第1話:高熱の果ての記憶と、生存への絶望
熱い。体が内側から焼かれているように熱い。
息をするたびに喉の奥がヒューヒューと鳴り、肺に流れ込む空気すらもが熱を帯びて喉を焼くようだった。鉛のように重い瞼を開けようとしても、ピクッと痙攣するだけで視界は真っ暗なまま。
(……あぁ、私、死ぬのかな)
朦朧とする意識の中で、ひどく現実的で、冷めた自分がそう呟いた。
同時に、熱病のせいか、頭の中に走馬灯のような映像が次々と流れ込んでくる。
満員電車に揺られながら見つめる、流れるネオンサイン。
理不尽なクレームに頭を下げ続ける、すり減るような毎日。
契約更新のたびに胃を痛める、30代派遣社員としての綱渡りの生活。
そして、狭くて薄暗いワンルームの部屋で、唯一の救いだったゲームの画面。
『神聖ゼムリアの輝石』——私が文字通り、寝食を忘れてやり込んだ乙女ゲームだ。
攻略対象のキラキラした王子様たちには目もくれず、私が狂ったように推していたのは、物語に立ち塞がる冷酷無比な悪役、オルディス公爵だった。
圧倒的なカリスマ性と、孤独を抱えた氷のような眼差し。彼が破滅するルートを見るのが辛くて、彼を救うための二次創作の小説を漁るほどにのめり込んでいた。
(……あれ? なんで私、そんなこと思い出してるんだろう)
私の名前は、たしか……。
いや、違う。違う!
「……っ、ぁ……」
乾ききった唇から、ひび割れたような声が漏れる。
唐突に、二つの記憶が頭の中で激しく衝突した。
30代のしがない派遣社員だった『私』の記憶と、この熱にうなされている幼い少女としての『私』の記憶。
膨大な情報量が小さな脳を駆け巡り、耐えきれないほどの頭痛が襲う。
「ハァッ、ハァ……ッ!」
パチリ、と。
まるで何かのスイッチが入ったかのように、不意に瞼が開いた。
ぼやけた視界が徐々に焦点を結んでいく。
まず目に飛び込んできたのは、見慣れたアパートの黄ばんだ天井ではない。幾重にも精緻な刺繍が施された、天蓋付きの豪奢なベッドの天井だった。
「ここは……」
体を起こそうとして、自分の腕を見て息を呑む。
細い。折れてしまいそうなほど細く、小さな子供の腕だ。
そして、絹のように滑らかで、病的なほどに真っ白な肌。
動悸が激しくなる胸を押さえながら、私はふらつく足でベッドから滑り降りた。
床に敷き詰められた絨毯は、素足が沈み込むほどに分厚く柔らかい。部屋を見渡せば、アンティーク調の重厚な家具が並び、壁には見たこともないほど美しい風景画が飾られている。
部屋の隅にある、等身大の豪奢な鏡。
私は無意識のうちに、そこに吸い寄せられていた。
鏡の中に立っていたのは、見知らぬ、けれどどこかで見たことのある少女だった。
艶やかな夜の闇を溶かしたような、漆黒の髪。
熱のせいで少し赤いものの、雪のように真っ白な肌。
そして、意志の強さを感じさせる、深いアメジストのような紫色の瞳。
まだ幼い輪郭の中にも、将来間違いなく傾国と呼ばれるであろう凄絶な美貌の片鱗が宿っている。
(この顔……知ってる。絶対に知ってる)
派遣社員としての私が持っていた、乙女ゲーム『神聖ゼムリアの輝石』の知識が、パズルのピースのようにカチリと音を立てて組み合わさっていく。
漆黒の髪に、紫の瞳。
それは、作中で最も人気があった悪役、ディートリヒ・フォン・オルディス公爵の象徴的な容姿だ。
「私……ルルーティア……?」
震える声で、今の自分が持つ名前を口にする。
ルルーティア・フォン・オルディス。
その瞬間、背筋にぞくりと氷を押し当てられたような悪寒が走った。
熱病のせいではない。純粋な『恐怖』による悪寒だ。
「嘘、でしょ……」
『神聖ゼムリアの輝石』の物語は、ヒロインが15歳で帝立学園に入学するところから始まる。
その時点で、悪役であるオルディス公爵は独身であり、冷酷無比な氷の貴公子として君臨していた。彼には、愛する家族など一人もいなかったはずだ。
だが、ゲームの設定資料集の片隅に、ほんの数行だけ書かれていた裏設定があった。
『ディートリヒ・フォン・オルディスは、かつて19歳の時に密かに身分違いの恋人を持ち、娘をもうけていた。しかし、娘が8歳の時に流行り病で命を落とし、それが原因で彼は完全に心を閉ざし、冷酷な怪物へと変貌した——』
鏡の中の少女を見る。
この体は、今、ちょうど8歳だ。
そして、先ほどまで生死の境を彷徨うほどの、原因不明の高熱を出していた。
「私、さっきまで……死にかけてたの?」
ストン、と膝から崩れ落ちた。
全身の震えが止まらない。
私が転生したのは、悪役公爵の娘。
本来のゲームの歴史通りなら、ここで流行り病に負けて『死ぬはずだった』キャラクター。
もし、あの高熱の中で前世の記憶を思い出さず、派遣社員だった大人の精神力で熱に抗おうとしなければ、私は間違いなくあのまま息絶えていただろう。
(……冗談じゃないわよ)
絨毯をギュッと握りしめ、ギリッと奥歯を噛み締める。
前世の私は、親の顔も知らずに施設で育ち、社会に出てからも誰にも頼れず、ただ生きるためだけに身を粉にして働いてきた。
病気になった時も、誰かが看病してくれることなんてなかった。一人でスポーツドリンクを飲み込んで、這うようにして職場に向かっていたのだ。
そんな苦労ばかりの人生を終えて、せっかくこんなに美しい公爵家の令嬢に生まれ変わったというのに。
また誰にも看取られず、物語の『都合のいい悲しい過去』として消費されて死ぬなんて、絶対に御免だ。
「生きる……絶対に、生き残ってやる……!」
ルルーティアは、鏡の中の自分を強く睨みつけた。
まだ熱は完全に下がっていない。体は鉛のように重く、喉はカラカラだ。まずは水分を取って、大人を呼んで薬をもらわなければ。
手すりにつかまりながら立ち上がろうとした、その時。
——バァンッ!!
部屋の重厚なオーク材の扉が、蝶番が吹き飛ぶほどの勢いで蹴り開けられた。
「ルル……ッ!!」
怒号のような、悲鳴のような、切羽詰まった低い声。
ビクッと肩を揺らして振り返った私の視界に飛び込んできたのは、血相を変えた一人の青年の姿だった。
夜空を切り取ったような漆黒の髪。
鋭く美しい氷輪のような、アメジストの瞳。
長身に纏う黒を基調とした軍服のような貴族服は少し着崩れており、彼がどれほど急いでここまで走ってきたのかを物語っていた。
乙女ゲーム『神聖ゼムリアの輝石』における最強にして最凶の悪役。
そして、この世界における私のたった一人の父親。
ディートリヒ・フォン・オルディス、その人だった。




