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第13話:メイド長マルタの苦悩と、エクセルの概念

執務室の「ブラック企業化」を阻止し、文官たちから神のように崇められるようになって数日後。

私は、公爵邸の裏側——厨房や使用人の待機室があるエリアを、日課のお散歩(という名の屋敷内パトロール)で歩いていた。


「……はぁ。また石鹸の在庫が合わない。誰ですか、予備庫から勝手に持ち出したのは。それに、南館の清掃シフト、今日の午後はすっぽりと穴が空いているじゃありませんか!」


いつもは完璧なポーカーフェイスを崩さないメイド長のマルタが、帳簿の束を抱えながら、珍しく頭を抱えて唸っていた。

周囲のメイドたちも、ピリピリとした彼女の空気に怯えてオロオロしている。


「マルタ、どうしたの?」


私が声をかけると、マルタはハッとして、すぐにいつもの凛とした表情を取り繕った。


「お、お嬢様。このような裏方のむさ苦しい場所へ、いかがなさいましたか。申し訳ございません、少々お見苦しいところを……」

「ううん。マルタが困ってるみたいだったから。お仕事、大変?」


私が小首を傾げて尋ねると、マルタは少し躊躇った後、深いため息をついて帳簿を机に置いた。


「実はお恥ずかしい話なのですが……。お嬢様が執務室の業務を劇的に改善してくださったおかげで、旦那様ディートリヒの決裁のスピードが恐ろしく早くなりまして」

「うんうん」

「それに伴い、公爵邸に出入りする来客や、新しく雇い入れる使用人の数が急激に増えたのです。現在、この屋敷で働く使用人は優に五百人を超えております」

「ご、五百人……!」


(ちょっとした中規模企業の社員数じゃない……!)


「これまでは、私と数人の古参のメイドの『記憶』と『経験』で、誰がどこを掃除し、何の手入れをするかという配置を決めておりました。備品の数も、足りなくなったら買い足すというやり方で回っていたのですが……」

「急に人数が増えて、頭の中だけじゃ管理しきれなくなったのね」


マルタの言葉に、私は深く頷いた。

前世の派遣先でもよくあった光景だ。会社の規模が大きくなったのに、管理体制が昔の「社長あるいはベテランのどんぶり勘定」のままで、現場が混乱するパターン。

完全に属人化してしまっているのだ。


「マルタ。ちょっと、大きな紙と定規、それにペンを貸してくれる?」

「え? は、はい。ご用意いたしますが……お絵かきでございますか?」

「ふふっ。魔法の絵を描くのよ」


マルタが不思議そうに用意してくれた模造紙ほどの大きな紙を、私は大きな机の上に広げた。

そして、定規を使って、慣れた手つきでスススッと縦と横の直線を引いていく。


(前世で散々作った、エクセル……もとい、スプレッドシートの概念よ!)


「マルタ。見て。この紙の『縦の列』に、働く人たちの名前を書きます。そして『横の行』に、今日の日付と時間を書くの」

「縦と横……ですか?」

「そう! そして、例えばメイドのアンナさんが、今日の午前中に南館を掃除するなら、アンナさんの名前と、午前中の時間が交わるところの四角に『南館』って書くの」


私は、サラサラと見本となるシフト表(ガントチャートの簡易版)を書き上げた。


「こうすれば、誰が・いつ・どこで何をしているか、この紙一枚を見れば一目でわかるでしょ? 空白になっている四角があれば、そこは『誰も仕事をしていない(手が空いている)』ってことだから、急なお客様が来てもすぐに指示が出せるわ」


マルタと、周囲に集まってきたメイドたちは、私の描いた表を見て息を呑んだ。


「これ……これなら……!」


マルタの手が、震えていた。

彼女の優秀な頭脳は、即座にこの表の『圧倒的な利便性』を理解したのだ。


「さらにね、石鹸やシーツの数も同じようにできるわ。縦に『品物の名前』、横に『今日使った数』と『残りの数』を書くの。使ったら必ずここに数字を書くルールにすれば、マルタがわざわざ倉庫に数えに行かなくても、いつ買い足せばいいかすぐに分かるわよ!」


これも、前世の備品管理の基本中の基本だ。

だが、この異世界において、複雑な魔法陣の概念はあっても、労働力を「縦軸と横軸」で視覚化・共有化するという現代の事務概念は、完全に未知のオーパーツだった。


「お、お嬢様……っ!」


マルタが、バタン! と大きな音を立ててその場に両膝をついた。


「素晴らしい……! あまりにも合理的で、一切の無駄がございません!! 私は今まで、自分の頭の記憶力だけを頼りに、この膨大な情報を処理しようとしておりました。しかし、この『魔法の表』があれば、私だけでなく、誰もが一目で屋敷の状況を把握できます!」

「でしょ? これでマルタも、ゆっくり休める時間が増えるわね」


私がにっこりと笑うと、マルタの目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。


「お嬢様……! あなた様は、どこまで我々を思いやってくださるのですか……っ! ご自身の遊ぶ時間を削ってまで、我々下働きの者の苦悩を救ってくださるとは!!」

「えっ、ちょ、マルタ、泣かないで!」

「皆の者!!」


マルタは振り返り、集まった数十人のメイドたちに向けて、厳かに、しかし熱狂を帯びた声で宣言した。


「これより、この表を『お嬢様の導き』と呼称し、オルディス公爵邸の絶対ルールとして運用します! いいですね、これにお嬢様の手で『お仕事』と書かれた者は、誇りを持って任務を遂行しなさい!!」

「「「はいっ!! マルタ様、お嬢様!!」」」


メイドたちが一斉に平伏し、私の描いたただのシフト表を、まるで聖遺物のように崇め始めた。


(……いや、ただのシフト表なんだけど……)


私はまたしても、この屋敷の人たちの「極端なまでの忠誠心」に引きつった笑みを浮かべるしかなかった。


しかし、この日を境に、公爵邸の裏側のシステムは劇的に改善された。

無駄な動きが減ったことで、屋敷の中は常に完璧に磨き上げられ、温かい食事が最高のタイミングで提供されるようになった。

そして何より、「ルルーティアお嬢様こそが、この屋敷の真の主であり、絶対の救世主である」という認識が、数百人の使用人たちの間で完全に決定づけられたのだった。

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