第7話:血の匂いごと、抱きしめて
ガタガタと震える膝を必死に叱咤し、私は執務室の中へと足を踏み入れた。
「……ルル、だめだ」
ディートリヒが、弾かれたように後ずさる。
その紫の瞳は、まるで死刑宣告を待つ罪人のように激しく揺れ、絶望に染まっていた。
「来るな。……私を見るな。私は、お前の美しい目に映っていい存在ではない」
悲痛な声だった。
彼の足元には血の海が広がり、先ほどまで絶叫していた男は、恐怖と痛みのあまり白目を剥いて気絶している。
部屋中に充満する、むせ返るような鉄の匂い。平和な現代日本で生きてきた私にとって、それは胃液が込み上げてきそうになるほどの地獄の光景だ。
(怖い。……すごく、怖い)
足がすくむ。泣き出してしまいたい。
でも、私はここで逃げるわけにはいかないのだ。
私は、プルプルと震える手で持っていた銀のお盆を、近くのサイドテーブルにことりと置いた。
そして、気絶している男を一瞥する。
(横領して、あまつさえ敵国に情報を売ろうとした。前世の会社なら、社長に損害賠償を請求されて社会的に抹殺される案件よ。……ましてやここは、力と魔法が支配する異世界の貴族社会。裏切り者の末路が死だなんて、当たり前のことじゃない)
前世のドライな社会人経験が、私の恐怖を理屈で押さえ込んでいく。
この男が報いを受けるのは当然だ。そして、父はその「嫌な仕事」を、公爵家のトップとして自らの手を汚して行っているに過ぎない。
私のために、この領地のために。
ペチャッ、と。
私が一歩踏み出すと、純白の可愛らしい室内履きが、どす黒い血の海を踏みしめた。
「ルルッ!? やめろ、お前の足が汚れる!!」
血相を変えたディートリヒが叫ぶが、私は止まらない。
純白のドレスの裾に赤い染みが広がっていくのも構わず、私はまっすぐに彼のもとへ歩み寄った。
そして、血で汚れた彼の手を避け、そのまま小さな両腕を伸ばして、彼の細く引き締まった腰にギュッと抱きついた。
「……え」
ディートリヒの息が止まる音がした。
「お父様」
私は、彼の軍服に顔を押し当てたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……お仕事、お疲れ様です」
「……は?」
「悪いことをした人を、お仕置きしていたんですよね? 私たちの領地で暮らす人たちを、守るために」
私がそう言うと、ディートリヒは信じられないものを見るように私を見下ろした。
私は顔を上げ、彼のアメジストの瞳をまっすぐに見つめ返す。
「血の匂いは、正直言って少し怖いです。でも……お父様が私を怖い目に遭わせないために、こうして嫌なお仕事をしてくれていること、ルルはちゃんと分かっています」
前世で、私がクレーム処理でボロボロになって帰った日。誰も「お疲れ様」とは言ってくれなかった。
汚れ仕事や、誰かに恨まれるような仕事を背負う人間の孤独を、私は嫌というほど知っている。
「だから、お父様は汚らわしくなんてありません。私を守ってくれる、世界で一番強くて、優しくて、自慢のお父様です」
ディートリヒの瞳から、ポロリと。
大粒の涙が、血塗られた頬を伝って零れ落ちた。
「私を……恐れないのか? こんな、化け物のような私を……っ」
「化け物なんかじゃありません。私の、たった一人のお父様です」
私がもう一度強く抱きしめると、ついにディートリヒは膝から崩れ落ちた。
彼は自分の血塗れの手に気づき、私を抱きしめるのを躊躇っていたが、私が無理やり彼の手を引いて自分の背中に回させると、あきらめたように、すがりつくように私を抱きしめ返した。
「あぁ……ルル……! 私の、ルルーティア……っ!!」
血の匂いに混じって、彼の微かな震えと、泣き声が響く。
その不器用なぬくもりを感じながら、私は父の背中を小さな手でポンポンと優しく叩き続けた。
——この瞬間、ディートリヒ・フォン・オルディスという男の運命は、完全にゲームのシナリオから外れた。
彼が孤独な悪役として破滅する未来は、ここで完全に消滅したのだ。
「……あの、閣下。そろそろこのゴミを片付けてもよろしいでしょうか」
ふと、扉のほうから呆れたような声が聞こえた。
見ると、いつの間にか黒曜騎士団の制服を着た、見知らぬ長身の青年が立っていた。
赤い髪に、鋭い三白眼。豪快な雰囲気を纏う彼は、気絶した裏切り者の襟首を片手で軽々と持ち上げている。
「ギルバートか。……あぁ、さっさと地下の牢に放り込んでおけ。死なせない程度にな」
ディートリヒは私を抱きしめたまま、青年——ギルバートに向かって冷たく言い放った。
先ほどの号泣が嘘のように、声には圧倒的な覇者の威厳が戻っている。
(ギルバート……! 黒曜騎士団の団長ね!)
ゲームの知識と目の前の人物が一致し、私は密かに感動した。
父の右腕であり、帝国最強の剣士。
「はっ。……それにしても、まさかあのお嬢様が、この血の海に自ら足を踏み入れるとは。俺は夢でも見てるんでしょうか」
ギルバートは、驚愕の入り混じった目で私をマジマジと見つめてきた。
無理もない。普通の8歳の令嬢なら、卒倒して三日は寝込む光景だ。
私はディートリヒの腕の中から顔を出し、ギルバートに向かってにっこりと、本日の営業スマイル(最高級)を向けた。
「初めまして、ギルバート団長。お父様と、この家をいつも守ってくださって、ありがとうございます。後で美味しい紅茶を淹れますから、よければお話を聞かせてくださいね」
「……っ!!?」
私の言葉を聞いた瞬間、ギルバートの顔がボンッ! と音を立てるほど真っ赤に染まった。
彼は裏切り者の男をボトリと床に落とし、なぜか直立不動で胸に拳を当てた。
「もっ、勿体なきお言葉!! このギルバート、お嬢様のためならば火の中水の中、たとえ魔界の果てであろうと馳せ参じる所存であります!! 紅茶!! 謹んでいただきます!!」
「おい貴様、私の娘に馴れ馴れしく話しかけるな。殺すぞ」
「お父様、ダメよ。ギルバート団長をいじめないで」
(……うん、この家の人たち、やっぱりチョロいわ)
血の海の中心で繰り広げられるカオスなやり取りに、私は内心で深々とため息をつきながらも、思わず小さく吹き出してしまったのだった。




