第5話:初めてのおねだりと、山積みの宝石
「…………お父様。これは、一体なんの嫌がらせでしょうか」
翌朝。朝食をとるために食堂に向かおうとした私は、自室の隣にある広大なサロンの扉を開けた瞬間、その場に立ち尽くした。
部屋の床が見えない。
文字通り、足の踏み場がないのだ。
部屋中を埋め尽くしているのは、陽光を反射して暴力的なまでに煌めく宝石箱の山。
壁際には、最高級の絹や、見たこともないような幻想的な光を放つ布(後で精霊蜘蛛の糸だと知った)で仕立てられたドレスが、数十着もずらりと並んでいる。
さらに部屋の隅には、純金でできた立派な鳥籠のようなものがあり、その中には真っ白な毛並みに額にルビーのような宝石をいただいた小動物——伝説の幻獣カーバンクルの赤ん坊——が、スヤスヤと眠っていた。
(……前世の私の生涯年収が、この部屋に何十回分転がってるの……?)
派遣社員として、スーパーのタイムセールで数十円の割引に命を懸けていた前世の血が騒ぐと同時に、桁違いの資産価値を前にして目眩がした。
税務署が見たら即座に査察に入るレベルの光景である。
「おはよう、私の愛しいルル」
呆然とする私の背後から、上機嫌な声が降ってきた。
振り返ると、美しい顔にこれ以上ないほどのドヤ顔を浮かべた父、ディートリヒが立っていた。
「快気祝いだ。お前が目覚めたら一番に喜ばせようと思って、少しばかり用意させた」
「少し……ばかり……?」
私は震える指で、部屋を埋め尽くす財宝の山を指差した。
「帝都中の宝石商と仕立屋の在庫をすべて買い上げさせた。もし気に入るものがなければ、今すぐ隣国の鉱山を一つ買い取って、新しい石を掘り出させよう」
(経済を!! 狂わせるな!!!)
私は内心で絶叫した。
いくら公爵家が国家予算並みの財力を持っているからといって、一人の幼女の快気祝いに使う額ではない。こんなものをポンポン与えられて育ったら、間違いなく金銭感覚のバグった傲慢な悪役令嬢が爆誕してしまう。
「お父様、お気持ちはすごく嬉しいのですが……私、こんなにたくさんの宝石やドレス、着きれません。それに、幻獣の赤ん坊なんて、私にはお世話できません」
私はなるべく言葉を選びながら、やんわりと受け取りを辞退しようとした。
だが、その瞬間。
「……そうか。気に入らなかったか」
ディートリヒの顔からスッと表情が消え、みるみるうちに絶望の淵に突き落とされたような、悲痛な顔つきに変わってしまった。
世界で一番美しい悪役顔が、雨に濡れた大型犬のようにシュンと落ち込んでいる。
「すまない、ルル。私の準備が足りなかった。こんな安物の石ころや布切れでは、お前の美しさには到底釣り合わないよな。……やはり、私が自ら魔境へ赴き、古代竜の逆鱗でも剥がしてくるべきだった……っ」
「待って! ストップ! なんでそう極端なの!?」
本気で剣を帯びて魔境へ旅立とうとする父の腕を、私は慌てて掴んだ。
(この人、加減ってものを知らないの!?)
どうやらこの不器用な父親は、「娘への愛情表現=物を与えること」だと思い込んでいるらしい。
ここで完全に拒絶してしまえば、彼は娘を喜ばせられなかった自分を責め、さらにとんでもない凶行(古代竜の討伐など)に走りかねない。
派遣社員時代、気難しいクライアントの要望を角を立てずに軌道修正するのは私の得意分野だった。
相手のプライドを傷つけず、かつこちらの要望を通す。交渉の基本だ。
私はディートリヒの大きな手を両手で包み込み、まっすぐに彼のアメジストの瞳を見つめた。
「お父様。宝石もドレスも、とっても綺麗です。でもね、私にとって一番の宝物は、冷たい石ころじゃないんです」
「……ルル?」
「私が一番欲しいのは、お父様と過ごす時間です。お洋服も一つでいいから、その代わり……今日一日、私と一緒にお庭を散歩して、絵本を読んでくれませんか?」
パチリ、と上目遣いで首を傾げる。
完璧な『父親を殺す(萌え的な意味で)』キラーフレーズだった。
ピタ、とディートリヒの動きが止まった。
彼は目を見開いたまま、石像のように固まっている。
(あれ、やりすぎたかしら……?)
少し不安になった数秒後。
「あぁぁぁぁっ……!! ルルーティア……!! 私の、私の愛しい天使……っ!!」
ディートリヒはその場に崩れ落ちるように膝をつき、私を壊れ物でも扱うかのようにそっと、しかし力強く抱きしめた。
彼の目からは、またしても大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちている。
「物など欲しがらず、ただ私との時間を求めてくれるなど……っ。私のような血塗られた人間のそばにいたいと言ってくれるのか……!!」
「苦しっ、お父様、力、強い……っ」
「あぁ、すまない! だが、どうすればいい! この胸から溢れる愛おしさをどう処理すればいいのだ!?」
混乱したように私の頭を撫で回すディートリヒの顔は、喜びと感動でぐしゃぐしゃになっていた。
ひとまず、隣国の鉱山を買われたり、古代竜が乱獲されたりする事態は防げたようだ。私はホッと胸を撫で下ろした。
しかし。
涙を拭ったディートリヒは、ふと立ち上がり、窓の外——帝都の街並みを見下ろして、ひどく真剣な、そして危険な光を宿した目で呟いた。
「……決めたぞ」
「え?」
「この純真無垢な天使が、この先一生、何一つ不自由なく、ただ笑顔だけで生きていける世界を……私がこの手で作らねばならない」
ディートリヒは振り返り、私に向けて、背筋が凍るほど美しく、そして狂気じみた微笑みを向けた。
「待っていてくれ、ルル。お前が望むなら、この世の全てをお前の足元にひざまずかせてやろう」
(いや、望んでない。全然望んでない)
私は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
物欲を否定した結果、どうやら父の「世界征服へのモチベーション」という、一番刺激してはいけないスイッチをうっかり押してしまったらしい。
この暴走機関車のような父親の手綱を握れるのは、本当に私しかいないのだと、私はこの山積みの宝石の前で深く、深く覚悟を決めたのだった。




