創造神、死す
「マスター!」
ミカエルの叫び声が、戦場に響き渡った。
和維は、彼女の腕の中で動かなかった。
つい先ほどまで、あれほどの力を振るっていた少年が、今はまるで眠っているかのように目を閉じている。
だが、眠っているわけではなかった。
「マスター……?」
ミカは震える手で、和維の頬に触れた。
返事はない。
胸に耳を当てる。
鼓動が聞こえない。
呼吸も、感じられなかった。
「……嘘」
ミカの唇が震えた。
「そんな……」
彼女はすぐさま治癒魔法を発動させた。
淡い光が和維の身体を包み込む。
通常の傷であれば、どれほど深くとも瞬く間に塞がるはずの光だった。
だが、和維には何の変化も起きなかった。
「どうして……?」
ミカは術式を組み直した。
今度は肉体だけでなく、精神と魂にまで干渉する高位の治癒術式を展開する。
それでも、反応がない。
そもそも、術式が治療すべき対象を見つけられなかった。
「マスター! お願いです、目を開けてください!」
ミカは和維の身体を抱き締めた。
その様子を見て、クルトが駆け寄ってくる。
「旦那!」
和維の顔を覗き込んだクルトは、すぐに表情を変えた。
「……おい、冗談でしょう?」
返事はなかった。
「旦那。もういいですから、起きてくだせぇ」
いつものように、呆れた顔で笑ってくれればよかった。
また何か、とんでもないことをやらかしたのだと、愚痴をこぼせればよかった。
だが、和維は動かなかった。
クルトは膝をつき、和維の首筋に指を当てた。
何度も位置を変える。
それでも、脈は触れなかった。
「……そんな馬鹿な」
つい先ほどまで、地龍人の軍勢をたった一振りで吹き飛ばしていた少年だ。
神を名乗り、常識外れの魔法を使い、何が起きても平然としていた。
そんな男が、こんなにもあっけなく。
「ミカさん。治せないんですか」
「……やっています」
ミカは、和維から目を離さずに答えた。
「ずっと、やっているんです……!」
彼女の背中で、十二枚の翼が震えていた。
治癒魔法の光が、何度も和維の身体を包み込む。
それでも、何も変わらない。
「どうして……どうして、こんな……!」
ミカは、和維の右手を握った。
まだ温かい。
それが、かえって恐ろしかった。
今なら間に合うのではないか。
あと一度、術式を組み直せば。
もう少しだけ、強い力を使えば。
そう考えるたびに、彼女は新たな治癒魔法を展開した。
だが、結果は同じだった。
*
戦場は、異様な静寂に包まれていた。
地龍人たちは、誰一人として動こうとしなかった。
先ほどまで彼らを圧倒していた少年が、突然倒れた。
その傍らでは、十二枚の翼を持つ大天使が、必死に治癒魔法を使い続けている。
何が起きているのか、彼らにも理解できなかった。
ただ、今ここで攻撃を仕掛けることだけは、誰も考えなかった。
クルトはゆっくりと立ち上がった。
そして、和維が最後に触れていた男へ向き直る。
「……おい」
男は、地面に座り込んだまま顔を上げた。
「何をした」
クルトの声は低かった。
男は首を横に振る。
「私は……何も……」
「ふざけるな!」
クルトは男の胸倉を掴み上げた。
見えない右腕に力がこもる。
男の身体が、軽々と持ち上がった。
「旦那に、何をしたって聞いてるんだ!」
「知らない! 本当に、何もしていない!」
男の声は、恐怖に震えていた。
「彼が、私の中から何かを引きずり出したのだ! 私は、何が起きたのかすら……!」
クルトは歯を食いしばった。
嘘をついているようには見えなかった。
少なくとも、この男もまた、和維が倒れた理由を理解していない。
「……くそっ!」
クルトは男を突き放した。
地面に尻餅をついた男が、慌てて後ずさる。
クルトはそれ以上追わなかった。
怒りをぶつけたところで、和維が目を覚ますわけではない。
それくらいは、わかっていた。
だが、何もしないでいることなど、できそうになかった。
*
「……私が」
ミカが、小さく呟いた。
「私が、止めなければ……」
彼女は和維の顔を見つめていた。
男の額へ手を伸ばしたとき。
異質な力を取り込み始めたとき。
和維が、まだ封じられているはずの権限へ手を伸ばした、その瞬間。
ミカは、確かに違和感を覚えていた。
だが、止められなかった。
創造神である和維なら、きっと大丈夫だと。
どこかで、そう思ってしまっていた。
「……マスター」
彼女の頬を、涙が伝った。
「私は、何のために……」
創造神本体から託された役目がある。
和維へ権限を与え、その力を段階的に解放していくこと。
そして、彼を支えること。
そのために、自分はここにいるはずだった。
それなのに。
「……申し訳、ありません……」
ミカは和維の額へ、自分の額をそっと重ねた。
「どうか……どうか、もう一度……」
願いは、届かなかった。
クルトは、少し離れた場所から二人を見つめていた。
声をかけようとして、やめた。
何を言えばいいのか、わからなかった。
自分だって、まだ信じられない。
あの和維が死んだなどと。
まして、つい先ほどまで笑っていた相手が、二度と目を覚まさないかもしれないなどと。
「……旦那」
クルトは、握り締めた刀を見下ろした。
この右腕も、和維から与えられたものだった。
失ったはずの腕を取り戻し、再び刀を握れるようになった。
その恩を、まだ何一つ返していない。
「……勘弁してくださいよ」
声が、かすれた。
*
『……やれやれ』
誰にも聞こえない声が、和維の意識の奥で響いた。
『だから、止めたでしょうに』
だが、返事はない。
『まったく。人の話を最後まで聞かないのは、昔から変わりませんなぁ』
クロスは、和維の内部を流れる膨大な情報を確認していた。
魔神の力は、すでに分解されている。
その情報と能力は、創造神本体へ正常に送られ続けていた。
問題は、そこではない。
和維は、まだ封じられている権限を、本能的に使ってしまったのだ。
使い方を知っている。
使えるはずだと、身体が覚えている。
だが、今の和維に許可されている領域は、そこまで広くない。
その境界を無理に越えた結果、反動が彼自身へ返ってきた。
クロスは、小さくため息をついた。
『……さて。どうしたものですかな』
しばらく、沈黙が続いた。
そして。
和維の身体の傍らに、黒い影が現れた。
道化師の仮面。
奇妙な衣装。
場違いなほど軽薄な雰囲気をまとったその人物は、倒れた和維を見下ろした。
「……クロス様?」
ミカが顔を上げた。
クロスは答えず、和維の額へ手をかざした。
しばらく、そのまま動かない。
やがて、呆れたように肩をすくめた。
「事切れよった、それでも神かよ」
「……っ!」
ミカの表情が歪んだ。
「クロス様! 今は、そのようなことを仰っている場合では……!」
「ええ。まったく、そのとおりですなぁ」
クロスは、いつもの調子で頷いた。
だが、仮面の奥から向けられた視線は、和維の身体を正確に捉えていた。
「さて、ミカエル」
「……はい」
「ここから先は、私の管轄です」
クロスは、和維の額へ指先を当てた。
「少々、厄介なことになっておりますのでね」
その姿が、ゆっくりと薄れていく。
「クロス様!」
ミカが呼び止めた。
「マスターは……マスターは、助かるのですか!?」
クロスは、一瞬だけ動きを止めた。
「……さて。それは、ご本人次第でしょうなぁ」
次の瞬間、クロスの姿は消えた。
和維の精神世界へと、入り込んだのだ。
ミカは、腕の中の和維を抱き締めた。
クルトもまた、その傍らに膝をつく。
二人は、ただ待つことしかできなかった。
和維が、もう一度目を開けることを。




