第17話:氷の公爵のデレと、少年の涙
「ル、ルルーティア……ッ!! お前という子は、なんという無茶を……っ!!」
私の体を骨が軋むほどの力で抱きしめるディートリヒの声は、かつてないほどに震え、そして掠れていた。
「お父様、苦しいです……」
「もし私があのまま魔法を放っていたら! もしあのガキの魔力が暴走したままだったら! あぁ……想像しただけで心臓が止まりそうだ……っ!」
彼は私を抱きしめたまま、その場にへたり込んでしまった。
冷酷無比、帝国最強の悪役公爵が、薄汚れた路地裏の地面に膝をつき、ただの父親としてボロボロと涙を流している。
その様子を見て、私は自分の軽率さを深く反省した。
(ごめんなさい、お父様。でも、どうしても見過ごせなかったの)
私は、父の背中に腕を回し、トントンと優しく叩いた。
「もう大丈夫です、お父様。私が我儘を言って飛び出したから……ごめんなさい。でも、ほら。私も、この子も無事ですよ」
私が背後を振り返ると、魔力の暴走が収まり、力尽きて地面にへたり込んでいる銀髪の少年がいた。
その瞬間。
ディートリヒの紫の瞳から、父親の涙がスッと消え失せた。
「……あぁ、そうだな。ルルが無事でよかった」
ディートリヒはゆっくりと立ち上がり、私を自分の背後に隠した。
そして、路地裏の奥——腰を抜かして震えている大人のゴロツキたちと、地面に倒れる少年に向かって、絶対零度の殺気を放った。
「私の天使を危険に晒したゴミ共。一瞬で塵にしてやろう」
「ヒィィィッ!? 違う、俺たちはただこのガキが……!」
「黙れ。貴様らが呼吸で空気を汚すことすら、万死に値する」
ディートリヒが指を鳴らす。
瞬間、ゴロツキたちの足元から巨大な氷の牙が突き出し、彼らの悲鳴ごと、その存在を完全に氷塊の中へと封じ込めてしまった。
(相変わらず、敵に対する容赦の無さがカンストしてるわね……)
そして、ディートリヒの冷酷な刃のような視線は、最後に銀髪の少年へと向けられた。
「さて。次はお前だ、薄汚れたネズミ。ルルに触れ、あまつさえそのドレスの裾を少しでも削り取った罪。万死では足りんな」
「お父様、待って!!」
再び氷の魔法を構えようとする父の前に、私は両手を広げて立ち塞がった。
「この子を殺さないで!」
「ルル、どきなさい。このガキは危険すぎる。またいつ魔力が暴走して、お前を傷つけるか分からないんだぞ」
「しません! この子は、力の使い方が分からなくて怖がっていただけです。ちゃんと教えてあげれば、絶対に暴走なんてしません!」
私は必死に訴えた。
しかし、ディートリヒは「どこの馬の骨とも知れぬ薄汚れたガキが、私の天使に近づくなど許せん!」と、父親特有の強烈な嫉妬と過保護を爆発させて首を縦に振らない。
(こうなったら、最終奥義を使うしかないわね……!)
私は、ふっと息を吸い込み、目をうるうると潤ませた。
そして、両手を胸の前でギュッと握りしめ、ディートリヒの軍服の裾を弱々しく引っ張った。
「お父様……。私、あの子を助けてあげたいの。あの子が死んじゃったら、ルル、悲しくて、夜も眠れなくなっちゃうかもしれない……。ルルのお願い、聞いてくれませんか……?」
パチリ、と涙の粒を一つ、計算通りに頬へ落とす。
「……ッ!!!」
ディートリヒが、胸を押さえて大きく仰け反った。
「か、閣下! 息をしてください、閣下!!」
背後でギルバートが慌てて父を支える。どうやら破壊力が高すぎたらしい。
「あ、あぁ……私のルルが、初めて私に命乞い以外のワガママを言ってくれた……。しかも、その慈悲深さたるや、まさに女神……っ!」
「お父様?」
「分かった! 分かったともルル! お前がそこまで言うなら、このガキの命は助けてやろう! ただし、お前の部屋から半径五十メートル以内には絶対に近づけんからな!!」
(よし、チョロい!)
こうして、路地裏で死にかけていた銀髪の少年は、オルディス公爵家に引き取られることになったのだ。
数時間後。公爵邸。
「……ここは、どこだ」
少年——ノアは、ふかふかの巨大なベッドの上で目を覚ました。
つい数時間前まで、泥水と血にまみれていたはずの自分の体が、ピカピカに洗い上げられ、肌触りの良い最高級のパジャマに包まれている。
周囲には、見たこともないような豪華な家具。
メイド長のマルタたちによって、文字通り「お嬢様の命令とあらば、全身の毛穴まで磨き上げる」勢いで風呂に入れられたのだ。
「目が覚めた?」
扉が開き、ノアの目に飛び込んできたのは、路地裏で自分の暴走を止めてくれた、あの純白の少女だった。
黒曜騎士団の護衛を部屋の外に待たせ、彼女は小さなお盆を持ってベッドに近づいてくる。
「……なんで、オレを助けた」
ノアは、警戒心をむき出しにして少女を睨んだ。
「オレは化け物だ。急に力が暴走して、周りのものを全部壊しちまう。親にも捨てられた。……あんたみたいなどこかの貴族のお嬢様が、気まぐれで拾っていいおもちゃじゃない」
大人への不信感と、自分自身への絶望。
前世で施設にいた子供たちと同じ、傷ついた獣の目をしていた。
「おもちゃなんて思ってないわ」
私はベッドの脇に座り、お盆に乗っていた温かいスープの器をノアに差し出した。
「お腹、空いてるでしょ。まずはこれを飲んで」
「いらねぇ。どうせ毒が……」
「毒なんて入れない。だって、あなたにはこれから、うちの公爵家のためにいーっぱい働いてもらわなきゃいけないんだから」
「……は?」
ノアが呆気に取られている隙に、私はスプーンでスープをすくい、ふーふーと冷ましてから彼の口元に無理やり押し当てた。
「ほら、あーん」
「っ!? 自分で飲め……ぐっ」
口の中に入ってきたスープの味に、ノアの動きがピタリと止まった。
鶏肉と野菜をじっくりと煮込んだ、優しくて、信じられないほど温かい味。
生まれてからずっと、残飯と泥水しか口にしてこなかった彼にとって、それは脳が痺れるほどの衝撃だった。
「美味しい?」
私が微笑んで尋ねると、ノアの赤い瞳から、ポロリと涙がこぼれた。
「あ……」
ノアは自分の顔に手を当て、戸惑ったように涙を拭おうとした。だが、拭っても拭っても、涙は止まらずに溢れてくる。
「っ、ひぐ、ぅ……っ」
「いいよ。泣いてもいいよ。怖かったね、痛かったね。……でも、もう大丈夫」
私は、彼の銀色の髪をそっと撫でた。
「あなたの魔法は、誰も傷つけないための力にできる。私が、それを教えてあげる。だから……今日から、ここがあなたの家よ。ノア」
ノアは、両手で顔を覆いながら、獣のように声を上げて泣きじゃくった。
これまでの人生のすべての絶望と痛みを吐き出すかのように。
そして、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、ベッドの脇で優しく微笑む私を見上げた時。
ノアの心の中で、何かが完全に書き換わった。
(あぁ……神様だ)
彼にとって、この世界は冷たくて、痛くて、残酷なだけの地獄だった。
けれど今、目の前にいる黒髪の少女だけが、暗闇の中で唯一光り輝いて見えた。
「オレは……」
ノアはベッドの上に立ち上がり、私の足元にひざまずいた。
そして、私の純白のドレスの裾を震える手で掴み、自分の額をそこに擦り付けた。
「オレの命も、この恐ろしい力も……全部、あんたにあげる。あんたのためだけに使う。だから……オレを、捨てないで」
それは、帝国最強の魔法使いとなる少年が、生涯ただ一人の絶対的な主に出会い、狂信的な忠誠を誓った瞬間だった。
(……えっと。とりあえずお世話係として拾ったつもりだったんだけど、なんかすごく重い誓いを立てられてる気がする……?)
私は内心で少し焦りながらも、「うん、よろしくね」と彼の手を優しく握り返すのだった。




