第6話:裏切り者と、血塗られた執務室
公爵邸での生活は、思いのほか平穏だった。
あの「宝石の山事件」以降、父ディートリヒの愛情表現は少しだけ(あくまで彼基準で)マイルドになり、その代わり、彼は時間さえあれば私の部屋に入り浸るようになった。
メイド長のマルタをはじめとする使用人たちも、私が少し微笑むだけで拝むような目で見てくるようになり、屋敷中が私を『触れれば壊れる薄氷の天使』として扱っている。
(居心地は悪くないけど……前世で毎日あくせく働いてた身としては、ちょっと暇すぎるのよね)
ある日の午後。
珍しくディートリヒが朝から執務室に籠りきりだったため、私は手持ち無沙汰になっていた。
「マルタ、お父様はずっとお仕事?」
「はい、お嬢様。本日は他領からの使者が来ておりまして、旦那様は重要な協議に入られております」
私が尋ねると、マルタは目を細めて優しく答えた。
「そっか。お父様、疲れてないかな……。マルタ、私、お父様にお茶を淹れて持っていきたいな」
(たまには、娘らしいことをしてポイントを稼いでおこう)という打算も少しあった。
しかし、その提案を聞いたマルタは「あぁっ……!」と胸を押さえて感動に打ち震え、「すぐにご用意いたします! お嬢様の手作り(※茶葉を入れただけ)の紅茶となれば、旦那様の疲労など一瞬で吹き飛ぶことでしょう!」と猛スピードで準備を整えてくれた。
小さな銀のお盆に、ティーカップと焼き菓子を乗せ、私は一人で執務室へと向かった。
重たいお盆を運ぶ私の後ろを、護衛の騎士やメイドたちがハラハラしながら見守っている気配がするが、そこは気づかないフリをしておく。
執務室の前には、厳つい顔をした二人の見張りの騎士が立っていた。
彼らは私を見るとギョッとして止めようとしたが、私が唇に人差し指を当てて「内緒ね」と微笑むと、顔を真っ赤にして道を開けてしまった。チョロい。
(喜んでくれるといいな)
私は、重厚なマホガニーの扉を、音を立てないようにそっと押し開けた。
——その瞬間。
ツン、と。
鼻をつく、強烈な鉄の匂いがした。
「……ひゅっ」
部屋の中の光景を目にした瞬間、私の喉から奇妙な音が漏れた。
広い執務室の床には、どす黒い液体——血が、水たまりのように広がっていた。
その中心で、見知らぬ中年の男が四つん這いになり、ボロボロに引き裂かれた服から血を流しながら、必死に命乞いをしている。
「お、お許しを……! 魔導石の横流しは、決して私の一存では……っ! 宰相閣下からの、指示で……っ!」
「……黙れ」
絶対零度の声。
執務机の前に立つディートリヒは、虫ケラを見下ろすような目で男を見下ろしていた。
私に向けられる甘く優しい眼差しとは違う、文字通り「命を刈り取る死神」の目。
彼の足元からは、黒い影のような魔法陣が展開しており、そこから無数の鋭い氷の刃が男の四肢を貫いていた。
「貴様の背後に誰がいようと関係ない。我が領地の民を食い物にし、あまつさえその金で隣国の武器を買い入れようとした。……それがどういう意味か、まさか理解せずにやったわけではあるまいな?」
「ひぃっ! 閣下、どうか、どうか命だ……ぎゃああぁぁぁッ!!」
ディートリヒが指先をわずかに動かした瞬間、氷の刃が男の腕を無惨に抉った。
耳をつんざくような絶叫が執務室に響き渡る。
「私には時間がないのだ。愛しい娘が私を待っている。貴様のようなゴミの処分に時間を割いている暇はない」
冷酷で、無慈悲で、残酷。
乙女ゲーム『神聖ゼムリアの輝石』において、数々のプレイヤーを恐怖と絶望に陥れた「悪役公爵」の真の姿が、そこにあった。
カチャリ、と。
私の震える手から、ティーカップがお盆の上で小さな音を立てた。
その微かな音に、ディートリヒが反応した。
鬱陶しそうに扉の方へ向けられた彼の視線が、そこに立ち尽くす私を捉える。
「……え」
ディートリヒの顔から、スッと血の気が引いた。
「ル、ルル……?」
手に持っていた氷の魔法が、パラパラと音を立てて崩れ落ちる。
彼は、まるでこの世の終わりのような、絶望に満ちた顔で私を見た。
「ちが、違うんだ、ルル。これは……その、」
言い訳を探すように唇を震わせ、血の海の中に立つ彼は、私に向かって一歩だけ足を踏み出そうとし——そして、ハッとして足を止めた。
自分の手が、服が、そして足元が、おぞましい血に汚れていることに気づいたのだ。
『血塗られた人間のそばにいたいと言ってくれるのか』
数日前に彼が泣きながら言った言葉が、頭をよぎる。
私にこの凄惨な姿を見られた。血の匂いを、人の命を奪う瞬間を、純真無垢な(と彼は思い込んでいる)8歳の娘に見せてしまった。
ディートリヒの紫の瞳は、見捨てられる恐怖で激しく揺れ動いていた。
(……怖い)
私の足は、ガクガクと震えていた。
当たり前だ。前世はただの平和な日本の派遣社員。刃傷沙汰などテレビの中でしか見たことがない。
目の前で人が血を流し、肉を抉られ、絶叫している。そして、その惨劇を引き起こしたのは、私を溺愛してくれている父親だ。
恐怖で叫び出しそうになる本能。
お盆を放り投げて、今すぐこの部屋から逃げ出したいという衝動。
しかし、私が一歩でも後ろに下がれば。
もしここで、私が恐怖のあまり彼を拒絶してしまえば。
ディートリヒ・フォン・オルディスは、間違いなく壊れる。
唯一の希望だった娘に怯えられ、避けられ、彼の中の何かが完全に死に絶え——そして、あの乙女ゲーム通りの、ただ世界を破壊するだけの『孤独な悪役』になってしまう。
(そんなの……絶対に、嫌だ)
恐怖で凍りつく思考を、前世の30年分の意地と、この数日間で彼からもらった温かい愛情の記憶が、無理やり動かした。
私は、ギュッと奥歯を噛み締めた。
そして、逃げ出そうとする足に力を込め、血の匂いが充満する執務室の中へと、あえて一歩、足を踏み出したのだった。




