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第3話:規格外の公爵家と、メイド長マルタ

あの嵐のような号泣事件から数日。

熱が完全に下がり、医師から「もう起き上がっても問題ない」とのお墨付きをもらった私は、ついに自室のベッドから解放された。


「……それにしても、広すぎるわね」


案内された屋敷の廊下を歩きながら、私は内心で深いため息をついた。


オルディス公爵家。神聖ゼムリア帝国において、皇族に次ぐ権力と『国家予算に匹敵する』と噂される莫大な財力を持つ筆頭貴族。

ゲームの知識として設定は知っていたが、現実に見るそれは、前世で築30年・家賃五万円のワンルームに住んでいた私のキャパシティを軽く超えていた。


廊下に敷かれている絨毯は、どう見ても職人が何年もかけて手織りした最高級品だ。歩くたびに足裏がふかふかと沈み込み、足音一つ鳴らない。

壁には美術館の特等席に飾られるレベルの絵画が等間隔で並び、天井からは昼間だというのに魔石の光を乱反射させる巨大なシャンデリアがぶら下がっている。


(この壺一つ売れば、前世の私の生涯年収を軽く超えるんじゃないかしら……)


廊下の隅に飾られた見事な装飾の壺を横目で睨みながら、私は無意識に派遣社員時代の給与明細を思い出して遠い目になった。

こんな規格外の金持ちの家に生まれてしまったのだ。油断すれば、金銭感覚が狂って嫌味な貴族令嬢になってしまう。気を引き締めなければ。


「お嬢様、お体の具合はよろしいのですか?」


ふと、背後から凛とした厳しい声がかけられた。


振り返ると、そこにはビシッとアイロンのかかった漆黒のメイド服に身を包んだ、四十代半ばほどの女性が立っていた。

隙のない姿勢、鋭い眼光、そして一切の感情を排したような冷ややかな表情。


(出た。公爵邸の裏の支配者、メイド長のマルタさんだわ)


ゲーム内で何度か立ち絵を見たことがある。ディートリヒお父様からの信頼も厚く、この広大な公爵邸の全使用人を統括する実力者だ。厳格な性格で、職務に忠実。甘えやワガママを一切許さない鉄の女として描かれていた。


おそらく、熱を出して寝込んでいた私が、病み上がりでワガママを言って屋敷を歩き回っていると思われたのだろう。彼女の目には「無理をされると困ります」という微かな非難の色が混じっていた。


ここで生意気な態度をとれば、彼女の好感度は一気に下がる。

前世の派遣社員時代、職場の「お局様」に嫌われることがどれほど致命的か、私は骨の髄まで理解していた。権力者より、実務を取り仕切る現場のトップを味方につける。それが生き残りの鉄則だ。


私は立ち止まり、彼女に向かってふわりと、最大限の愛想の良い笑みを浮かべた。


「マルタ。心配をかけてごめんなさいね。もうすっかり良くなったわ」


「……は?」


マルタの目が、わずかに見開かれる。


「私が寝込んでいる間、氷を取り替えたり、汗を拭いたりしてくれたのは、マルタが指示を出してくれたメイドたちでしょう? 皆さん、夜も寝ずに看病してくれて……本当にありがとう。あなたたちの細やかな気遣いのおかげで、こうして歩けるようになったわ」


私は両手を胸の前で合わせ、子供らしく、けれど心からの感謝を込めて頭を下げた。


派遣社員時代、私は常に「誰が裏で動いてくれているか」を観察する癖がついていた。公爵邸のシステムは分からないが、あの高熱の数日間、常に快適な室温が保たれ、着替えが用意されていたのは、間違いなく彼女たち使用人の完璧な仕事のおかげだ。

その労働に対して、トップである彼女に直接感謝を伝える。これはビジネスの基本中の基本である。


「お、お嬢、様……?」


マルタの冷ややかだった表情が、みるみるうちに崩れていく。

彼女は動揺したように目を瞬き、信じられないものを見るような目で私を見つめた。


無理もない。本来、貴族の令嬢にとって、使用人が働くのは「当たり前」のことであり、わざわざ感謝を伝える対象ではないからだ。ましてや、冷酷無比な悪役公爵の娘が、使用人の労をねぎらうなど、天地がひっくり返ってもあり得ない事態なのだろう。


「あ、あの、そのような……勿体なきお言葉。我々はただ、お仕えする身として当然の務めを果たしたまでで……」


鉄のメイド長が、明らかに狼狽しながらしどろもどろになっている。


「ううん、当然なんかじゃないわ。誰かのために働くって、すごく大変で尊いことだもの」


(残業代も出ないのに、深夜まで資料作りをさせられたあの夜を思えば……ね!)


前世の恨みつらみを密かに乗せた私の言葉は、思いのほかマルタの胸に深く刺さったらしい。


「お嬢様……っ」


マルタはふらりと片膝をつき、私と視線を合わせた。

その目には、いつの間にかうっすらと涙が浮かんでいる。


「なんて、なんてお優しく、聡明でいらっしゃるのでしょう……! あの小さな体で高熱と闘い、ご自身が一番お辛かったはずなのに、我々下働きの者の苦労まで慮ってくださるなんて……!!」


(えっ、ちょっと待って、そこまで感動する!?)


私の予想を遥かに超えるリアクションに、思わず後ずさりしそうになる。


「あぁ……神よ。我らが公爵家には、天使が舞い降りたのですね。このマルタ、今日より後はお嬢様のためだけにこの身を捧げ、粉骨砕身お仕えする覚悟でございます!!」

「マ、マルタ……? 泣かないで、お洋服が汚れちゃうわ」

「お気遣い無用でございます! あぁ、尊い……っ! ささ、お嬢様、廊下は冷えますゆえ、温かいお茶と、厨房に特注させた甘い焼き菓子をお持ちいたします! 何か他に食べたいものはございませんか!? 帝都中の菓子職人を集めましょうか!?」


さっきまでの「鉄の女」はどこへやら。

マルタは完全に人が変わったように鼻息を荒くし、私を過保護に扱い始めた。


(……なんか、お父様といいマルタさんといい、この家の人たち、愛情の振り幅が極端すぎない?)


私は内心で冷や汗をかきながら、「普通の焼き菓子で十分よ、ありがとう」と苦笑いを浮かべるしかなかった。


こうして、公爵邸の裏の支配者である厳格なメイド長は、たった一度の会話でいともたやすく陥落した。

彼女がこの日を境に、裏で全使用人に向けて『ルルーティアお嬢様・絶対遵守と徹底溺愛のルール』を敷くことになるのは、もう少し先の話である。

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