第28話:夜会の終わりと、悪役公爵の『裏の顔』
「……うーん」
馬車の心地よい揺れと、サスペンションにかけられた完璧な衝撃吸収魔法のおかげで、私は完全に夢の中へと引きずり込まれようとしていた。
大成功のうちに終わった建国記念夜会。
宰相派の夫人たちの嫌味を笑顔で躱し、腹黒皇子の探りを流し、最後は皇帝の御前で宰相を完全論破。
結果として、オルディス公爵家(と私)の名声は、社交界の頂点へと上り詰めた。
(はぁ……疲れた。やっぱり、何千人もいる大規模なレセプションパーティーは、気疲れするわね……)
元・三十代派遣社員の精神力をもってしても、10歳の子供の体には限界がある。
私は、お父様の太ももに頭を預け、ふかふかのマントにくるまりながら、コクリ、コクリと舟を漕いでいた。
「ルル、よく頑張ったな」
ディートリヒの大きな手が、私の頭を優しく撫でる。
その心地よいリズムと、彼から香る冷たくて落ち着く香りに安心しきって、私はついに意識を手放した。
……スゥ、スゥ。
私の規則正しい寝息が馬車の中に響き始めたのを確認して。
ディートリヒ・フォン・オルディスは、顔に浮かべていた「甘い父親」の表情を、音もなく拭い去った。
「……ギルバート」
「はっ」
馬車の向かいの席で、静かに控えていた黒曜騎士団長ギルバートが、居住まいを正す。
隣に座るノアも、私の寝顔を見つめていた赤い瞳を、スッと鋭く細めた。
ディートリヒの紫の瞳には、氷河の底のような絶対零度の殺気が渦巻いていた。
それは、娘の前では決して見せない——帝国中が恐れる『氷の悪役公爵』としての、真の顔だった。
「私の天使に、小バエどもが不快な羽音を響かせたようだな」
ディートリヒの声は低く、そして恐ろしいほど静かだった。
「玉座の間へ向かう前、私は言ったはずだ。『ルルに近づく羽虫は、物理的に排除して構わん』と。……なぜ、あの雌豚どもがルルに近づくのを許した? まさか、貴様らもルルと同じように『大人の嫌がらせ』などと甘く考えていたわけではあるまいな」
ギルバートは、額に冷汗を滲ませながら頭を下げた。
「申し訳ありません、閣下。俺とノアが動こうとした直前、お嬢様が背中で『待て』と合図を送られたのです。……お嬢様は、ご自身の手で、見事にあの夫人たちを追い払われました」
「ルルーティア様は、自分の手で片付けるって決めた。オレは、ルルーティア様の命令にだけ従う」
ノアも、ディートリヒを睨み返しながら答えた。
「……あぁ、そうだろうな」
ディートリヒは、自分の膝の上で無防備に眠るルルーティアの頬を、壊れ物に触れるような手つきでそっと撫でた。
「ルルは賢い。聡明で、誇り高く、そして優しい。自分が力を使わずとも、言葉だけであの愚か者どもを完封できると知っていた。……だからこそ、私が直接手を下せば、ルルが悲しむと思って、手出しを禁じたのだろう」
ディートリヒは、玉座の間へ向かう途中、公爵家の情報部隊からの「念話」を通じて、ルルーティアが宰相派の夫人たちに囲まれたことを正確に把握していた。
今すぐ引き返して、夫人たちの首を刎ねてやりたい衝動に駆られた。
しかし、彼が戻った時、ルルーティアは傷つくどころか、完璧な微笑みで敵を打ち砕いていたのだ。
「だが」
ディートリヒの指先が、小さく震えた。
「私のルルがどれほど完璧に振る舞おうと。あのような薄汚れた言葉を浴びせられ、不快な思いをさせられた事実に変わりはない。……私の、傷一つない純白の宝石に、泥を投げつけたのだ」
馬車の中の温度が、急激に下がり始める。
窓ガラスがピキピキと音を立てて凍りつき、外の景色が白く染まっていく。
「ルルは許したかもしれない。だが、私が許すと思うか?」
「……閣下。ご指示を」
ギルバートが、静かに剣の柄を握った。
「あの会場にいた、宰相派の夫人たち全員のリストは既に出ているな?」
「はっ。ルルーティア様に声をかけた三名を含め、遠巻きに嘲笑していた者たちも、すべて特定済みです」
ディートリヒは、冷酷な笑みを深く刻んだ。
「ギルバート。ノア。……『シオン』を呼べ」
その名を聞いて、ギルバートがわずかに目を見開いた。
「シオンを……情報部隊を、本格的に動かすのですね」
「当然だ。物理的に首を刎ねるなど、ルルが悲しむ野蛮な真似はせん。……『社会的』に、完全に抹殺しろ」
ディートリヒの口から、冷たい死の宣告が下される。
「裏帳簿、愛人のスキャンダル、密輸の証拠、領地での不正。あいつらの実家が抱えている汚泥をすべてかき集めろ。そして、明日の朝一番で、帝都中の新聞社と皇室監査局の机の上にばら撒け。一族郎党、路頭に迷うまで徹底的にだ」
「御意」
ディートリヒは、眠るルルーティアの耳を塞ぐように、両手で優しく彼女の頭を包み込んだ。
「私のルルは、太陽の光が当たる美しい世界だけを歩いていればいい。……その足元に転がる死体の山は、私がこの手で築き上げてやる」
それは、最強の悪役公爵による、異常なまでの溺愛と、容赦なき報復の始まりだった。
娘が笑顔で勝ち取った「表の勝利」の裏で、父親による「裏の粛清」が、今、静かに幕を開けようとしていた。
翌朝、帝都の貴族社会を恐怖のどん底に陥れる『嵐』が吹き荒れることなど知る由もなく。
私は、お父様の膝の上で、「ふふ……定時退社……最高……」と、寝言を呟きながら幸せな夢を見続けていたのだった。




