第20話
次の日、アレックスが珍しくわたしを観劇に誘った。劇場に着いて初めてわかった。その夜の劇の主役がクレオだったということに。
「シェリー、ここに居て。男に話しかけられても無視するんだよ。目を合わせないように下を向いているといい」
「アレックス……わたしに声を掛ける殿方なんてどこにもいないわよ。それに、あなたがいるのに」
「すまない、シェリー……ぼくはちょっと……」
「…………!」
――コツコツコツコツ……。
アレックスは待合のサロンを出て劇場の裏方向へ歩いていった。開演前にクレオに会いに行ったのだろう。妻を同伴しながら、なんて大胆なんだろう。わたしは手の中のハンカチをギリリと握りしめた。これ以上の屈辱には耐えられそうにない。
「まあっ! シェリー!」
「マーサ……」
一昨日の舞踏会に招待してくれたスミス夫人がやってきた。ふくよかな身体に大きな白いレースの襟が付いたふんわりとしたエンジのドレスを着ている。彼女は大金持ちの奥方で、あちこちのサロンの中心人物だ。
「先日はどうもありがとうございました」
「シェリー……今、アレックスと擦れ違ったわ。あっちは……」
「はい……。わかってますわ」
地味な紺のドレスで背筋を伸ばし、手元の紅茶を一口飲んだ。どんなときでもシェリーメイは毅然としていなければならない。それが、わたしを育ててくれた孤児院の院長やシスター、そしていまでも手紙でわたしを励ましてくれるマッキントッシュ教授に対する礼儀だ。この姿勢は死ぬまで崩すつもりはない。
「シェリー……うちの主人も裕福なばっかりに、帝都1の娼婦を囲っていたこともあったわ。でも、しょせん、そんな女は金目当てよ。自分に必要なくなれば、そのうち離れていくものよ」
「はい……」
あいにくアレックスはそんなに裕福ではない。従業員や邸宅を維持するのに精一杯の生活だ。わたしに会うために売った金のチェーンもいまだ買い戻せないほどだ。とうとうチェーンをあきらめることを宣言したアレックスは、今日は金の鍵をポケットに入れて持ち歩いている。お守り代わりだと言いながら。
そんなアレックスだから、女たちは彼のお金ではなく、彼の容姿や性格そのものが好きで寄ってくるのだろう。ましてクレオとは学生時代からの付き合いだ。あの閉鎖的な離宮のキャンパスで何があったのか考えたくもない。
「娼婦といえば……シェリーメイは御存じだった? 一昨日の夜……ほら、うちで舞踏会が催されていたちょうどそのときよ。帝都のはずれにある娼館で、売れっ子娼婦が行方不明になっていたことを……?」
「娼婦……がですか? いいえ?」
「アレックスから話は……ないわね? 実は……その娼婦……」
マーサがバツが悪そうな顔をした。聞き耳を立てている周りの女たちが、扇の陰から身を乗り出してこちらを見ている。まさか――殺された娼婦はアレックスに関連のある人物なんだろうか。
マーサはキョロキョロと周りを見渡してからこちらに屈み込み、わたしの耳に口を寄せてこう囁いた。
「ミスター・カーライルのお気に入りだと評判の女で……。昨日の朝、いつまで経っても客も娼婦も起きてこないから娼館の主が様子を見に行ったら……寝台の上で見知らぬ若い男が殺されていたそうよ。全裸で、首から上がビッショリ濡れていたそうなの……」
「…………!」
言葉を失った。昨日の朝、水で濡れていた男の死体。イヤなパーツが揃い過ぎている。
「窓が開いていて、裏庭の泉まで水が滴っていたそうよ。その水には、化粧の粉が混じっていたらしいんだけど……。泉をさらってから、馬を出して国境付近まで人を行かせたけど、娼婦はどこからも見つからなくて……。小柄な女性だったそうよ」
「あの……男の死因は?」
「それが……何かの毒らしいわ」
「毒ですって! あの……寝台で死んでいた男は誰だったのですか?」
「身元はサッパリわからないらしいわ。その日の客は小柄な男だったそうだから、殺されていたのはその男でほぼ間違いないかと……。立派な服装をしていたけどスカーフと帽子を身に付けていたから、顔はまったく見えなかったらしいわ。その娼館に初めて訪れた男だったから、いまだに彼の素性が割れないそうよ」
「そうですか……」
「それでね……あの……」
「まだ何か……あるのでしょうか?」
マーサはどぎまぎした様子で言いづらそうに更に身を寄せてきた。
「今日の劇の主役、クレオって女優が、こんかい行方不明になった娼婦と仲が良かったそうなのよ。アレックスとその娼婦とクレオはよく3人で娼館で密会してたとか……」
「……なんですって! あの……では、アレックスが疑われているのでは……?」
わたしの脳裏に去年の辛い思い出が蘇ってきた。留置場通いだなんて、あんな想いは二度と味わいたくないわ。
「それはないわ。だって、アレックスはあなたと我が家の舞踏会に出席してくれてたじゃないの? その娼婦の元に死んだ男が訪れたのは、あなたとアレックスがワルツを踊っていた頃なのよ」
「そう……でしたか……」
急に、昨日の朝のアレックスの言葉が思い出された。彼はわたしにゆうべは一晩中わたしと居たと証言して欲しいと頼んできた。そういうことか。彼の言葉にはいちいち裏があるようだ。本当にやんなる。
――コツコツコツコツ!
「シェリー! おまたせ……おや? スミス夫人! もうすぐ劇が始まりますよ。行きましょう!」
アレックスは何事もなかったかのようにやってくると、わたしの腕を取り歩き出した。いつものおしろいの匂いが、彼の燕尾服の襟元から漂ってくる。途端に息苦しくなってきた。
――カタンッ。
アレックスと2階の桟敷へ行き、ホールスタッフの引いてくれた椅子に座った。今夜の出し物は『つばき姫』だ。わたしのお気に入りの曲だが、叶わぬ恋にむせび泣くクレオの演技を見る気にはなれなかった。あの自身に満ちた大きな黒い瞳はわたしにはあまりにも眩し過ぎる。これから何時間も夫の愛人を注目しなくてはならないなんて、あまりにも辛すぎる。わたしにだってプライドはあるのだ。
チラリと隣に座るアレックスを見遣った。意外なことに、彼は間近から心配そうにわたしの顔を覗き込んでいた。アレックスは暗闇でもわかるほど青白い顔をしていた。クレオとの間に何かよくないことでもあったのだろうか。それとも、さっきからチラチラとわたしたち夫婦を見ている、好奇心あふれる周りの連中の視線が気になるのだろうか。
「アレックス……顔色が悪いわ。具合が悪いなら……」
「いいや、シェリー……今夜はここに居よう。ぼくとシェリーはこの場に居る。そのことを周りの皆にも分かってもらうんだ」
「今夜はここに……? どういうことなの? まさか……また何かあるんじゃ?」
「何かって……もしかして、スミス夫人に何か聴いたのかい?」
アレックスが真剣な目でわたしの瞳を覗き込んできた。わたしはツイッと目を逸らすと、黙り込んだ。2人の間に沈黙が流れる。なんと答えてよいのかわからなかった。
わたしたちの沈黙を破ったのは意外な人物だった。
「シェリー! シェリーじゃないの!」
「えっ……?」
聞きなれた声に思わず振り返る。レイラだ。レイラが隣のブースに座っていた。レイラは1人ではなかった。向こう隣に反対側を向いて男が座っていた。ルイかと思って暗闇でよく目を凝らしてみると、ルイではなくギャツビーだった。彼には正式な婚約者がいる。こんなところでレイラと何をしているのか。
当のレイラは悪びれずもせず、わたしに向かって堂々と手を振っていた。レイラは相変わらずきらびやかに金髪をたなびかせ、ブルーの瞳をキラキラと輝かせて美しかった。薄紅色の花模様のドレスが良く似合っている。周りの殿方がチラチラと彼女を見ていた。
「アレックス、レイラが来てるわ」
「まったく……男と一緒か? ルイと付き合ってるんじゃないのか? ルイが、レイラとは婚約間近だと手紙に書いてきたばかりなのに……もう、浮気かよ! 魔女でもないのに随分と尻軽なんだな?」
「……アレックス、レイラにもきっと事情が……」
「事情だと? どんな事情だ? おやっ? あの男は、レイラの取り巻きだった奴じゃないか? レイラはいつでも、男をはべらかせているからな」
「…………」
ルイと付き合いはじめたばかりなのに、婚約者のいるギャツビーと劇を観に来ているレイラの素行については反論できない。それにしても――レイラとギャツビーは、そんなに深く愛し合う仲だったのだろうか。そんな風には見えなかったけれども。
――カラン、カランッ……!
――ワーッ! パチパチパチパチッ……!
すぐに劇がはじまった。最初から最後までクレオが出てきて歌っていた。非常に美しい歌声で驚いたが、よく見ると口パクだった。幕のうしろで代役のオペラ歌手が歌っているのだろう。クレオはもっと低い男のような声をしていたはずだから。
――ワアアアーッ!
――ブラボーッ!
クレオの美しい容姿に殿方たちは釘付けだ。スレンダーなすらりとした体型は、ファッションモデルのようにかっこよかった。ときどきアレックスと目で合図を送り合っていた。まるで殺人でも企んでいるかのように、2人とも真剣な眼差しをしていた。たしかに彼らは今夜、確実に1人の女を殺した。シェリーメイという、哀れな新妻の心を。
――パチパチパチパチッ……!
――ワアアアアーッ!
夜も更け、クレオの舞台は盛況のうちに幕を閉じた。彼は吹き替えはともかく、演技や踊りは上手だった。身のこなしも相変わらず敏捷で、立ち姿も美しかった。意外と冷静に劇を見終えた自分に驚いていた。アレックスの浮気相手のことを、すっかり見慣れてしまったのかもしれない。
――カッカッカッカッ……!
「シェリー!」
レイラがわたしたちの居る桟敷までやってきた。
「レイラ……あの……」
「こんばんわ、レイラ。ルイはどうした?」
「あら、こんばんは。ミスター・カーライル! 開演前に、今夜の主役の女性の部屋からあなたが出てくるのを偶然見ちゃったわ。どんな間柄かしら?」
アレックスの嫌味に臆することなくレイラも嫌味で応酬した。ギャツビーの姿はどこにも見当たらなかった。
「君の隣に座っていた男と同じようなもんさ! 奴はどうした?」
「ギャツビーのこと? 偶然、隣に居合わせただけよ。わたしは1人で観劇に来たの。それよりシェリー、元気だった? でもないか……やつれたわね。痩せた?」
「レイラ……」
レイラはわたしの両手を握りしめ、大きなブルーの瞳でわたしを覗き込んできた。とたんにわたしは泣きたくなった。大学生だった頃に戻りたい。自由なレイラがとてもうらやましく思えた。
「シェリー、そろそろ帰ろう。レイラ、失礼するよ」
「レイラ、どこに泊まっているの? これからどうやって帰るの?」
「……同郷の知り合いの家よ。そうだ! 明日、お宅に遊びに行ってもいいかしら?」
「うちにかい? それは構わないが……」
「じゃあ、行くわ。シェリー、待っててね? 話したいことがいっぱいあるし! あっ! 迎えの馬車だわ! じゃあ、またあした!」
――バタバタバタバタバタッ……!
「あっ! レイラ!」
レイラはあっという間に劇場の外へ走り出ていってしまった。
「にぎやかな女だな。シェリー、そろそろ帰ろう。レイラにはまた明日、会えるからいいだろ?」
「ええ……」
アレックスに手を引かれ馬車に乗ると家路に就いた。彼はその日以降、馬車の中でわたしを膝に乗せなくなった。それどころか、彼はその日を境にわたしに対してよそよそしくなっていった。




