第16話:路地裏の天才児、ノアとの出会い
ゼニス魔導工房の大改革(という名のお片付けと分業化)を終え、私たちはホクホク顔で帰りの馬車に揺られていた。
「いやぁ、お嬢様は本当にすごいですぜ。あの偏屈なザッカリアス工房長が、最後はお嬢様の靴にキスしようとしてましたからね(俺が全力で蹴り飛ばして止めましたが)」
向かいの席で、ギルバートが呆れたように、しかしひどく誇らしげに笑う。
隣に座るディートリヒも、私の髪を優しく梳きながら深く頷いた。
「当然だ。私のルルは、武力だけでなく知性においても帝国一なのだからな。皇帝の座などいつでも奪えるぞ」
「お父様、謀反の計画を立てるのはやめてください」
相変わらずの親バカ全開の会話を交わしていると、ふいに、馬車がガクンと速度を落として停止した。
帝都の華やかな大通りから少し外れた、入り組んだ裏路地の近くを通りかかった時のことだ。
「……どうした、御者」
ディートリヒの声が、一瞬にして「父親」から「冷酷な公爵」のものに変わる。
「も、申し訳ありません、閣下! 路地から柄の悪い者たちが飛び出してきまして……」
私は気になって、そっと窓のカーテンをめくった。
夕闇が迫る薄暗い路地裏。そこには、酒瓶を手にした数人の大人のゴロツキたちが、薄汚れたボロ布のようなものを囲んで、ゲラゲラと下劣な笑い声を上げていた。
いや、ボロ布じゃない。
丸まって震えているのは、一人の小さな子供だった。
「この気味の悪いガキが! 盗みでもしようってのか!」
「目つきが気に入らねぇんだよ! ほら、なんか言ってみろ!」
ゴロツキの一人が、容赦なく子供の背中を蹴り上げる。さらに別の男が、足元にあった石を拾い、子供に向かって投げつけた。
石は子供の額に命中し、タラリと赤い血が流れるのが見えた。
「っ……!」
私は息を呑んだ。
前世、施設で育った頃、理不尽に大人から怒鳴られた記憶がフラッシュバックする。
助けに行かなければ。そう思って腰を浮かせた瞬間——。
ピキッ……、と。
空気が、ガラスのようにひび割れる音がした。
「……ん?」
ディートリヒが、ピクリと片眉を上げた。ギルバートも、スッと大剣の柄に手をかける。
路地裏の空気が歪んでいた。
蹴られ、石を投げられ、血を流してうずくまる少年の体から、ドス黒いモヤのようなものが立ち上っている。
それは陽炎のように周囲の空間をグニャグニャと歪め、ゴロツキたちの足元のアスファルトを、音もなく『えぐり取って』消滅させてしまった。
「な、なんだぁ!?」
「ヒィッ! 地面が消えたぞ! こ、このガキ、化け物か!?」
パニックに陥るゴロツキたち。
馬車の中にいる私にも、肌が粟立つような、禍々しくも圧倒的な魔力の奔流が伝わってきた。
(闇属性と……空間魔法!?)
ゲームの知識が警鐘を鳴らす。
両方とも、帝国では数百年単位でしか現れない超希少かつ、制御が最も困難な危険属性だ。
「……ほう。スラムの孤児が、空間属性持ちとはな」
ディートリヒが、ひどく冷めた目で少年を見下ろした。
「だが、恐怖と怒りで魔力が完全に暴走している。あれはもう制御できん。数分後には自分自身ごと、あの路地裏一帯の空間を吹き飛ばすだろう」
ディートリヒは、虫を払うような手つきで窓の外へ指を向けた。
その指先に、圧倒的な密度の氷の魔力が収束していく。
「ルルの馬車に、あのような下賤な魔力の残滓が触れるのは不快だ。周囲のゴミごと、私が消し去ってやろう」
彼の言葉には一切の感情が含まれていなかった。
領民であろうと、子供であろうと、彼にとって「自分と娘に害をなす可能性のあるもの(=爆発寸前の爆弾)」は、ただの排除対象でしかない。
ディートリヒの指先から、絶対零度の死の光が放たれようとした、その瞬間。
「ダメっ!!」
私は、反射的に馬車の扉を蹴り開け、外へと飛び出していた。
「なっ!? ルルッ!?」
ディートリヒの悲痛な叫びを背に受けながら、私はドレスの裾を翻して路地裏へと走った。
空間が歪み、パチパチと黒い火花のようなものが散る危険地帯。
ゴロツキたちはあまりの恐怖に腰を抜かして動けなくなっている。
その中心で、10歳ほどの、銀色の髪が煤で汚れた少年が、両手で頭を抱えながら、声にならない叫び声を上げていた。
怖いのだ。
彼自身も、自分の中から溢れ出す、制御できない恐ろしい力に怯えているのだ。
前世の記憶の中で、誰にも助けてもらえずに一人で泣いていた私と、全く同じだ。
「危ねぇ、お嬢様!!」
ギルバートの制止の声も聞かず、私は歪む空間の境界線——少年の目の前へと飛び込み、両手を大きく広げて立ち塞がった。
「やめて、お父様!!」
私の背後には、制御を失った危険な魔力の渦。
そして私の正面には、氷の魔法を構えたまま、顔面を蒼白にさせたディートリヒ。
「ル、ルル……っ! 離れなさい! そのガキは危険だ、自爆して、お前まで巻き込まれてしまう!!」
ディートリヒの声が、恐怖で裏返っていた。
自分が放とうとした魔法の射線上に、世界で一番大切な娘が飛び込んできたのだ。彼の手はガタガタと震え、収束していた氷の魔力はあっけなく霧散した。
「違うの、お父様! この子は化け物なんかじゃない!」
私は、背後でうずくまる少年に向かって振り返った。
少年は、虚ろな、絶望に染まった赤い瞳で私を見上げていた。
自分を虐げる大人たち。
自分を殺そうとする恐ろしい公爵。
そして、突然目の前に現れた、同い年くらいの、純白のドレスを着た少女。
「……あ、あァ……」
少年から溢れる黒い魔力が、私を飲み込もうと触手を伸ばしてくる。
「っ……!」
肌がヒリヒリと痛み、空間の歪みが私のドレスの裾を少しだけ削り取った。
ギルバートとディートリヒが血相を変えて飛び出してくるより早く。
私は、少年に向かって手を伸ばし。
その汚れた小さな両頬を、両手でパチンッ! と強く挟み込んだ。
「痛いよ。泣かないで」
私の言葉に、少年は息を呑んで目を見開いた。
「大丈夫。もう石を投げる悪い人たちは、お父様が追い払ってくれるから。あなたの怖い魔法も、私が止めてあげるから」
私は、無理やり微笑んでみせた。
実は空間魔法のプレッシャーで膝がガクガク震えていたが、ここは気合いだ。
「深呼吸して。私を見て。……私を、傷つけたい?」
「……ちが、う」
少年から、掠れた、泣きそうな声がこぼれた。
「ちがう、オレは、ただ……痛くて、怖くて……だれか、たすけてって……っ」
「うん。分かってる」
私がその銀色の髪をそっと撫でると、少年の瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
同時に、路地裏を包み込んでいた禍々しい黒い魔力が、嘘のようにスッと霧散して消えていく。
彼が落ち着きを取り戻したことで、魔力の暴走が収まったのだ。
「……よかった。いい子ね」
私はホッと胸を撫で下ろし、へたり込みそうになる足に力を入れた。
その直後、私の体は、ものすごい力で背後から引っこ抜かれるように抱き上げられた。
「ルルーティアーーーッ!!!」
振り返ると、完全に涙目で、魂が口から半分抜けかかっているディートリヒが、私を骨が軋むほどの力で抱きしめていた。




