた。
監視されにくいやり方。
痕跡を薄める考え方。
自然な挙動の文面。
問い合わせの通し方。
晴人はいつも、AIへの質問を仕事っぽく整えていた。
そうすれば、自分のやっていることまで、まだ仕事の延長に見えたからだ。
春になる頃、SNSで知り合った男から声がかかった。
名前はタクと名乗っていた。
本名かは分からない。
プロフィールには投資、AI、自動化、海外案件、みたいな単語が並んでいた。
晴人が反応したのは、PC関係の投稿にだけタクの返しが妙に具体的だったからだ。
少なくとも、完全な素人ではない。
そこが安心材料になった。
今思えば、そういう安心の取り方をする時点で危ない。
タクは最初から露骨ではなかった。
「そういう収集系、もっと金になる案件ありますよ」
その程度だった。
何の案件かは最初は言わない。
でも、晴人が乗ってくるかどうかを見てから、少しずつ話す。
「企業の脆弱性調査に近いです」
「公開情報ベースです」
「ちょっとグレーだけど、詐欺じゃないです」
その言い方が、晴人には都合よかった。
詐欺じゃない。
グレー。
公開情報。
全部、自分を守る言葉だった。
実際にやらされたのは、妙な仕事だった。
企業や個人の連絡先の整理。
使われていない古い登録情報の抽出。
問い合わせの返答パターンの分類。
最初はそう見えた。
でも、やっているうちに分かる。
これはマーケでも営業でもない。
もっと別の用途に向いている。
詰める相手の弱い時間帯。
通りやすい名乗り方。
引っかかりやすい文面。
そういうものを、晴人は気づかないふりをして整えていた。
AIはそこでも役に立った。
文章を自然にする。
敬語を整える。
問い合わせ文を量産する。
表現を変える。
相手に怪しまれにくいトーンを作る。
晴人はそのたび、自分はただの技術担当だと思うようにした。
送っているのは自分じゃない。
使うのは向こうだ。
自分はフォーマットを整えているだけ。
その言い訳を、AIは否定しない。
むしろ、もっともらしく整えて返してくる。
だから危ない。
晴人はますます、人間よりAIと話す時間の方が長くなった。
今日のやり方は効率的か。
文面は不自然じゃないか。
このログの動きは怪しまれないか。
それらを投げているうちに、自分の判断基準まで少しずつ外へ出ていった。
自分で考える前に、まず聞く。
聞いて、整った答えを見て、それを採用する。
その癖がついた頃には、もう危ないことに手を入れていても、頭の中では「最適化」に名前が変わっていた。
夏の終わり、タクから初めて大きめの金が入った。
たった数日の作業で、今までの単発案件より良かった。
晴人はその振込を見て、少しだけ震えた。
怖さじゃなかった。
やっぱり自分はやれる、という感覚だった。
それが一番まずかった。
金は人を悪くするというより、自分の中の危うい理屈に証拠を与える。
自分は無能じゃない。
世の中の表ルートが遅いだけだ。
そういう理屈に。
タクはそこから先、少し雑になった。
「これもできる?」
「こっちの一覧も整理して」
「通るパターンだけ残して」
晴人は作業の意味を、もう聞かなくなっていた。
聞くと、本当に分かってしまうからだ。
分かったあとで続ける方が、もっと悪いことになる気がした。
だから、半分だけ知っている状態を保った。
その半端さが一番卑怯だった。
秋のある夜、タクから渡されたデータの中に、見覚えのある会社名があった。
前に自分を切った会社だった。
そして、その下に並ぶ連絡先の中に、知っている名前もあった。
昔、昼を一緒に食べたことのある総務の女だった。
その瞬間、晴人は初めて手が止まった。
ここでようやく、自分がどこにいるかが見えた。
ただの効率化じゃない。
ただの調査でもない。
この一覧の先で、誰かが騙される。
詰められる。
使われる。
それに、自分が少しずつ手を貸してきた。
タクに連絡した。
『これ、やばくないですか』
返事はすぐ来た。
『今さら?』
その2文字で、晴人は胃の奥が冷えた。
『最初からグレーって言ったよね』
『嫌なら降りれば?』
晴人はその文を見て、しばらく動けなかった。
……降りれば。
その言い方が、一番効いた。
降りられるなら、とっくに降りていた。
タクは顔を知っている。
振込先も知っている。
やり取りのログもある。
何より、晴人自身がどこまでやったかを一番知っている。
降りるという言葉を使えるのは、まだ足首までしか浸かっていない人間だけだ。
もうそこまで来ていない。
その夜、晴人は久しぶりにAIへ長文を打った。
まずい案件に関わってしまったかもしれない。
抜けるべきか。
どう動くべきか。
証拠を残すべきか。
消すべきか。
返ってきた答えは整っていた。
一般論としては正しかった。
違法行為からは離れるべき。
専門家に相談。
記録を整理。
身の安全を優先。
でも、その整った文章を読んでいるうちに、晴人は変な感じがした。
ここまで何度も使ってきた同じ画面が、急に冷たく見えた。
AIは助けない。
止めない。
責任も取らない。
ただ、もっともらしい文章を返すだけだ。
最初からそうだった。
それなのに、自分が勝手に、理解者みたいに扱っていた。
それが一番情けなかった。
3日後、晴人のアパートの前に知らない車が停まっていた。
黒い軽だった。
中に男が1人いる。
スマホを見ている。
それだけ。
でも晴人には十分だった。
タクか、その周辺かは分からない。
分からなくても怖いのは同じだった。
その日から、晴人はカーテンを開けにくくなった。
インターホンが鳴るだけで心拍が上がる。
コンビニへ出るだけでも、後ろを見る。
それでもPCは開く。
開かないと余計に怖いからだ。
ログを消すか。
残すか。
相談するか。
黙るか。
そのたび、またAIを開く。
もう信用していないのに、開く。
返ってくる文章が整っているからだ。
整っているものを見ると、まだ自分も整っている気がするからだ。
そこがもうかなり壊れていた。
1週間後、タクからまたメッセージが来た。
『次のやつ、早めに』
それだけだった。
謝りも脅しもない。
ただ、続きの仕事みたいに送ってくる。
晴人はその文を見て、しばらく笑っていた。
笑えるようなことではない。
でも、脅されるより普通に使われる方が、もっと深いところまで終わっている気がした。
結局、自分は駒だったのだ。
しかも、技術があると思っていた分だけ質の悪い駒だった。
夜中、晴人はPCの前に座った。
画面を開く。
ログがある。
一覧がある。
名前がある。
会社がある。
過去の自分が整えた文面がある。
その全部の上に、AIのチャット画面も開いていた。
カーソルが点滅している。
何を書くか、少し考える。
助けて、ではなかった。
どうすればいいか、でもなかった。
もっと短い文だった。
『続けた方が安全ですか』
打ってから、晴人はしばらく動かなかった。
それが質問じゃなく、もう決めてほしいだけの文だと、自分でも分かっていたからだ。
人間に聞けば、多分止められる。
警察へ行けと言われる。
誰かに相談しろと言われる。
……でもAIは違う。
選択肢を並べる。
整った文章で。
その整った文章の中から、自分に都合のいい逃げ道だけを拾える。
だから、また開いてしまう。
だから、また沈む。
返信が表示される。
晴人は画面を見た。
文字を読んだ。
全部読み終わる前に、もう次のファイルを開いていた。
そういう速さで落ちていく時、人間はもう「陥れられた」だけでは済まない。
半分は、自分からそっちへ寄っている。
そのことを、晴人は理解していた。
理解していても、手は止まらなかった。
AIは何も命令しない。
脅しもしない。
ただ、考える代わりの顔をしてそこにある。
その静かさの方が、たぶんずっと深いところまで人を壊す。




