魔法書
翌朝、あてがわれた部屋を出て朝食をいただく。
朝はこの世界でも慌ただしく、ディアンは学校、アイアンさんもブライアンさんも、仕事に出かけてしまった。
私は何をしてればいいのか分からない。
自分が使ったベッドを整えて、少し片付けて、そうは言っても何も持ってないから片付ける物もない。
あまり暇なのでララさんに、仕事を手伝うと申し入れたら断られてしまった。
「人の仕事を取るものではありませんよ」
「何をしていればいいのか、わからなくて」
「そうですね。庭の散歩でもしていては?」
確かにアイアン家は庭が広い。草木もよく手入れされてる。
遠くに庭師と思われるお爺さんが、黙々と働いているのが見えた。
馬小屋もあった。
放牧しているのか、アイアンさんが乗って行ったのか、今は空っぽだった。
一通り回ったものの、時間はあり余ってる。
薔薇のアーチの下に作られたベンチに座って、ぼんやり空を見上げた。
ここの空は本当に青い。
ここに来なければ、課題をカバンに突っ込んで、そのまま満員電車に揺られてたろうな。朝ご飯なんか食べてる暇がなくて、コンビニでお握り買って、歩きながら口に突っ込んでただろう。
そのまま夕方までノンストップで授業と課題提出。評価と再評価。
宿題を持って電車に揺られ、こなすべき作業を考えながら家路について、提出すべき課題と宿題をやっつける。
寝るのはいつも午前すぎ。四、五時間の睡眠。
あんなに忙しかったのが嘘みたいだ。
風が抜けて気持ち良かった。
新緑が黄緑で綺麗だ。季節は春の終わりといったところかな。
咲き始めの薔薇が香る。
ぼんやり座っていたら、眠くなってきた。
とても、気持ちがいい。
「リン。リン!」
呼ばれて目を開くと、呆れた顔をしたディアンが立っていた。
「あれ? ディアン」
「あのさぁ……。こんな所で寝るなよ。昨日、寝れなかったの?」
「そうじゃないけど、座ってたら眠くなっちゃって」
今日はマントをしていない。
白い光沢のあるシャツとゆったりした黒いズボン。
シャツの袖を捲ってる。
暑いのかな。
良い陽気だもんね。
彼は片手で頭の後ろをポリポリと掻いた。
「暇を持て余してるんだって? ララが言ってたよ。一緒に小屋に来るか?」
「本の小屋よね? 行く!」
思わず即答。本当に暇なんだもの。
ディアンの本小屋に入ると、やっぱり埃とインクの匂いがする。
私、この匂い好きだな。
「俺は本を読むから、あんまり相手はできないと思うけど」
そう言った彼は床に胡座をかいて、分厚い本を手に取った。
その装填の美麗な事といったら、もうそれだけで小屋についてきた甲斐がある。
「すごく綺麗な本だね。ええと、エレメントの召喚と解析?」
私が本のタイトルを読むと、ディアンがあんぐりと呆気に取られて私を見る。
せっかくの美形が台無しになってるぞ。
「読めるのか?」
「え?」
そういえば、読める。
「……読める」
「これは古語で書かれていて、普通には読めないもんだよ?」
「え、んん。でも、読める」
理由は一つしか思い当たらない。
「たぶん。召喚のせいじゃないかな。だって、ここの言葉もわかるし。元の世界とは全然違う言葉のはずだけど、話せてるし」
ディアンは妙に納得した顔になり、片手を顎に当てた。
「……ふぅん」
読んでみたいと思うけど、パッと見ただけで難解だな。
「でも、これ、難しそうだね」
私が少し残念そうに言ったからだろう。
彼は立ち上がって数冊の本を棚から引き出し、私に差し出した。
「この当たりは初歩。初心者向きの魔法書だから、読めるんじゃないかな」
差し出された本がまた、たいそう綺麗な図案の描かれたもので、もう、受け取る手が震えてくる。
薄い板に彫りものを彫った装填。
上から重厚な布が貼られ、糸で丁寧に閉じられている。
こんなの国会図書館に行かなきゃ拝めないだろう。
もしかしたら——博物館の方なのかも。
「読んでいいの?」
「ああ」
中を開くと美麗な図案に取り巻かれた、不可思議な言葉の列。
ああ、すごい。テンションが上がる。
つる性の草のモチーフ、小鳥に花々、小さな虫まで描かれている。
絵の具はきっと自然の物を使ってるんだろうな。
植物と鉱物に油かな?
思わず無言で魅入ってしまう。
「……リン。もしかして、本が好きなのか?」
ディアンが黙ってる私を不思議そうに見た。
「本というか、この図案がね。すごい、緻密。精巧。文字のレタリングも絶妙。これは既に宝物だわ」
彼が目を瞬かせる。
「まあ……本は貴重だけど」
「もうね、この本に出会えただけで、私はここに呼ばれた価値があるくらい」
ディアンはフッと息を飲んだ。
「……そんなに?」
「そんなに。こんな美麗な本が小屋いっぱいにあるなんて、ちょっと奇跡」
「……奇跡」
彼は面白そうな顔をすると弾けるように笑った。
この子が笑うの、初めてみたかもしれない。
可愛いいじゃない。
「そいつは良かったな。リンなら俺が居なくても、ここで本を読んでいいよ」
「ありがとう」
もう明日から暇を持て余すことはないだろうな。
本当は紙とペンも欲しい。
この図案を模倣してみたいから……まあ、望みすぎはよくないよね。
この世界の感じだと、たぶん紙って高そうだし。
その後は二人とも本に集中していった。
読み始めれば、魔法書は非常に興味深くて面白いものだった。
物語や絵本を読んで、魔法使いに憧れなかった子供はいないと思う。
もちろん、私も憧れたよ。
その魔法世界のロジックが、美麗な本の中に書かれている。
本当にエキサイティングだ。
小屋の入り口を誰かがノックする音で、書物の世界から引き戻された。
「坊っちゃま、リンさん。お茶をお持ちしましたよ?」
扉を開いたのは茶器のセットをお盆に載せたララさんだった。
ディアンが立ち上がってお盆を受け取る。
「あんまり静かなんで、違う場所に行かれたかと思いましたよ」
ララさんが笑って私達を見た。
ディアンが苦笑を浮かべる。
「二人とも本を読んでたから」
ララさんがビックリした顔で私を見た。
「リンさん、字が読めるんですか?」
頷くと、彼女はさんざん私を褒めた。
「女性でも学のある方はいますけどね。たいがいの人は本なんか読みませんよ。まして、魔法書なんか。なんたって、難しいですからね。それを読んでしまうなんて。リンさん、すごいんですね」
そして、思い出したように夕飯の支度をしなければ、と言って戻っていった。
「お茶だってさ」
ディアンがカップを渡してくれた。
辺りに紅茶の香りが広がる。
「ありがとう」
受け取って一口飲んで、喉が渇いていた事に気がつく。
時間って不思議。
持て余すほどだった時間も、集中してしまうと、あっという間に過ぎてしまう。
ディアンも本を置いて、紅茶を飲んでいる。彼は、ふっと、私に聞いた。
「リンって歳は幾つなんだ?」
「え? 今年、十九歳になるよ」
「ふぅん」
「ディアンは?」
「十七だよ」
なるほど。世界が違えば高校生なのか。
「じゃ、私の方が二つお姉さんね」
私が笑いながら言うと、彼は少しムッとしたような顔をした。
「たった二つで威張るなよな」
その顔が可愛らしくて、さらに笑ってしまう。
なんだろう。
ディアンと居ると緊張しないみたいだ。
弟ってこんな感じなのかな。




