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第4話:皇帝より重い「娘の命」

メイド長マルタの心を掌握(本人は無自覚)してから数日後。

すっかり体調も良くなった私は、自室の豪奢なソファに座り、窓から差し込む陽光を浴びながら絵本を眺めていた。


向かいの席には、なぜか今日も仕事に行かずに私の部屋でお茶を飲んでいる、帝国最強にして最凶の権力者——父、ディートリヒの姿がある。


(……この人、本当に仕事しなくて大丈夫なのかしら。領地、滅びない?)


書類の山に追われて胃を痛めていた前世の記憶を持つ私としては、トップが平日の昼間から娘の部屋で優雅に紅茶を飲んでいる状況に、ハラハラしてしまう。

けれど、当の本人は私の顔をうっとりと眺めながら、「今日も私のルルは世界一可愛いな……」と呟くばかりで、全く執務室に戻る気配がない。


その時だった。

喉の奥にほんの少しだけ埃が引っかかり、私は無意識に小さく咳き込んだ。


「こほっ」


ほんの小さな、それこそ小鳥の囀り程度の咳だった。

しかし、その音が響いた瞬間。


ガシャンッ!! と、ディートリヒの手から高級なティーカップが滑り落ち、粉々に砕け散った。


「ルル……ッ!!」


彼は弾かれたように立ち上がり、血の気を引かせた顔で私のそばに膝をついた。


「どうした!? 喉が痛むのか!? まさか、またあの忌まわしい熱がぶり返したのでは……っ! おい、誰かある!!」

「えっ、お、お父様? 違うの、今のはただ埃が……」

「今すぐ帝都にいる最高位の医師と治癒魔法使いを全員、この屋敷に連行しろ!! 逆らう者は物理的に黙らせて引っ張ってこい!!」


私の弁明など耳に入っていない様子で、ディートリヒは駆けつけた護衛騎士たちに恐ろしい命令を下した。


(いやいやいや! 『連行』って言った!? しかも『物理的に黙らせて』って!!)


数十分後。

私の部屋には、帝都の歴史ある大病院の院長や、皇族専属の治癒魔法使いなど、見るからに身分が高そうなお爺ちゃんたちがズラリと横一列に並ばされていた。全員、顔面蒼白でガクガクと震えている。

無理もない。彼らは突然、黒曜騎士団の屈強な騎士たちによって、職場から文字通り「首根っこを掴まれて」拉致されてきたのだ。


そして、彼らを前にしたディートリヒは——先ほどまでの親バカな父親の顔を完全に消し去り、乙女ゲームで見た『冷酷無比な悪役公爵』の顔をしていた。


「……それで? 娘の喉の具合はどうなのだ」


絶対零度の声。部屋の温度が急激に下がったかのように錯覚するほどの、濃密な殺気。

医師の一人が、震える声で答える。


「こ、公爵閣下……。お嬢様の御身には、全く異常はみられません。先ほどの咳は、おそらく空気が乾燥していたことによる、生理的な……」

「異常がないだと?」


ピシャリと、空気を叩き割るようなディートリヒの低い声が響いた。


「異常がないのなら、なぜ私の娘は咳き込んだ。貴様らのその無能な目は、ただの飾りか?」

「ひっ……!」

「我がオルディス家の財力をもってすれば、貴様らのような輩を『消す』ことなど造作もない。この程度の咳一つ止められぬのなら、貴様らの首が胴体と繋がっている意味はないな?」


(うわぁぁぁ! 本物の悪役だぁぁぁ!!)


ベッドの上で大人しく診察を受けていた私は、内心で頭を抱えた。

理不尽極まりない。ただ咳払いをしただけで、帝国の医療トップたちの首が物理的に飛びそうになっている。このままでは、父はただの大量殺人鬼になってしまう。


前世の私なら、理不尽なクレームをふっかける顧客に対しては、ひたすら平謝りして嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。

だが、今の私には『最強の武器』がある。


私はベッドから降りると、ペタペタと裸足で歩き、ディートリヒの漆黒の軍服の裾を、小さな手でキュッと引っ張った。


「……お父様」


殺気を撒き散らしていたディートリヒが、ビクッと肩を揺らして私を見下ろす。

私は、上目遣いで彼を見つめ、わざと少しだけ涙ぐんで見せた。


「お父様、怒ったお顔は……怖いです」

「え……」

「先生たちは悪くないの。私が、お茶を飲むのが下手っぴだったから、むせちゃっただけ……だから、私のために怖い顔にならないで……?」


ふるふると肩を震わせて懇願する。

あざとい。自分でも引くほどあざとい。30過ぎの中身がやることではない。

だが、効果は絶大だった。


「こ、怖い……? 私が、ルルを怖がらせた……?」


ディートリヒの顔からスッと殺気が抜け落ち、代わりに絶望的なまでの焦燥感が浮かんだ。


「ち、違うのだルル! 私は決して、お前を怒っているわけではなく……っ! すまない、私が悪かった! 怖い思いをさせてすまなかった……!!」


彼は慌ててしゃがみ込むと、私をきつく抱きしめ、何度も頭を撫で始めた。

先ほどの絶対零度の悪役はどこへやら、完全に「娘に嫌われたと勘違いしてパニックになる哀れな父親」である。


「もう怒らない?」

「あぁ、怒らない! 誰も殺さない! だから私を嫌いにならないでくれ……っ!」


(……よし、チョロい)


私は父の背中に回した手でポンポンと彼を慰めながら、背後に並ぶ医師たちに向かって「もう大丈夫ですよ」と密かにウインクをして見せた。


死の淵から生還した医師たちは、涙と鼻水を流しながら、私に向かって深く、深く拝跪した。

彼らの目に、私が「暴虐の公爵を唯一鎮めることができる、神が遣わした聖女」として映っていたことは言うまでもない。


こうして私は、父の凶行を未然に防ぐことに成功した。

だが同時に、私は一つの重い事実を悟ってしまった。


(この人、私が「あれを殺して」って言ったら、本当に皇帝相手でも殺しに行きかねないわ……)


帝国最強の狂犬のリードは、確実に、この8歳の小さな手に握られている。

私はその責任の重さに、密かに大きなため息をついたのだった。

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