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第2話:氷の公爵と、予想外のぬくもり

蹴り開けられた扉の前に立つその男は、息を呑むほど美しく、そして恐ろしかった。


ディートリヒ・フォン・オルディス。

ゲームの中で幾度となく見た、私の「最推し」であり、この世界を恐怖に陥れる冷酷無比な悪役公爵。

彼が纏う空気は、文字通り氷のように冷たく、鋭い殺気すら孕んでいるように見えた。


(怒られる……!)


私は無意識に身をすくませた。

無理もない。本来であれば、領地経営や帝国の暗闘で秒単位のスケジュールをこなしているはずの彼が、こんな昼間に屋敷にいること自体が異常なのだ。

きっと、病弱な娘が騒ぎを起こして執務の邪魔をしたと、叱責しに来たに違いない。前世のブラック企業の上司がミスを責め立てる時の顔がフラッシュバックし、私はギュッと目を閉じた。


「……ルル」


掠れた、震える声だった。


次の瞬間、ドンッという鈍い音が響いた。

恐る恐る薄目を開けると、私の目の前で、あの誇り高く冷酷な公爵が、床の絨毯に両膝をついていたのだ。最高級の生地で仕立てられたズボンが汚れることなど、微塵も気にしていない様子だった。


「お、お父様……?」


戸惑う私の小さな体を、大きな腕が包み込んだ。

痛いほど強い、けれど絶対に私を壊さないように計算された、不器用で切実な抱擁だった。


「あぁ……ルル。私のルル。生きている……温かい……」


私の肩口に顔を埋めたディートリヒの体は、小刻みに震えていた。

彼の銀糸の刺繍が入った漆黒の軍服から、微かに外の冷たい風の匂いと、馬を全力で駆けさせてきたであろう汗の匂いがする。


(え……?)


何が起きているのか理解できず、私は瞬きを繰り返した。

あの、他人が血を流して命乞いをしても鼻で笑う冷血漢のディートリヒが。

ヒロインの言葉すら「耳障りだ」と一蹴した氷の公爵が。


今、私の小さな肩にすがりついて、声を殺して泣いているのだ。


「お前まで私を置いていくのかと……っ、あの女のように、私を残して消えてしまうのかと、恐ろしかった……!」


あの女、というのはおそらく私を産んで亡くなった(あるいは姿を消した)母親のことだろう。

彼の言葉には、圧倒的な権力者とは思えないほどの、生々しい恐怖と絶望が滲んでいた。


(……あぁ、そうか)


抱きしめられながら、私はぼんやりと悟った。

ゲームの裏設定にあった『娘が死んで完全に心を閉ざした』という一文。

あれは、単なる悪役を形作るための記号なんかじゃなかったのだ。


ディートリヒにとって、娘である「私」は、この広大で冷たい世界に残された、たった一つの希望だったのだ。

私が死の淵を彷徨っていた数日間、彼はどれほどの絶望の中でこの小さな手を握っていたのだろうか。


前世の記憶がふと蘇る。

両親の顔を知らない私は、施設で育った。熱を出して寝込んでも、職員は業務として薬を置いていくだけで、誰も私の手を握って泣いてなどくれなかった。

大人になってからも同じだ。私が倒れても、派遣先の会社は「代わりはいくらでもいる」と冷たく言い放つだけ。


私という存在がこの世から消えても、誰の心にも穴は空かない。それが当たり前だと思って生きてきた。


それなのに。

今、この世界で一番恐ろしくて美しい男が、私が生きているというただそれだけのことで、子供のように涙を流して喜んでいる。

私という存在が失われることを、世界が終わるのと同じくらい恐れてくれている。


その事実が、カチカチに凍っていた私の前世の心を、急速に溶かしていった。


「……ごめんなさい、お父様」


気がつけば、私は無意識に小さな手を伸ばし、彼の広い背中に回していた。


「心配、かけました……私、もう大丈夫です。どこにも、行きませんから」


子供の舌足らずな声だったが、その言葉を聞いたディートリヒは弾かれたように顔を上げた。

美貌を涙で濡らし、アメジストの瞳を見開いている。


「本当か? 本当に、私を置いていかないか?」

「はい。ずぅっと、お父様のそばにいます」


私が微笑んで見せると、ディートリヒは今度こそ声を出して泣き崩れ、再び私を強く抱きしめた。

その腕の力強さとぬくもりに、私は前世で一度も感じたことのない「安心感」を覚えていた。


(……悪役公爵だろうが、なんだろうが関係ないわ)


私は心の中で密かに決意する。

この人は、私を愛してくれている。私のために泣いてくれる、私のたった一人のお父様だ。

ならば、私がこの人を守る。

ゲームの強制力だろうが、運命のシナリオだろうが、知ったことではない。30代派遣社員の根性を舐めないでほしい。


この不器用で優しすぎる「悪役」が破滅する未来なんて、私が絶対に叩き潰してやる。


「旦那様!! 医者をお連れしまし……っ!?」


そこへ、息を切らした初老の執事と、蒼白な顔をした医師たちが部屋に駆け込んできた。

しかし、彼らはベッドの横で娘を抱きしめて涙を流す公爵の姿を見て、全員が石像のように固まった。


「あ……えっと……」


静まり返る部屋の中。

私はディートリヒの腕の中から顔を出し、気まずそうに固まる大人たちに向けて、とりあえず愛想よく微笑んでおくことにした。

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