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第11話:9歳の誕生日と、ブラックすぎる執務室

「ルル、9歳の誕生日おめでとう。これは私からのささやかなプレゼントだ」


父ディートリヒが、世界で一番美しい悪役顔に、蕩けるような甘い微笑みを浮かべて差し出してきたもの。

それは、宝石箱でもドレスでもなく、一枚の古めかしい羊皮紙だった。

そこには精緻な地図と、何やら難しそうな帝国の公印がいくつも押されている。


「お父様、ありがとうございます。……えっと、これは?」

「うむ。南の海に浮かぶ、常夏の無人島だ。気候が温暖で、ルルの保養地にちょうどいいと思ってな。昨日、まるごと公爵家の領地として買い上げておいた。もちろん、名義はお前のものだ」

「…………無人島」


私は羊皮紙を持ったまま、完全に真顔になった。


(いやいやいやいや!! 規模がおかしいでしょ!!)


前世の私にとって、誕生日のプレゼントといえばケーキと、せいぜい数千円のちょっといい化粧品くらいのものだった。

それが、異世界の筆頭公爵家にかかれば「ちょっとそこのコンビニでスイーツ買ってきたよ」くらいのテンションで「島」になるらしい。


「お気に召さなかったか? であれば、次は北の雪山を……」

「違います! すごく嬉しいです、でも島は大きすぎます!」


私は慌てて羊皮紙をテーブルに置き、父の手をきゅっと握った。

この一年で、父の「愛する娘に世界中のすべてを与えたい病」の対処法はだいぶ上達した。


「私、島よりも、お父様と一緒に食べるケーキの方が嬉しいです。お父様が忙しくて一緒に島に行けないなら、私、島なんかいりません」

「ル、ルル……っ!!」


私のあざとい(しかし切実な)言葉に、ディートリヒは案の定「あぁっ、私の天使……!」と崩れ落ち、島購入計画はなんとか白紙(正確には公爵家の直轄領として有効活用する方向)に戻った。


しかし、その日。

私を抱きしめるディートリヒの顔を間近で見て、私はある異変に気がついた。


(……お父様、目の下にクマができてる)


元々、血の気のない真っ白な肌だ。少し寝不足になるだけで、紫のアメジストの瞳の周りに、うっすらと暗い影が落ちているのが分かってしまう。

ただでさえ魔王のように恐ろしい美貌が、クマのおかげで「三日三晩、呪いを煮詰めた直後の大魔王」のような凄みを増していた。


「……マルタ。最近、お父様のお帰り、遅くない?」


その日の午後。お茶を淹れに来てくれたメイド長のマルタに、私はこっそりと尋ねた。

マルタは少しだけ表情を曇らせ、小さくため息をついた。


「はい、お嬢様。実は最近、公爵家の領地が急激に拡大しておりまして。それに伴い、各方面からの陳情書や、交易の申請、他国の貴族からの親書などが山のように届いているのです」

「山のように……」

「ええ。旦那様は、お嬢様との時間を作るために、昼間のうちに猛烈な速度で執務をこなしていらっしゃいますが……夜間や、お嬢様がお休みになられた後、深夜まで執務室に籠りきりで書類と格闘されているご様子です」


(それって……完全に、ブラック企業の働き方じゃない!!)


私はハッとして立ち上がった。

ゲームのシナリオ通りなら、ディートリヒの破滅フラグは「ヒロインたちに討たれる」ことだ。

しかし、現実の彼は今、別の恐ろしいフラグを立てようとしている。


『過労死フラグ』である。


愛する娘を溺愛するあまり、昼間は娘との時間を捻出し、夜中に徹夜で超巨大な公爵家の業務を一人で回しているのだ。いくら最強の魔法剣士とはいえ、人間の体だ。いつか限界が来るに決まっている。


(そんなの絶対にダメ! せっかく血まみれの破滅フラグを折ったのに、過労で倒れられたら元も子もないわ!!)


前世、ブラック企業に派遣されて胃潰瘍になりかけた記憶が、私の背中を強烈に押した。


「マルタ、お父様にお茶を淹れて! 私、執務室に行ってくる!」

「えっ、お嬢様!? しかし、今は文官たちもいて立て込んでいる時間帯で……」

「大丈夫、ちょっとお顔を見るだけだから!」


マルタが止めるのも聞かず、私はティーセットの乗ったお盆をメイドから受け取ると、小走りで執務室へと向かった。


見張りの騎士たちは、私の姿を見るなりビシッと最敬礼して扉を開けてくれた。この一年で、黒曜騎士団はすっかり私の私兵(という名のファンクラブ)と化しているのだ。


「お父様、お茶をお持ちしま……」


重厚な扉を開け、笑顔で声をかけようとした私は。

執務室の中の光景を見て、絶句した。


「……なん、ですか、これは」


そこは、まさに『地獄』だった。

血の海ではない。物理的な地獄だ。


広大な執務室の至る所に、書類の山、山、山。

床から天井に届きそうなほど積み上げられた書類の塔がいくつも乱立し、まるで紙でできた迷宮のようになっている。

その紙の迷宮の中を、目の下に真っ黒なクマを作った数人の文官たちが、フラフラとゾンビのような足取りで歩き回っていた。


「閣下……東の国境線の防衛予算案、見つかりません……っ」

「探せ! 昨日、そのあたりの山に積んだはずだ! ……いや待て、あれは南の治水工事の陳情書だったか?」

「ひぃぃっ! 先週提出したはずの隣国の親書が、ゴミ箱の横に落ちて……っ! 破れてますぅぅ!」


(終わってる。……この現場、完全に終わってるわ……!!)


私は、お盆を持ったままワナワナと震えた。


前世で、私が派遣された会社の中でも「最悪」と呼べるクライアントのオフィスと全く同じ惨状だ。

重要書類と、どうでもいい雑記と、急ぎの決裁書が、一切の分類もされずに「とりあえず積まれている」状態。

探し物をするだけで一日の大半の時間が消滅し、残業が雪だるま式に増えていく、最悪の負のスパイラル。


「……ルル? どうした、こんなむさ苦しいところに」


紙の山の奥から、ディートリヒが顔を出した。

手には万年筆を握りしめ、顔には明らかな疲労の色が浮かんでいる。それでも、私を見た瞬間に無理やり作ったような甘い笑顔を浮かべようとする姿に、私の胸はチクッと痛んだ。


(お父様は、不器用すぎるのよ)


なんでも自分の圧倒的な力(と頭脳)で解決してきたから、「人に任せる」ことや「効率的なシステムを作る」という発想がないのだ。


私は、トンッ、と近くのサイドテーブルにティーセットを置いた。

そして、書類の山に埋もれた文官たちと、疲労困憊の父親を見据え、ふわりと——前世で「絶対に定時で帰る」と決意した時のような、凄絶な笑みを浮かべた。


「お父様」

「な、なんだ、ルル。急にそんな、私を査定するような目で……」

「私、最近お部屋での遊びに飽きてしまったんです」


私は、ペタペタと歩いてディートリヒの執務机に近づき、そこにあった「決済待ちの書類の山(未分類)」に小さな手を置いた。


「今日から、私にもここで『お仕事ごっこ』をさせてくれませんか?」


ただの幼女のワガママに聞こえるセリフ。

しかし、その声には、修羅場をくぐり抜けてきた元・30代派遣社員の、事務処理の鬼としての血が煮えたぎっていた。


ここから、異世界の公爵家に「現代の事務・ファイリング概念」が持ち込まれ、公爵邸の文官たちが幼女(私)の軍門に降ることになるのだが……それは、彼らにとって救済の始まりだった。

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