表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/13

第7話:血の匂いごと、抱きしめて

ガタガタと震える膝を必死に叱咤し、私は執務室の中へと足を踏み入れた。


「……ルル、だめだ」


ディートリヒが、弾かれたように後ずさる。

その紫の瞳は、まるで死刑宣告を待つ罪人のように激しく揺れ、絶望に染まっていた。


「来るな。……私を見るな。私は、お前の美しい目に映っていい存在ではない」


悲痛な声だった。

彼の足元には血の海が広がり、先ほどまで絶叫していた男は、恐怖と痛みのあまり白目を剥いて気絶している。

部屋中に充満する、むせ返るような鉄の匂い。平和な現代日本で生きてきた私にとって、それは胃液が込み上げてきそうになるほどの地獄の光景だ。


(怖い。……すごく、怖い)


足がすくむ。泣き出してしまいたい。

でも、私はここで逃げるわけにはいかないのだ。


私は、プルプルと震える手で持っていた銀のお盆を、近くのサイドテーブルにことりと置いた。

そして、気絶している男を一瞥する。


(横領して、あまつさえ敵国に情報を売ろうとした。前世の会社なら、社長に損害賠償を請求されて社会的に抹殺される案件よ。……ましてやここは、力と魔法が支配する異世界の貴族社会。裏切り者の末路が死だなんて、当たり前のことじゃない)


前世のドライな社会人経験が、私の恐怖を理屈で押さえ込んでいく。

この男が報いを受けるのは当然だ。そして、父はその「嫌な仕事」を、公爵家のトップとして自らの手を汚して行っているに過ぎない。

私のために、この領地のために。


ペチャッ、と。

私が一歩踏み出すと、純白の可愛らしい室内履きが、どす黒い血の海を踏みしめた。


「ルルッ!? やめろ、お前の足が汚れる!!」


血相を変えたディートリヒが叫ぶが、私は止まらない。

純白のドレスの裾に赤い染みが広がっていくのも構わず、私はまっすぐに彼のもとへ歩み寄った。


そして、血で汚れた彼の手を避け、そのまま小さな両腕を伸ばして、彼の細く引き締まった腰にギュッと抱きついた。


「……え」


ディートリヒの息が止まる音がした。


「お父様」


私は、彼の軍服に顔を押し当てたまま、ゆっくりと口を開いた。


「……お仕事、お疲れ様です」


「……は?」

「悪いことをした人を、お仕置きしていたんですよね? 私たちの領地で暮らす人たちを、守るために」


私がそう言うと、ディートリヒは信じられないものを見るように私を見下ろした。

私は顔を上げ、彼のアメジストの瞳をまっすぐに見つめ返す。


「血の匂いは、正直言って少し怖いです。でも……お父様が私を怖い目に遭わせないために、こうして嫌なお仕事をしてくれていること、ルルはちゃんと分かっています」


前世で、私がクレーム処理でボロボロになって帰った日。誰も「お疲れ様」とは言ってくれなかった。

汚れ仕事や、誰かに恨まれるような仕事を背負う人間の孤独を、私は嫌というほど知っている。


「だから、お父様は汚らわしくなんてありません。私を守ってくれる、世界で一番強くて、優しくて、自慢のお父様です」


ディートリヒの瞳から、ポロリと。

大粒の涙が、血塗られた頬を伝って零れ落ちた。


「私を……恐れないのか? こんな、化け物のような私を……っ」

「化け物なんかじゃありません。私の、たった一人のお父様です」


私がもう一度強く抱きしめると、ついにディートリヒは膝から崩れ落ちた。

彼は自分の血塗れの手に気づき、私を抱きしめるのを躊躇っていたが、私が無理やり彼の手を引いて自分の背中に回させると、あきらめたように、すがりつくように私を抱きしめ返した。


「あぁ……ルル……! 私の、ルルーティア……っ!!」


血の匂いに混じって、彼の微かな震えと、泣き声が響く。

その不器用なぬくもりを感じながら、私は父の背中を小さな手でポンポンと優しく叩き続けた。


——この瞬間、ディートリヒ・フォン・オルディスという男の運命は、完全にゲームのシナリオから外れた。

彼が孤独な悪役として破滅する未来は、ここで完全に消滅したのだ。


「……あの、閣下。そろそろこのゴミを片付けてもよろしいでしょうか」


ふと、扉のほうから呆れたような声が聞こえた。

見ると、いつの間にか黒曜騎士団の制服を着た、見知らぬ長身の青年が立っていた。

赤い髪に、鋭い三白眼。豪快な雰囲気を纏う彼は、気絶した裏切り者の襟首を片手で軽々と持ち上げている。


「ギルバートか。……あぁ、さっさと地下の牢に放り込んでおけ。死なせない程度にな」


ディートリヒは私を抱きしめたまま、青年——ギルバートに向かって冷たく言い放った。

先ほどの号泣が嘘のように、声には圧倒的な覇者の威厳が戻っている。


(ギルバート……! 黒曜騎士団の団長ね!)


ゲームの知識と目の前の人物が一致し、私は密かに感動した。

父の右腕であり、帝国最強の剣士。


「はっ。……それにしても、まさかあのお嬢様が、この血の海に自ら足を踏み入れるとは。俺は夢でも見てるんでしょうか」


ギルバートは、驚愕の入り混じった目で私をマジマジと見つめてきた。

無理もない。普通の8歳の令嬢なら、卒倒して三日は寝込む光景だ。


私はディートリヒの腕の中から顔を出し、ギルバートに向かってにっこりと、本日の営業スマイル(最高級)を向けた。


「初めまして、ギルバート団長。お父様と、この家をいつも守ってくださって、ありがとうございます。後で美味しい紅茶を淹れますから、よければお話を聞かせてくださいね」


「……っ!!?」


私の言葉を聞いた瞬間、ギルバートの顔がボンッ! と音を立てるほど真っ赤に染まった。

彼は裏切り者の男をボトリと床に落とし、なぜか直立不動で胸に拳を当てた。


「もっ、勿体なきお言葉!! このギルバート、お嬢様のためならば火の中水の中、たとえ魔界の果てであろうと馳せ参じる所存であります!! 紅茶!! 謹んでいただきます!!」

「おい貴様、私の娘に馴れ馴れしく話しかけるな。殺すぞ」

「お父様、ダメよ。ギルバート団長をいじめないで」


(……うん、この家の人たち、やっぱりチョロいわ)


血の海の中心で繰り広げられるカオスなやり取りに、私は内心で深々とため息をつきながらも、思わず小さく吹き出してしまったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ