38話 起こす
最初は、眠るためだった。
眠れなかったからだ。
仕事のあと身体は疲れているのに、頭だけがずっと起きていた。
部屋へ帰っても、シャワーを浴びても電気を消しても昼間の会話と男の手と店の予約画面だけが頭の中で点いたままだった。
だから飲んだ。
最初は1錠だった。
友達にもらったやつだった。
「これ、寝れるよ」
軽い感じで渡された。
軽い感じで受け取った。
その時の紗和には、それが何の入口か分からなかった。
でも、眠れるなら何でもよかった。
ちゃんと眠れた。
驚くくらい、すぐ落ちた。
それがまずかった。
相沢紗和は26歳。
昼は何もしていない。
前は雑貨屋で働いていた。
その前はコールセンター。
その前は飲食。
……どれも長くは続かなかった。
長く続けられないのは、自分に根気がないからだと思っていた。
でも本当は、長く続けられるだけの元気が、最初から少なかったのかもしれない。
夜の店へ入ったのは、金のためだった。
それ以上でも以下でもない。
家賃。
カード。
スマホ代。
病院代。
奨学金。
全部がひとつずつ重なって、昼だけではどうにもならなくなった。
メンエスならまだまし。
裏オプはやらない。
店外もしない。
そう決めて入った店だった。
最初はそれで回った。
でも回る、というのは壊れていないこととは違う。
出勤する。
笑う。
帰る。
眠れない。
朝になる。
少しだけ寝る。
また出る。
その繰り返しの中で、身体の方が先におかしくなった。
眠るための1錠は、1週間で足りなくなった。
次は2錠。
それで眠れる日と眠れない日ができた。
眠れない日は焦る。
明日の予約がある。
客が2本、3本、入っている。
寝なければ顔が死ぬ。
顔が死ねば本指が切れる。
切れれば金が消える。
その順番で、不安はいつも大きくなった。
不安が大きい日に限って、薬は効きにくい気がした。
だから量が増える。
増えた量に慣れる。
慣れたら、今度は起きられなくなる。
そこで初めて、薬は寝るためだけのものじゃなくなった。
起きるためのものが要るようになった。
最初はカフェインの錠剤だった。
次はエナドリ。
次は客がくれたゼリーみたいなやつ。
次は、店の女が待機場で小さな袋を見せた。
「これ、変に眠い日に使うと楽だよ」
透明の袋だった。
中身は白かった。
名前は言わなかった。
紗和も聞かなかった。
聞いた瞬間に、ただの何かじゃ済まなくなる気がしたからだ。
聞かなければ、まだ引き返せる気がした。
その考え方が、もうだいぶ遅いのに、その時はまだ自分はちゃんと分かってやってるつもりだった。
店の女たちは、みんな何かしら飲んでいた。
胃薬。
頭痛薬。
眠るための薬。
咳止め。
酒。
カフェイン。
それに、口に出さない方のやつ。
全部が卓の下と、ポーチの中と、ロッカーの奥にあった。
誰も詳しく聞かない。
誰も名前をちゃんと言わない。
でも、どれが市販で、どれが病院で、どれがもっとまずい方かくらいは、みんな薄く分かっている。
だから紗和は、自分だけがおかしいわけじゃないと思いやすかった。
みんなやってる。
みんなちょっとずつ無理してる。
自分だけじゃない。
その「自分だけじゃない」が、こういう時はいちばん危ない。
出勤前の顔つきで、同じ店の子が何を入れてるか分かる日もあった。
やたら明るい日。
目が開きすぎてる日。
逆に落ち着きすぎてる日。
声だけが先に出る日。
顎の動きだけ変に早い日。
何もしてない顔で、水だけを何回も飲む日。
そういう日でも、誰もあまり聞かない。
聞いたところで、出勤は変わらないからだ。
店も止めない。
止めるとシフトが死ぬ。
予約がずれる。
客が切れる。
口コミも落ちる。
だから、本人が「大丈夫です」と言えば回す。
その大丈夫が、もう大丈夫じゃない声でも。
紗和はある時から、薬を入れた時の自分の方が普通だと思い始めた。
それがいちばん深いところだった。
素の自分は重い。
だるい。
眠い。
不安。
すぐ泣きそうになる。
でも入れたあとの自分は違う。
声が出る。
客の話をちゃんと聞ける。
笑える。
距離も詰められる。
少しだけ、まだ若い頃の自分に近い感じがする。
……だから使う。
楽しいからじゃない。
普通になりたいから使う。
それが一番、戻りにくい。
送迎の圭介は何も言わない男だった。
でも、何も見ていないわけじゃないのは分かっていた。
「今日は、目、開いてるね」
ある日それだけ言われて、紗和は少しだけ笑った。
「元気なんで」
「そう」
それで終わった。
止めない。
でも気づいている。
その距離の取り方が、逆に店っぽかった。
内勤の新田もたぶん知っていた。
内勤の顔で、出勤表だけを見ているふりをして、誰がどのくらい危ないかはちゃんと分かっている。
「今日いける?」
そう聞いてくる時の「いける?」は、体調確認じゃない。
売上確認だ。
行けると言えば回す。
無理だと言えば、少し嫌な顔をする。
だから紗和はいつも言った。
「いけます」
その言葉を、何回言ったか分からない。
本当は、いけるかどうかなんて、自分でももうよく分からなくなっていた。
ある夜、1本目の客の途中で、急に自分の声が遠くなった。
目の前に男がいる。
喋っている。
笑っている。
でも全部が少し遅れて聞こえる。
自分の手だけが自分のものじゃないみたいに、少しずつ動く。
客が言った。
「大丈夫?」
その一言で、紗和は逆に笑いそうになった。
大丈夫なわけがない。
でも大丈夫じゃないと言ったら、その場で全部が終わる。
「大丈夫です」
……また言った。
その時の自分の声が、誰より嘘っぽかった。
1本目を終えてトイレへ駆け込んだ時、鏡の中の顔は思ったより普通だった。
そこも嫌だった。
もっと見るからに壊れていたら、誰かが止めてくれる気がするのに。
普通の顔のまま落ちていくと、みんな「まだいける」で済ませる。
2本目の前、新田が言った。
「顔色悪い?」
「そうですか」
「ファンデのせいかな」
そう言って終わった。
終わるのだ。
それくらいの違和感は、夜の店では何でもないことになる。
紗和はロッカーを開けた。
ポーチの中に小袋がある。
シートに入った錠剤がある。
コンビニで買ったエナドリもある。
どれをどの順番で入れれば、あと2本いけるかだけを考える。
何を体に入れているかより、何時まで持つかの方が先に来る。
そこまで来ると、薬は快楽じゃない。
勤務シフトの一部だ。
紗和は小袋の中身を舌の上に落として、水で流した。
少し苦い。
でももう、その苦さに嫌な感じはあまりなかった。
数分後、心拍だけが少し上がる。
手先が軽い。
視界が明るい。
さっきまでの沈みが少しだけ剥がれる。
よし、と紗和は思った。
この「よし」が本当にまずい。
使ってよかったと身体が覚えるからだ。
2本目は回った。
3本目も一応は回った。
客は何も気づかなかった。
少なくとも気づかないふりをした。
客もその方が楽だからだ。
目の前の女が壊れているかもしれないなんて、考えたくない。
自分が金を払っている時間だけ、ちゃんとしていればいい。
その雑な自己保身は、店の男たちとよく似ていた。
深夜1時過ぎ、送迎車の中で紗和は少しだけ吐いた。
圭介は無言で車を止めた。
コンビニの袋を差し出す。
「そこ」
それだけだった。
怒りもしない。
心配もしすぎない。
ただ、次にどうするかだけを考えている顔だった。
吐いたあと、紗和は水で口をすすいだ。
「すみません」
圭介は前を向いたまま言った。
「謝るなら店長にしな」
その言い方は少しだけ正しかった。
でも本当に謝るべき相手なんて、もうよく分からなかった。
自分の身体かもしれないし。
それを見て見ぬふりしてきた全員かもしれないし。
それとも最初に「寝れるよ」と軽く渡した友達かもしれない。
でも一番悪いのは、たぶん何度も自分で「まだ大丈夫」と言ってきた自分だった。
翌日、紗和は昼の3時まで起きられなかった。
起きた時、店から不在着信が7件入っていた。
LINEも来ている。
『今日出れる?』
『昨日ちょっと危なかったから確認』
『いけるなら1本だけでも』
1本だけ。
またその言葉だった。
紗和はベッドの上でスマホを見ながら、しばらく動けなかった。
身体は重い。
頭は鈍い。
口の中は乾いている。
でも頭のどこかでは、出なきゃと思っている。
薬が切れた時の自分でいるのが一番しんどいからだ。
入れないと立てない。
立てないと稼げない。
稼げないと店にも切られる。
その計算が、もう自分の呼吸より先に出る。
紗和は枕元のポーチを開いた。
空のシート。
半分だけ残った小袋。
この前買った錠剤。
昨日の帰りにポケットへ突っ込んだままのレシート。
指が迷わない。
それが少し怖かった。
前は、飲む前に少しだけ考えていた。
これで大丈夫か。
やばくないか。
明日に残らないか。
その小さなためらいが、もうなくなっていた。
紗和はシートから錠剤を押し出した。
手のひらに落ちる音が軽い。
軽いのに、その1粒の方が、自分の意思より重い気がした。
水で流し込む。
少し遅れて、足りないと思う。
その感覚も前より早く来る。
だから、もう1粒出す。
少し置いて、小袋にも手を伸ばす。
昨日より少し多い。
でも昨日も何とか回った。
なら今日も回る。
そうやって、自分で自分を押していく。
スマホが震える。
新田からだった。
『今日いけそう?』
紗和は画面を見ながら、しばらく返せなかった。
本当は、もう無理なのだと思った。
身体も、頭も、どこかが先に壊れ始めている。
でも、その無理を言葉にした瞬間、自分が全部終わる気がした。
店も。
金も。
この先の自分も。
だから、返す。
『いけます』
送ったあと、少しだけ笑った。
昨日までの自分なら、その文を見て、まだ嘘だと思えたかもしれない。
でも今は違った。
薬が回り始めた身体の方が、少し楽だった。
頭の霞が薄くなる。
呼吸が整う。
沈みが遠くなる。
それで初めて、今日も何とかなる気がする。
何とかなる、じゃない。
薬が入った時だけ、自分が生き物に戻る。
そこまで来ると、もう溺れているのに、本人だけが浮いた気でいる。
紗和はベッドから起き上がった。
鏡の前に立つ。
顔はまだ少し死んでいる。
でも、もう少しで整う。
もう少しで出られる。
もう少しで普通になる。
そう思いながら、ポーチを閉じる手つきだけが、昨日よりずっと慣れていた。
薬が入っていない時の自分が、本当の自分なのかどうかは、もう分からなかった。
ただひとつ分かるのは、何も入っていない身体に戻る時間だけが、前よりはっきり怖くなっていることだった。
そして人は、怖いものから逃げる時ほど、深い方へまっすぐ沈んでいく。




