36話 フロント
表の看板は、だいたい清潔な方がいい。
白い壁。
黒いロゴ。
名刺には会社名と携帯番号だけ。
余計なことは書かない。
余計なことは、聞かれてから考えればいい。
倉田誠司は、池袋西口のオフィスビル8階で、契約書の束を机の端へ寄せた。
昼は不動産管理会社の部長。
夜は別の顔がある。
といっても、倉田はそのことを二重生活だとは思っていなかった。
全部つながっているからだ。
部屋を貸す。
店を入れる。
送迎車の駐車場を押さえる。
飛んだ女の荷物をどける。
揉めた客を静かに返す。
使えなくなった若い衆を別の現場へ回す。
ただ役割が違うだけで、やっていることは同じだった。
空いた場所を埋める。
詰まった流れを通す。
問題を表へ出さない。
それだけだ。
倉田は46歳。
若い頃に組にいたわけではない。
盃もない。
でも、古い縁でつながっている男たちは何人かいる。
今の時代、肩書きより都合が大事だった。
誰が何を持っているか。
誰がどこへ電話できるか。
それだけで、人間の値段は決まる。
机の上のスマホが震えた。
神崎からだった。
『昨日の件、収まった』
倉田は短く返した。
『了解』
それで終わる。
詳しく聞かない。
聞けば、そのぶん知っていることが増える。
知っていることが増えると、たまに面倒になる。
この仕事は、全部を知っている顔をしながら、肝心なところだけ曖昧にしておく方が長持ちする。
窓の外では、西口のビル群が朝の色をしていた。
普通の会社員が出勤する時間だ。
ネクタイを締めた男たち。
コンビニのコーヒー。
駅へ急ぐ足。
この街は昼の顔だけ見ると、ちゃんとして見える。
そこが一番便利だった。
ちゃんとして見える場所の方が、裏の金は回しやすい。
「部長」
若い社員がドアを開けた。
「この物件の更新、どうしますか」
倉田は書類を受け取る。
ワンルーム。
池袋北口徒歩8分。
契約者名と、実際に住んでいる人間が違う部屋だった。
珍しくない。
珍しくないから、いちいち直さない。
「更新通して」
「確認いらないですか」
「いらない」
若い社員は少しだけ迷った顔をしたが、何も言わずに出ていった。
ああいう顔をするうちはまだましだと、倉田は思う。
違和感があるうちは、全部に慣れていない。
でも半年もすれば、だいたい消える。
契約者と住人が違う。
送迎車が頻繁に出入りする。
深夜に女が何人か入れ替わる。
それでも家賃が入るなら、管理会社としては大きな問題にしない。
そういう線引きは、どこの会社にもある。
ただ倉田のところは、その線が少しだけ広いだけだった。
昼の打ち合わせは建前の話ばかりだった。
空室率。
テナント誘致。
更新料。
保証会社との連携。
それらを話している途中でも、倉田のスマホには別の通知が入る。
『今日、1人飛びそう』
『携帯1台いる』
『例の部屋、水漏れ』
『客が会社バレ嫌がってる』
全部、今すぐ死ぬほどの話ではない。
でも放っておくと面倒になる。
だから順番に処理する。
昼休み、倉田はビルの喫煙所で煙草を吸った。
スーツ姿の営業マンが横で電話している。
「そこ、なる早でお願いします」
なる早。
便利な言葉だった。
急げ、でも責任は曖昧にしたい時に使う。
夜の仕事にも似た言葉はいくらでもある。
うまくやれ。
穏便に。
きれいに。
この辺だけで。
意味は全部同じだ。
面倒を表へ出すな、だった。
午後3時、神崎が会社へ来た。
表から入ってくる時は作業着だった。
建設関係の下請けみたいな顔をしている。
そういう男は街にいくらでもいる。
だから逆に目立たない。
「どうも」
神崎は会議室へ入るなり、缶コーヒーを机に置いた。
「昨日、女は静かでした」
「静かな方がいい」
「客も会社持ちでした」
倉田はうなずいた。
「じゃあそのままでいい」
神崎は笑わなかった。
「で、別件です」
「何?」
「北口の箱、1人埋めたい」
箱。
倉田はその単語だけで、だいたいの話が分かった。
メンエス寄りの店か。
看板の薄い箱か。
……飛びが出たのだろう。
「どのレベル」
「まだ浅い方でいいです」
「まだ浅い方」
それも便利な言い方だ。
客を選べるうちは浅い。
選べなくなったら深い。
業種は変わらなくても、中身の悪さで人間の値段は変わる。
「今いるのは」
「埋め込みの子が1人」
「メンタルは」
「落ちてるけど、使えます」
使えます。
倉田はその言い方が好きではなかった。
でも否定もしない。
否定したところで、別の言葉に置き換わるだけだからだ。
女を人間として扱わない言葉は、この辺には多い。
使える。
軽い。
飛び癖あり。
客受けいい。
病み気味。
上げれば回る。
そういう単語だけで、話が進む。
進むから、みんな使う。
「顔は」
「中の上」
「年齢」
「26」
「じゃあいけるだろ」
倉田がそう言うと、神崎は小さくうなずいた。
……決まった。
たった数行で、1人の女の次の行き先が決まる。
本人はまだ何も知らないのに。
こういう時、倉田はたまに思う。
自分は暴力を振るっていない。
殴ってもいない。
脅してもいない。
でも、もっと手前のところで人を曲げているのは、自分の方かもしれないと。
思うだけだ。
思っても、手は止めない。
午後5時、別件で内見に出た。
新宿寄りの古いマンション。
1K。
風呂トイレ別。
見た目は普通。
でもこういう部屋ほど、使い道はいくらでもある。
若い衆の寝床。
飛びそうな女の仮置き。
名義だけ別人の荷受け部屋。
送迎ドライバーの休憩所。
倉田は管理会社の顔で鍵を開けた。
同行している仲介業者は、ただの空室確認だと思っている。
「日当たり悪いですね」
若い仲介が笑う。
倉田も笑った。
「昼いない人には関係ないですよ」
その一言に、本音が少しだけ混ざった。
こういう部屋を昼に使う人間は少ない。
夜だけで回る部屋ほど、都合がいい。
家賃も落ちにくい。
トラブルがあっても表へ出にくい。
保証会社だけきちんとつけておけば、あとはだいたい何とかなる。
夜7時。
会社を出て、今度は北口のバーへ向かった。
表向きはテナントオーナーとの会食。
中身は違う。
出るのは店の売上の話ではなく、誰が飛んだか、誰が切れそうか、どの客が危ないか、そのへんだ。
バーの個室には、送迎の圭介もいた。
黒服の内勤もいた。
神崎もいた。
みんな違う仕事の顔をしている。
でも話している内容は同じだった。
「リオ、今日かなり怪しかった」
圭介が言う。
「客前で飛ぶ前に落とした方がいい」
「落とすってどこに」
内勤が聞く。
「軽い箱あるでしょ」
神崎が言う。
「北口の奥」
「年齢まだいける?」
「ギリ」
倉田は黙って聞いていた。
こういう場では、上の人間ほど口数を減らした方がいい。
最後に一言だけ言えば十分だからだ。
「だったら今週中に動かして」
それで決まる。
他の男たちがうなずく。
その動きで、話はもう進んでいる。
店で疲れた女が1人。
送迎車に乗せられる。
別の箱へ移される。
客は変わる。
金の抜け方も変わる。
でも周りはそれを「環境変えるだけ」と言う。
便利な言い方だった。
夜9時過ぎ、店を出ると雨が少し降っていた。
倉田は傘を差さずに歩いた。
スマホに着信。
知らない番号。
出ると、若い男の声だった。
「倉田さんですか」
「誰?」
「悠斗の件で」
少し間が空く。
ああ、と思う。
昨日の若い衆か。
あの手の男は、抜けたいと言ったあとが面倒だ。
「何?」
「部屋、出たいって言ってて」
倉田は雨の中で立ち止まった。
「それを俺に言う意味ある?」
「黒田さん、今、話通じなくて」
「最初から通じる相手じゃないだろ」
向こうが黙る。
そこで倉田は、少しだけ現実的なことを考えた。
黒田が抱えている若い衆は、今何人いるか。
部屋は足りているか。
抜けたいやつを1人出した時、他の下がどう見るか。
その損得だけだった。
「名前?」
「片桐です」
「今どこ?」
男が場所を言う。
倉田は少し考えた。
助けるわけではない。
ただ、黒田だけに預けると雑になる時がある。
雑になると警察や救急まで近づく。
近づくと表の会社まで面倒が来る。
だから、少しだけバランスを取る。
それがフロントの仕事だった。
「明日昼、会社来い」
倉田が言う。
「黒田には俺から言う」
「……ありがとうございます」
その礼に、倉田は少しだけ顔をしかめた。
感謝される筋ではなかったからだ。
切るか残すか。
動かすか潰すか。
全部、こっちの都合で決めるだけだ。
電話を切る。
雨はまだ弱い。
西口の大きな交差点を、スーツ姿の男たちが傘を差して渡っていく。
普通の街だった。
倉田はその普通の顔が好きだった。
好きというより、使いやすかった。
表の会社。
管理物件。
保証会社。
雇用契約。
名刺。
会食。
全部きれいな顔をしている。
そのきれいな顔の裏で若い衆も、送迎も、女も、店も全部が少しずつ回る。
フロントっていうのは、前に立つ人間のことだ。
前に立っているから殴られない。
前に立っているから汚れない。
そう思われやすい。
でも本当は違う。
汚れたものを表へ出さないように、毎日少しずつ押さえているだけだ。
押さえたぶんだけ、下に溜まる。
若い衆の頬。
女の目の下。
送迎車の後部座席。
名前の違う部屋。
表札のない郵便受け。
全部そこに溜まる。
それでも朝になれば、倉田はまたスーツを着る。
会社で部長の顔をする。
更新書類に判を押す。
空室対策の会議をする。
普通の会社員みたいに昼を過ごす。
そのたびに思う。
この街は、裏社会があるんじゃない。
表のきれいな顔の裏側だけで、十分回っているのだと。




