35話 口止め
揉め事には、2種類ある。
表に出る揉め事と、出さない方が安い揉め事だ。
殴った。
撮った。
脅した。
金が足りない。
女が泣いた。
男がキレた。
それだけなら、どこにでもある。
問題は、そのあとだった。
警察に行かれると困る。
店の名前が出ると困る。
客の会社に知られると困る。
だから、消す。
証拠も。
怒りも。
その場にいた事実ごと、できるだけ薄くする。
柴崎真一は、池袋北口から少し外れた雑居ビルの2階で、安い灰皿に煙草を押しつけた。
時刻は1時06分。
事務所と呼ぶには狭い部屋だった。
ソファが1つ。
折りたたみ机が1つ。
空のペットボトル。
壁際に積まれた段ボール。
表向きはイベント会社の備品置き場になっている。
でも夜にここへ来るやつは、イベントの話なんてしない。
真一は41歳。
昔は回収も行った。
押さえもやった。
若いのを連れて歩くこともあった。
でも今は少し違う。
殴る前じゃなく、殴ったあとに呼ばれることの方が多い。
揉めたあと。
飛んだあと。
撮られたあと。
泣かれたあと。
そういう、表に出ると面倒な瞬間を片づける。
それが今の役目だった。
スマホが震えた。
神崎からだった。
「今から1件」
「どっち?」
「女」
短い返事だった。
「店外で揉めてる」
「店は?」
「メンエス」
真一は少しだけ目を細めた。
メンエス。
その言葉が出た時点で、だいたい中身は分かる。
健全の看板。
でも客は勘違いしてる。
店も気づいてる。
女はギリギリの線を歩いてる。
その線が夜中に切れた。
そういう話だ。
「場所」
「ビジホ」
ホテル名と部屋番号が送られてくる。
「画像あるっぽい」
そこまで見た時点で、真一は立ち上がった。
画像があると話が少し変わる。
金だけでは済まない時がある。
消した、消してないの話になる。
見せた、見てないの話になる。
そして、そういう揉め事ほど、本人たちが一番うまく説明できない。
ホテルは北口の外れだった。
送迎車がよく停まる通りの少し奥。
受付は寝た顔をしている。
エレベーターは遅い。
こういうホテルほど、ろくでもない夜をいくつも見てる。
部屋の前には、店の内勤らしい男が立っていた。
20代後半くらい。
細い。
スーツでも私服でもない、夜の男特有の中途半端な黒い服。
「柴崎さんすか」
真一はうなずいた。
「中、今どんな?」
「女が泣いてて、男が帰らないです」
「店長は?」
「来れないって」
来れないんじゃない。
来ないのだ。
こういう時、責任のある立場ほど現場に出ない。
代わりに、名前だけ出す。
真一はそれも慣れていた。
部屋へ入る。
空気がすぐに重かった。
女はベッドの端にいた。
髪が少し乱れている。
メイクは崩れていないのに、目だけ赤い。
年は20代半ばくらい。
服はもう着ている。
でも身体のどこかだけがまだ部屋の空気から戻っていない顔だった。
男は窓際に立っていた。
40代。
ジャケットは脱いでいる。
スマホを握っている。
そこが中心だと分かった。
真一はまず男を見る。
「何があった」
男はすぐに言った。
「こっちが聞きたいんだけど」
声が強い。
でも怒鳴りきれていない。
本気で通報する気の男は、もう少し正しさの顔をする。
この男は違った。
自分も後ろ暗いところがある顔だった。
「最初に聞いてた話と違う」
よくある入りだった。
真一はうなずく。
「何が?」
「時間もだし、内容もだし」
「内容?」
そこで男は一瞬だけ黙った。
この沈黙がある時は、だいたい本人も表に出したくない。
「……そこはいいだろ」
やっぱりな、と真一は思った。
いいわけがない。
でもその「いいだろ」に、警察まで行きたくない気持ちが入っている。
女の方が低い声で言った。
「勝手に撮ったんです」
真一はそこで初めて女を見た。
「どこまで?」
「途中から」
「顔は」
「少し」
男がすぐ被せる。
「記録用だよ」
真一は笑わなかった。
……記録用。
そういう言い訳をする男はたまにいる。
自分の中で、脅しじゃない形にしておきたいのだろう。
「何の記録?」
男は答えなかった。
代わりに言う。
「こっちだって金払ってるんだけど」
そこだった。
金を払っている。
だから少しぐらい越境してもいいと思っている。
そして揉めた瞬間だけ、被害者みたいな顔になる。
真一はゆっくり部屋の中を見た。
テーブルの上に封筒。
開いた財布。
グラスが2つ。
スマホは男の手の中。
女のスマホはベッドの上。
泣いているが、パニックではない。
つまり、まだ収められる。
真一はまず男に言った。
「座れます?」
男は少しだけ不満そうな顔をしたが、座った。
そこが大事だった。
立っている男は正義の顔をしやすい。
座らせると少しだけ弱くなる。
真一はその向かいに椅子を引いた。
「通報したい?」
男はすぐには答えなかった。
「……いや」
「じゃあどうしたい?」
「画像消してほしいって騒ぐから」
「消せば?」
真一がそう言うと、男は眉を寄せた。
「いや、こっちも証拠として」
「何の証拠?」
また同じ沈黙だった。
証拠という言葉を使う男ほど、中身は曖昧だ。
つまり、優位に立ちたいだけだ。
女が今度は少しだけ強い声を出した。
「消してください」
「だから今話してるだろ」
「今ここで」
男が苛立った顔でスマホを握り直す。
真一はその手だけ見ていた。
こういう時は、怒鳴るより先に、相手がどこで折れるかを見る。
この男は会社がある顔だ。
妻か、子どもかは分からない。
でも、表の生活を持っている。
そういう男は強く出るくせに、表へ出るのを一番嫌がる。
「会社どこですか?」
真一が何気ない顔で聞くと、男の表情が止まった。
「は?」
「いや、名刺とかあるかなと思って」
「何で」
「揉めてるんで、整理しやすい方がいいでしょ」
整理。
その言葉を出すと、相手は少しだけ話し合いの顔になる。
実際には脅しの入口でも使える。
男は答えなかった。
でも、その答えない感じで十分だった。
やっぱり表へ出せない。
真一は次に女を見る。
「君は警察行きたい?」
女は少しだけ目を泳がせた。
行きたいと言いたい顔ではあった。
でも、それだけでは動けない顔でもあった。
「……店に知られたくないです」
それで十分だった。
真一は心の中でうなずく。
この話はもう半分決まっている。
男は会社に出されたくない。
女は警察まで行きたくない。
店は名前を出したくない。
つまり全員が、真ん中の汚い着地点を必要としている。
そういう夜がある。
真一は男に言った。
「じゃあ画像、今ここで消しましょう」
男はすぐには動かなかった。
「それで終わり?」
「終わらせたいんでしょ」
男は不満そうだった。
多分、自分だけが折る形になるのが嫌なのだ。
だから真一は続ける。
「それと、今日の金は戻す」
今度は女が顔を上げた。
男はすぐ反応する。
「は?」
「揉めて続いてないなら、そこは戻した方が早い」
「全部?」
「全部でいいでしょ」
男はそこで初めて、真一をちゃんと見た。
誰なんだという顔だった。
でも、その問いは口にしない。
口にした瞬間、こっちの方も名刺が必要になるからだ。
真一は机の封筒を顎で示す。
「いくら」
女が答えた。
「3」
男は舌打ちした。
「高えよ」
「今そこじゃない」
真一は低く言った。
部屋が静かになる。
強く言う時は短くする。
それだけで十分なことも多い。
男はしばらく黙っていたが、やがてスマホをテーブルに置いた。
画像一覧を開く。
真一は自分の目で確認した。
女の肩。
首元。
横顔が少し。
枚数は多くない。
でも少なくもない。
「最近の削除、ここで」
男は言われた通りに操作した。
真一はその画面を見ていた。
完全に消えたかまでは分からない。
クラウドもある。
別フォルダもある。
転送もできる。
でも、この場で必要なのは「消した形」だった。
それがあるだけで、女は今夜を越えやすい。
「ゴミ箱も」
男がまた操作する。
その指先に、少しだけ苛立ちが出ていた。
でも従っている。
その時点で、この話はもう男の負けだった。
負けなのに、表では何事もなかった顔で帰るだろう。
みんなそうだ。
「金」
真一が言う。
男は財布を開いた。
札を数える。
2万。
足りない。
「あと1」
「今ない」
「ATM」
「今?」
「今」
男はそこで初めて、はっきり嫌そうな顔をした。
真一はその顔を見るのが少しだけ得意だった。
人が表の生活へ戻る前に、一番後悔する瞬間の顔だからだ。
結局、男は下のコンビニATMへ行くことになった。
内勤の若い男が付き添う。
逃げないようにというより、逃げたら余計に面倒だからだ。
部屋に女と2人きりになる。
静かだった。
女はまだ震えている。
でも泣きやんでいた。
「名前」
真一が聞くと、女は少し迷った。
「……あおいです」
本名ではないだろうと思った。
でもそれで十分だった。
「店に言う?」
あおいは首を振った。
「言っても、多分、私が悪いってなるので」
真一は何も返さなかった。
その通りだと思ったからだ。
こういう店は、自分からはやれと言わない。
でも揉めた時だけ、個人間の問題にする。
それで生きている。
「警察は?」
「無理です」
「うん」
あおいはそこで少しだけ笑った。
笑ったというより、息が漏れただけみたいな顔だった。
「何か、全部無理ですって感じですね」
真一は机の上の灰皿を見た。
空だった。
「そういう夜もある」
それ以上、言えることはなかった。
戻ってきた男は、顔が少し死んでいた。
さっきより静かだった。
封筒に1万足して机へ置く。
真一はそれをあおいの前へ滑らせた。
「これで今日の話は終わり」
男が低い声で言う。
「ほんとに終わるんだろうな」
その確認がもう情けなかった。
終わらせたいのは、お前の方だろと真一は思った。
でも口には出さない。
「君が終わらせたいなら終わる」
あおいを見る。
あおいは数秒黙ってから、小さくうなずいた。
それで決まった。
決まったというより、決めさせた。
こういう夜はだいたいそうだ。
選んでるように見せて、選べる幅だけ先に削っておく。
男はジャケットを着て、スマホをポケットに入れ、視線を合わせずに部屋を出ていった。
最後まで謝らなかった。
でも、謝罪があってもなくても多分何も変わらない。
変わるのは、今夜この話が外へ漏れるかどうかだけだ。
それが口止めの本体だった。
部屋に残ったあおいは、封筒を握ったまま動かなかった。
「送る?」
真一が聞くと、あおいは首を振った。
「1人で帰れます」
帰れる顔ではなかった。
でも、ここで誰かに送られると、また別の借りみたいになる夜もある。
真一はそれ以上言わなかった。
ホテルを出る時、内勤の若い男が小さく聞いた。
「柴崎さん、あの画像、ほんとに消えてますかね」
真一はエレベーターを待ちながら答えた。
「知らない」
「じゃあ意味なくないですか」
「意味はあるよ」
「どこに」
真一は少しだけ笑った。
「今夜、警察行かない理由ができた」
若い男は黙った。
その意味が分かったのだろう。
分かった上で、気持ち悪くもなったのだろう。
それならまだいいと思った。
気持ち悪いままでいられるうちは、まだ全部には慣れていない。
外へ出ると、北口の風は少し冷たかった。
スマホが震える。
神崎からだった。
『どうなった』
真一は短く返す。
『収まった』
すぐ既読。
『了解』
それだけだった。
収まった。
たしかにそうだ。
警察も来ない。
店の名前も出ない。
会社にも行かない。
画像も一応は消した。
金も返した。
だから話は収まったことになる。
でも、本当に収まったものがどこにあるのか、真一はいつもよく分からなかった。
口止めというのは、問題を消す仕事じゃない。
問題が口を持たない形にするだけだ。
夜が明ければ、みんな普通の顔で戻っていく。
客は会社へ行く。
女は店へ戻るかもしれない。
店はまた予約を回す。
その全部の真ん中で、なかったことみたいに置かれた夜だけが、どこにも行けずに残る。




