37話 事故待ち
最初に見た時点で、止めることはできた。
誰が見ても分かる顔だったからだ。
目が合わない。
返事が半拍遅れる。
座っているだけなのに、身体のどこかがずっと揺れている。
それでも、その夜は止まらなかった。
止めなかった、の方が正しい。
真島圭介は、北口の裏手に停めた送迎車の中で、バックミラー越しに後部座席の女を見ていた。
時刻は21時43分。
車内は暖房が効いているのに、女はダウンを脱いでいない。
源氏名はレナ。
25歳。
まだ若い方だが、もう若さだけで押せる時期は少し過ぎている。
店では「中堅」と呼ばれていた。
その言い方も、圭介はあまり好きじゃなかった。
女を人間じゃなく、売上の層みたいに呼ぶからだ。
「着いたよ」
圭介が言う。
レナは少し遅れて顔を上げた。
「……あ、はい」
その返事だけで、今日だめだなと分かる。
だめだなと分かっても、送迎は車を停める。
停めるところまでが仕事だからだ。
「水飲んだか」
「飲みました」
足元を見ると、コンビニの水は半分も減っていなかった。
……飲んでいない。
でも圭介はそれ以上言わない。
言ったところで、店へ連れていく流れは変わらないと知っているからだ。
北口の雑居ビル。
表に看板はない。
階段の奥に小さなプレートがあるだけ。
メンエス寄りの店。
でも、中身はそれだけでは済んでいない。
圭介は車から降りずに、レナが階段を上がるのを見た。
足取りが少し危ない。
それでも転ばない程度には、身体が覚えている。
この仕事を長くやると、女がどこまで壊れているか、歩き方でだいたい分かるようになる。
まだ回る壊れ方。
そろそろ危ない壊れ方。
今夜止めないとまずい壊れ方。
レナは3つ目に近かった。
スマホが鳴る。
内勤の新田からだった。
『1本目だけ出します』
圭介は画面を見たまま、少しだけ息を吐いた。
1本目だけ。
その言い方もよくある。
1本目だけ。
今日だけ。
今週だけ。
そうやって、人は何回も使い切られる。
21時58分。
圭介はビル裏の喫煙所みたいな場所で煙草を吸っていた。
そこへ新田が下りてくる。
20代後半。
髪は短い。
顔は普通。
普通の顔で、普通じゃない話ばかりする男だった。
「今日やばくないですか」
新田が言う。
「見りゃ分かる」
「でも店長、出せって」
「予約埋まってんの」
「3本」
圭介は煙を吐いた。
「切れば」
「切ったら売上死ぬんで」
新田はそれを当然みたいに言う。
当然なのだ。
この店では。
女のコンディションより、埋まるかどうかの方が先に来る夜がある。
そして、その「ある」が最近は多い。
「客前で飛んだら」
圭介が言う。
新田は肩をすくめた。
「その時考えます」
その時考えます。
それもよくある。
倒れてから救急車。
揉めてから口止め。
飛んでから埋め込み。
全部、あとで考える。
先に止める方が金にならないからだ。
22時36分。
レナの1本目が上がった。
階段を下りてくるのが見えた。
顔色はさっきより悪い。
でも化粧はまだ崩れていない。
それが逆に生々しかった。
女は壊れる時、まず中身から落ちて、顔は少し遅れて壊れる。
「次、移動ね」
圭介が言うと、レナは助手席に乗った。
今日は後ろではなく助手席だった。
後ろに座る元気がない時、女は近い方へ来ることがある。
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
声が細い。
でも、自分で「大丈夫です」と言っているうちは、店は回す。
店だけじゃない。
送迎も。
内勤も。
客も。
みんな、その言葉に少しだけ乗る。
乗った方が楽だからだ。
「何飲んだ」
圭介が聞く。
レナは窓の外を見たまま言う。
「何も」
「そう」
「……ちょっとだけ」
圭介はそれ以上聞かなかった。
市販薬か。
処方か。
酒と何かか。
そのへんは聞いても、今夜の予約がなくなるわけではない。
なくならない以上、聞く意味も薄い。
それが一番まずいと、圭介は何度か思ったことがある。
でも思っただけだった。
次のホテルへ着く前、レナが急に言った。
「今日、あと何本ですか」
「2」
「……無理かも」
圭介はハンドルを握ったまま、少しだけレナを見た。
……無理かも。
それを本人が言う夜は少ない。
大体は、限界の手前でも「いけます」と言う。
言わないと切られる気がするからだ。
「新田に言うか」
そう聞くと、レナは少し考えてから首を振った。
「やっぱいいです」
そこだった。
無理かもと言って、すぐ引っ込める。
その時点で、女はもう売上と自分のどっちを守るか分からなくなっている。
いや、分かっているのかもしれない。
分かっていて、自分を後ろへずらしている。
それを何度もやると、人は自分で自分を止めにくくなる。
「ほんとに無理なら言えよ」
圭介は言った。
言いながら、自分でも薄いと思った。
言えないから、今こうなっているのに。
「はい」
レナは小さく返した。
その「はい」に中身がないのも、圭介には分かっていた。
22時58分。
2本目の客は長かった。
部屋番号が送られてから、終わりの連絡が来るまで80分かかった。
長い客ほど嫌な予感がする。
送迎は中のことを知らない。
でも、知らないままでも分かることはある。
時間。
下りてくる足。
車に乗った時の顔。
そういうもので十分だった。
23時21分。
レナは1人で階段を下りてこられなかった。
黒服の男が肩を貸していた。
圭介は舌打ちしそうになって、やめた。
車のドアを開ける。
レナは助手席に半分落ちるみたいに座った。
黒服が言う。
「店戻せます?」
「戻せるかじゃなくて、戻すんだろ」
「一応、店長に確認して」
圭介は何も言わず車を出した。
確認、の意味は知っている。
止めるための確認じゃない。
まだ回せるかを確認するためのやつだ。
走りながら、レナの呼吸を聞く。
浅い。
でも止まってはいない。
「レナ」
返事がない。
「おい」
「……はい」
目は開いていない。
声だけ返る。
そこがまた危ない。
完全に落ちていないから、誰も本気で止めない。
1番面倒な状態だった。
店裏に着くと、新田と店長がいた。
店長は40前後。
いつも穏やかな顔をしている。
女にも客にも怒鳴らない。
でも、その顔で一番ひどい判断をする時がある。
「どう?」
圭介が聞く前に、店長がレナの顔を覗いた。
「……あと1、短いのなら」
圭介はその言葉を聞いて、少しだけ本気で腹が立った。
「今の見てそれ?」
店長は圭介を見た。
顔色は変えない。
「今日ここ切ると、全部崩れるんだよね」
それはたぶん本音だった。
売上。
予約。
他の女の回し方。
客の機嫌。
この店の夜は全部、数字でつながっている。
1本落とすと、他も崩れる。
だから1人を押す。
その理屈も分かる。
分かるから余計に気持ち悪い。
「病院は」
圭介が聞く。
「そこまでじゃないでしょ」
店長はあっさり言う。
そこまでじゃない。
その言い方もよく使う。
救急車を呼ぶほどではない。
警察が来るほどではない。
まだ回る。
まだ使える。
全部その意味だ。
レナはその間も、椅子みたいな簡易ベンチに座らされていた。
目は半分閉じている。
でも話は聞こえている顔だった。
自分のことで、自分の前で、自分抜きの相談が進んでいる。
その顔を圭介は見た。
昔にも見たことがある。
潰れる少し前の人間の顔だ。
自分が物みたいに扱われているのを、分かっているけど止められない顔。
「レナ」
店長が少し声をやわらかくした。
「短いのだけ、いける?」
レナは返事をしなかった。
だから新田がしゃがみこむ。
「ね、1本だけ」
1本だけ。
またその言葉だった。
圭介は目をそらしたくなった。
でもそらさなかった。
そらすと、自分も止めていない側に入る感じが強くなるからだ。
もう入っているのに。
レナはしばらくして、小さくうなずいた。
その動きが見えた瞬間、店長はすぐ新田へ言った。
「1時枠、入れて」
決まるのが早かった。
ためらいもない。
まるで、女が倒れるかもしれない夜じゃなく、キャンセルが出た穴を埋めるだけみたいに。
その早さが、圭介は一番嫌だった。
0時12分。
最後の客は短かった。
本当に短いコースだった。
それでも、レナが出てきた時には、自分で歩けなかった。
新田と圭介で両側から抱える。
軽い。
軽すぎる。
この街の女は、だいたい荷物みたいに軽くなる時がある。
飯を食わない。
寝ない。
薬でずらす。
客の前では笑う。
その積み重ねで、身体だけ先に中身が減る。
「タクシー呼ぶ?」
新田が聞く。
「病院だろ」
圭介が言うと、新田は口を閉じた。
店長は少しだけ迷った顔をした。
その迷い方まで、圭介はもう嫌になるほど知っていた。
救急車を呼ぶと説明がいる。
病院へ行くと名前が残る。
客の時間もずれる。
店の空気が変わる。
そういう計算が先に来る。
「……自家用で連れてく」
店長が言った。
それが一番ましな落としどころなのだろう。
救急車を呼ぶほどではない顔をして、店の車で病院へ運ぶ。
その間に説明も揃える。
酒か、貧血か、寝不足か。
全部を少し混ぜて、どれでもない顔にする。
圭介はレナを後部座席へ寝かせた。
顔色は悪い。
でも死んではいない。
その「死んではいない」が、この街では一番危ない線だと思う時がある。
死んでいないから、みんな無理を続ける。
もう少し。
今日だけ。
この1本だけ。
そうやって、止めるタイミングを何度も通り過ぎる。
病院の前で、圭介は車を降りなかった。
店長と新田がレナを運ぶ。
自動ドアが開いて、閉まる。
それを見ながら、圭介はスマホを開いた。
店のグループが動いている。
『明日、代打探せますか』
『レナしばらく無理かも』
『リオ、上げられる?』
その流れの早さに、圭介は少しだけ笑いそうになった。
笑えるわけではない。
でも、あまりにもいつも通りだった。
誰か1人が潰れかけても、会話はすぐ次の穴埋めに行く。
そこがこの街の本体なのだと思う。
救われるかどうかより先に、回るかどうかを考える。
回れば、たぶん明日も同じことが起きる。
圭介は病院の白い灯りを見たまま、しばらく動かなかった。
最初にレナを乗せた時点で、止めることはできた。
1本目が終わった時も。
2本目のあとも。
最後に本人がうなずいた時ですら、たぶんまだ止められた。
なのに誰も止めなかった。
店長も。
内勤も。
送迎も。
レナ本人も。
事故待ちっていうのは、多分そういうことだ。
何かが起きるのを待ってるわけじゃない。
起きるまで全員で少しずつ押してるだけだ。




